ひらりと、一枚の写真が斎藤教授の手帳からすり抜け、落ちた。拾ってみれば、真ん中にいるのはドレスを着た綺麗な女性と、タキシードを着た男性。どう考えても見覚えのあるその二人は、先生と土方先生だった。どうやら二人の結婚式の時の写真らしい。


「日付……何年か前ですよね」
「ああ」
「あれ…ってことは、先生って…?」
「職場ではややこしいからとと名乗っているが、とうの昔に土方先生だ」


 結婚式での女性は輝いていると言うけれど、写真で見てもこれだけ綺麗なのだ、実際の先生はもっと綺麗だったのだろう。幸せそうな笑顔で写真に映る先生を眺めていると、私まで頬が緩む。まるで写真から幸せのオーラでも出ているかのようだった。もちろんその写真には土方先生と先生だけでなく、沖田先生や斎藤教授、他にも数人仲良さそうな雰囲気で映っている。

 花嫁姿というのは憧れだ。自分にはまだまだ結婚なんて遠い話だけれど、私だっていつかはこんな風に、なんて考えないこともない。現在付き合っている相手がいるとなれば、尚更だ。その相手である教授の方をちらりと見ると、「いいから返せ」と言いながら私の手から写真を奪ってしまった。


先生、綺麗でした?」
「ああ」
「土方先生もかっこいい方ですしね」
「そうだな」
「でも私は斎藤教授が一番ですけど」
「………そうか」


 その微妙な間は何なのだろう。それに、あっさりと返しておいて心なしか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。あまりにもしれっとされると、逆に言った私がとても恥ずかしい。繋げる言葉をなくして黙ってしまえば、ただレポートの添削待ちをしているだけの私は手持無沙汰となる。急に黙ったからか、向けられた斎藤教授の視線から逃げるために机の上へ突っ伏す。ゆっくりと首を巡らせて窓の外を見れば、明日も晴れであろうことを表す真っ赤な夕焼け。ただ、もう夏に差し掛かるこの時期にあの夕焼けは暑苦しい他ない。建物の五階に位置する第二研究室は、既にクーラーが付けられていて快適だ。その分、あの夕焼けの中帰るのかと思うと帰るのも億劫になって来た。


「……斎藤教授が…」


 先生のことをふっ切ることができたのはいつ?…そんな言葉が、つい口から出て来そうになった。なんだ、と、また視線だけをこちらに向ける斎藤教授。「何でもないです」「そんな訳がないだろう」「そんな訳があります」「……」ほら、こんな時に限って名前で呼ぶんだもの。でも本当のことを言ったら斎藤教授は呆れるかも知れない、腹が立つかも知れない。そう思うとまさか本当のことなんて口にできる訳がない。私は必死で代わりの言い訳を探す。えっと、あの、と何度も何度も言い淀んだ後、馬鹿かと言われるのを覚悟で誤魔化した。


「う、うちまで教授が送ってくれないかな、て…」
「………………」
「ほら、だって、今日暑いですし!こんな涼しい部屋を出て歩いて駅まで、なんて暑いじゃないですか!」
「…あんたが暑いのはよく分かった」


 馬鹿丸出しではあるが、どうやら教授は私の言い分を信じたらしい。私はひとまず、ほっと胸を撫で下ろした。まさか本気で教授が私のアパートまで送ってくれる訳がないだろうけど、いや、もしそうだったら勿論嬉しいけれどそんなはずがない。とにかく本音を悟られないことが最重要項目だった私は、危機を切り抜けたことになる。滅多に斎藤教授に勝てることのない私は、安心と共にちょっとした優越感を覚えた。

 またレポートの添削に戻る斎藤教授。そうやって仕事をしている姿は本当に魅力的だと思う。胸の奥がきゅうっと苦しくなるほどに、好きなのだとも思う。ただ一点、斎藤教授だけを見つめる。目があった瞬間、もっと苦しくなるから、どうかこっちを向かないでと思いながら。けれどそんな思いも虚しく、不意に顔を上げた斎藤教授と、私の視線とがぶつかった。


「な、に…」
「帰るぞ」
「え?」
「添削なら終わった。今日はもう帰りだ」
「ちょっと、教授!」


 教授の鞄と私の鞄、その二つを乱暴に引っ掴むと、同じように私の腕も掴んで研究室を出る。がちゃん、といつも通りの鍵を閉める音。ただ違うのは、締められた鍵が部屋の外側からだということ。普段からは考えられない斎藤教授の行動に、訳が分からず腕を引かれるがまま廊下を進んで行く。


「気分でも悪そうにしていろ。そうすればを送って行く口実になる」
「な、」
「まあ、大人しく帰す訳がないが」
「な……っ!?」
「この間も泊めてやっただろう?」


 振り返って不敵に笑う。そんな教授に私が勝てる訳がない。斎藤教授の手が掴む手首、そこからじわじわと体中に熱が広がって行くみたいだ。決して気温の問題だけではない熱に、またどうしようもなく胸の奥が苦しくなる。痛い痛いと叫ぶのに、嫌じゃない、嫌いじゃない痛み。とんだ被虐趣味だと言われそうだけど、きっとそれは今更なのだ。だって今の私はもう、斎藤教授がくれるものなら何でも嬉しいと思ってしまう。こうやって職権乱用してしまう少し強引な所も、私と言う理由があるからなのだと思うと、いけないことだと分かっていてもどうしても嬉しい。私はきっと、誰よりも自分に振り回されている。斎藤教授を好きな自分に振り回されているのだ。



「は、はい」
「嬉しくて仕方ない、と顔に書いてある」
「そ、それは教授でしょう…!?」


 涙目になりながら悲鳴のような反論をすると、斎藤教授は驚くべき速さで私を壁際まで追いやり、片手で顎を持ち上げる。至近距離、鼻がぶつかりそうな距離、息遣いさえ感じる距離、様々な言い方があるのだろうけど、とにかく間近にある斎藤教授の顔。飛び出すのではないかというほど大きくなる心臓の拍動は、私の緊張と期待をそのまま反映している。窓が閉められ、ただ蒸し暑いだけの廊下に、私と斎藤教授、二人きり。真剣な表情を受け止めて、私の首筋を一筋の汗が伝った。


「嬉しくて当然だ。悪いか?」


 そんな言い方をされれば「悪い」だなんて言えるはずがない。そもそも、好意で以て言われた言葉を私が否定も拒否もできる訳がない。言葉だけではない、指を絡め取る行為も、引き寄せられる腕も、重ねられる唇も、真っ直ぐに射抜く視線だって、何一つ私は拒めない。頭の天辺から爪先まで余すことなくきっと私は愛されているのだろうと、それを思えば拒めるはずがない。包み込まれる心地好さを知った今、羞恥心も期待へ変わり、期待は欲になる。

 悪い訳が、ない。言葉を覚えたてのようにたどたどしく答える。そんな私に教授は「良い子だ」とでも言うように優しく髪を撫でた。私から離れて背を向けられると、途端に上手に肺に入る酸素。一度だけ深呼吸をすると、それすら分かったらしい斎藤教授は、小さく肩を震わせて笑っていた。誰のせいだと思っている、と文句を募らせるけれど、私は本当に馬鹿だと思う。講義やゼミでは絶対に見せないそんな表情を見られるのは私だけなのだ、と思うと嬉しくて堪らないなんて。

 この人以外考えられない、そんな風に思う相手ができるだなんて思いもしなかった。








 

(ねえ斎藤教授、)
(もしもそれをあなたに伝えたら)
(応えてくれますか?)





(2011/6/28)


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