寝返りを打つと、ゴツン、という鈍い音がした。ぶつけたのは額。余りの痛みに両手で額を抑える。うう、と漏れた声は掠れていて、意識がはっきりして来ると喉が非常に渇いていることに気付いた。そして更に気付くのは、目の前にあるのが見知らぬ壁だと言うことだ。首を回して天井を見遣れば、それも見慣れないもの。枕もない、ベッドの沈み具合も、部屋の雰囲気も、何もかも見慣れたものではない。ちょっと待て、ここはどこだと一気に冷や汗が身体から溢れる。顔を引き攣らせながら再度反対側へ寝返りを打てば、


「ようやく起きたか」


 私の顔を覗き込む、斎藤教授がいた。




***




 混乱する私に対し、斎藤教授は至極冷静だった。叫びそうになった私を、近所迷惑だと言って思いっきり手のひらで口を抑えられたのだ。そして涙目で真っ赤になる私に、最初から一つ一つ懇切丁寧な説明をして下さった。結論から言えば、何もない。昨日、誕生日を二人きりで祝って欲しいと頼んだ私は、あの後一旦アパートに戻り、着替え、メイクをし直し、迎えに来てくれると言う斎藤教授を待った。それはもう夢のような本当の話で、大学関係者に見つからないよう少し遠くまで出掛け、食事をした。けれどその時のことはあまりの嬉しさと緊張であまり覚えていない。覚えているのは口の中がやけに乾燥していたことと、そのせいで何を食べても飲み込むのに大変な時間を要したことくらいだ。何を話したかなんて、そんなこと覚えているはずがない。けれどあと一つだけ思い出せることと言えば、車を運転している斎藤教授が有り得ないほどかっこよく見えたことだろうか。…それは良いとして。

 ずっと気を張っていた私はかなり疲れたらしく、帰り際には半分寝かけていた。加えていつも通りに髪を撫でてくれる手が心地好かったのもある。お酒なんて一滴も飲んでいないのに、変なテンションになっていたのだろうか、色々と注文をつけていたような、つけていなかったような。最終的に教授は私をアパートまで送り届けるのは困難と判断し、教授の部屋まで連れて帰ってくれたらしい。、史上最悪の粗相を連発した日である。今日が土曜で講義がないのが不幸中の幸いだろうか。どうやら教授も今日はお休みらしい。


「あの、本当に、ご迷惑を…」
「いや、………そうだな」


 肯定してくれる潔さが好きです。申し訳なさでいっぱいになりながらそんなことを思った。とりあえず、昨日の服のままということは、本当に何もなかったのだろう。どこかほっとしながら私は小さく息を吐き出した。…正座をしていたがそろそろ足が痛い(今更畏まっても仕方がないのだけれど)。


「だが、まあ、―――い……た」
「……へ?」


 ぽつりと零された言葉。しかしその全てを聞き取ることができず、私はじっと教授を見つめた。口元を押さえてふいっと顔を背ける教授。「何の事ですか?」首を傾げて問うてみても答えはなく、何でもない、と言って立ち上がるとキッチンの方へ向かって行ってしまった。さっきのあれは、どういう意味だったのだろうか。何か恥ずかしい寝言でも言ってしまったのだろうか。いや、寝ぼけた私はもっと何か、覚えている以上の何かを言ってしまったのだろうか。言うだけならまだいい、何かやらかしたとすれば。…一気に体温が下がる。どうしよう、粗相どころの騒ぎではない。元々夜更かしなんてあまりしない私は、眠気に襲われると酔った時みたいに言動がおかしくなるのだと、以前友人に言われたことがあった。あった、のに。


、朝ごは、」
「私!帰ります!」
「ま、待て、何を…」
「お邪魔しました!」
!」


 鞄を引っ掴んで玄関へ向かおうとする。いや、向かおうとした。慌てる私の腕を掴み、後ろから引き寄せる教授。…私、昨日は確実にお風呂入ってないんじゃないだろうか。咄嗟に思い浮かんだのはそんな恥ずかしい事実で、益々逃げ出したくなって身体を捩って抜け出そうとした。けれどそれは勿論無駄で、しっかりと前へ回された教授の腕は解かれるはずがない。「離して、下さい」「離さん」即答されて私は顔を歪めた。

