、と私を呼ぶ声が好きだ。ペンを持つ長い手が好きだ。レンズの奥から探るように見つめる目が好きだ。表情豊かではないけれど時々見せる笑みが好きだ。…挙げ始めたらきりがない。私はどこまで斎藤教授が好きなのだろう。最初はほんの憧れで、けれど今はどうしようもなく大切な人。まさか私がこんな冒険のような恋愛をするなんて思ってもみなかった。けれど教授と過ごしていると思う。ああ、出会うべくして出会ったのだと。 「、寝るのは帰ってからにしろ」 「試験、近くて……寝不足なんです……」 「だからといってここで眠る訳にはいかないだろう」 「…そうですね」 また一つ小さな欠伸をすると、斎藤教授はふっと笑って立ち上がる。片手に私の出したレポートを持ち、ゆっくり近付くと空いた方の手でくしゃりと私の髪を撫でた。また子ども扱いされた気分になって唇を尖らせると、おかしそうに喉を鳴らして笑った。けれど悔しい、そんな仕草一つ一つにこんなにもどきどきしてしまうのだから。彼の言動に動揺しない日が来るのを想像できない。 西日の射し込む研究室。思えばここが全ての始まりだった。斎藤教授の優しさに触れ、私が恋心を自覚するのに時間はかからなかったし、それが膨らんで行くのも早かった。落ち込みもした、恥もかいた、嫉妬もした(いや今もすることはあるけれど)。でもそれ以上に嬉しいこと、楽しいこと、幸せなことがたくさんある。手を繋いだり、抱き締め合ったり、キスをしたり、この人に“私は特別なのだ”と思わせられる行為全てに幸せを感じる。 私の髪から手を離し、またデスクへと戻って行く教授の背中を見つめた。彼を追うように私もそっと立ち上がる。足音を立てないように、そっと。私に背を向けたまま本棚から何やら書類を取り出しているらしい教授は、そんな私に気付く様子もない。どきんどきんとまるで何かのカウントダウンのように喧しく鳴る心臓。狙うみたいに息を潜める。そう、後もう少し――私は手を伸ばした。 「?」 後ろから抱き締めれば、当然上から降って来たのは不思議そうな教授の声。一層私は腕に力を込めてその背に顔を埋める。…普段は私からこんなことをしたりしない。けれどなんとなく抱き締めたくなったのだ。試験勉強で疲れているのかも知れない。人は眠気が大きいと思っても見ない行動に出るものなのだ。だから、私が今何をしたって、何を言ったって、眠気のせいにできてしまう。「、」促すように再度私の名を呼ぶ教授。心の中で「です」と反論しながら、口は違う言葉を紡いでいた。 「好きです、教授」 「…どうした、いきなり」 「好きなんです、好きでいさせて下さい」 すると斎藤教授は私の手をゆっくりとほどき、体を反転させる。向かい合った教授は、困った顔をしていた。困らせたい訳じゃない、急にその言葉を口にしたくなっただけだ。それなのにまだ教授は「何があった」などと言う。疑り深いのも考えものだな、と思いながら「何でもありません」と答えれば、大きな手のひらが頬を撫でる。少し背伸びをすれば重なった唇、ほんの一瞬触れるだけのそれにどこか物足りなさを感じながら、今は私が彼の考えていることを探るみたいにじっと目を見つめた。けれど駄目だ、何も見えて来ない。 私と斎藤教授はちょっと特殊な間柄ではあるけれど、私たちのしていることなんて周りの友人たちと同じだ。勿論、人目は気にしないといけないけれど、特別変わった恋をしているとは私は思わない。一緒に過ごす時間は大切だし、色々なことを話したい、知りたい、そして触れたい。好きになった相手が偶然教授だっただけで、何も変わった感情ではないはず。それに、誰かがいつか言っていた「今の人以外考えられない、これが運命なんだって思った」という言葉と同じことを私は今、斎藤教授に対して思っている。数え切れないほどある大学の中からこの大学を選び、更にこのゼミを選んだ。そうでなければ出会えなかったのだから、これを奇跡と、運命と呼ばずになんて呼べばいいのだろう。 奇跡と運命を同じに考えるのは矛盾しているかも知れない。けれど同時に、紙一重だとも思う。奇跡あればこその運命、運命の裏には奇跡があると。…私は、自分が思った以上に奇跡や運命といったロマンチックなものに魅力を感じているようだ。 「…他の女など目に入らないくらいには、を思っているつもりだが」 「う……」 「分からないと言うなら、二時間でも三時間でも話すか?俺は構わないが、が最後まで耐えられるか保証はしない」 「け、結構です!」 「なら、突然意味深なことを言うな。不安になる」 思いもよらぬ告白を受け、私は真っ赤になって斎藤教授を押し返す。が、当然男女の力の差からびくともしない。逃がすまいと逆にしっかり腰を掴まれてしまった。こうなればもう私に逃げ場はない。最初からもうずっと私は斎藤教授の罠に掛かりっぱなしだ。私がたまに仕掛けてやろうと思っても、結局いつ私が捕まってしまう。どこにいても、何をしていても、私はこの人の張った包囲網の真ん中にいる。包囲網、というと些か物騒だが、詰まる所、この人の生活の一部に私がいるということだ。今となっては自惚れではないと自信を持って言える。揺れることも不安になることもある。けれどそれも手を取って乗り越えて行きたい。まだ靄の掛かった未来ではあるけれど、いつまでもこの手は斎藤教授の手と繋がっていると、確証のない明日にも胸を張って言える。 「斎藤教授でも不安になることなんてあるんですね?」話題を逸らすように問いかければ、けれどこの人は微塵にも動揺を見せず、余裕たっぷりの笑みを見せて言うのだ。「恋愛に不安はつきものだろう」と。ああもう、またやられた――幼稚にも拗ねた私は斎藤教授から顔を逸らす。きっとまたおかしそうにこの人は笑うんだ。 「」 「何ですか」 「心配しなくとも俺の未来にあんたはいる」 「…そうですか」 口ではそう言っておきながら、プロポーズともとれる言葉をこんなタイミングで言われ、内心、どう返せばいいのか分からなかった。なんでこんなにも見透かして行くのだろう、なんで私を安心させる言葉を知っているのだろう。今でこんなにも幸せや愛しさを感じると言うのに、これ以上この人から大切にされたら、一体どうなってしまうのだろう。尽きることのない私のこの人への気持ちは、どうやって伝えて行けばいいのだろう。…答え、言うしかない。 「それだけか?」 「……………………」 「」 「う、嬉しいです、…これ以上ないくらい」 「合格」 ここで私は奇跡に出会い、運命を知った。同じことの繰り返しだった毎日がたくさんの色を覚え、どこにでもいるような学生だった私はこの人の大切な人になった。私たちが外へ飛び出し、共に在る未来を約束するまであともう少し。それまではまだ、秘密は鍵のかかった研究室の中だ。 |