 穴があったら入りたい、とはこういう時のことを言うのだろう。真っ赤になりながら再度「離して」と言う。それでも離してくれず、むしろ腕の力は強くなるばかり。これはもう、斎藤教授の気が済むまで離してくれることはないのだろう。本当なら今すぐにでも頭からシャワーを被りたい気分なのに、どうしても抜け出すことができなくて、抵抗しかけていた手でそっと教授の腕を掴んだ。


「私、昨日何をやらかしたんですか」
「…聞きたいのか」
「聞いても聞かなくても、恥ずかしいのは同じです」


 呆れるような教授の声に、私も諦めてそう吐き出した。朝日の射し込む中、テレビも何もついていないこの場所に流れるのはちょっとした緊張を纏った沈黙。カウントダウンをするかのようにどきんどきんと早鐘を打つ心臓は、斎藤教授の次の言葉を急かしているようにも思える。やがて一つ小さな溜め息をつくと、「昨日は…」とゆっくりと話し始めた。


「眠気でぼうっとしているが」
「…はい」
「あまりに直接的な物言いをして、だな」
「ど、どんな…」
「その、…何度も、俺を好きだと」


 斎藤教授の言う直接的な言葉による愛情表現というものは、確かに私たちは少ないと思う。誰に聞かれているか分からないという危機感もあるし、私より何枚も上手の斎藤教授相手に言葉で以て表現しても、足元にも及ばないような気がして。だから自然と、呼ばれれば呼ばれるがまま、抱き締められれば抱き締められるがまま、キスをされればされるがまま、受け入れることが答えだった。

 斎藤教授からは顔が見えないのが唯一の救いだ。今にも顔から火が出そうなくらい熱く、真っ赤になっていることを想像するのは余りに容易かった。頬にかかる教授の髪も、背中に感じるいつもより高い温度も、益々私を赤くさせる材料にしかならなくて、のぼせたみたいな感覚に陥る。「嬉しかった」「え…?」「からそういった言葉を聞けることが」苦しいほどに強く抱き締められて、肺を圧迫する。苦しいのに嬉しい、そう表現するのが一番近いだろうか。私もまた、回された腕を掴む手に力を込めた。応えるみたいにそっと。


「思う相手に好意を口にされて、嬉しくない訳がないだろう?」
「あ、そ、それは、ですね……」
「俺もが好きで仕方がない」
「さ、きょ…っ」
「…日本語を話せ」


 ぞくりと背中が何かを這うような、全身が痺れるような、何とも言い難い感覚が襲って来た。くらくらと目眩がする。立っているのにふわふわと浮いているような、まるで立っている気がしない感覚。耳元でそんなことを言うなんて反則だ。昨日の私がどれだけ好きだと言ったのかは知らないが、斎藤教授のそんな一言に勝る言葉なんてこの世に一つとしてない気がする。甘い、どころの話ではないのだ。立っているのもやっと、上手く酸素も取り込めない。真夏のアスファルトの上に放り出された氷のように、今にも溶けてしまいそう。教授こそ一体何を思って突然そのようなことを口にするのか、何も言葉が出て来なくてただ魚のようにぱくぱくと何度も口を開閉させるしかできない。

 好きだと言われれば嬉しい、それは同意する。けれど今この状況でそれを口にするか。呼吸も儘ならない私は思考も正常ではいられない。互いに“好き”だなんて口にしないから、滅多に聞けないその言葉には私が今、動揺している。勿論悪い意味ではないのだけれど、身体が正しく機能しないほどの力を持つその言葉を恨めしく思うと同時に、それでももっと聞いていたいと思う。


「わ、私だって、好き…です」
「何がだ?」
「あの、だから、きょ、教授が、」
「一だ」
「……っ」


 知っているけれど、一度として声に出して呼んだことのない名前。たった三文字。呼びたい、呼べない、呼びたい、呼べない。喉まで出かかって、でも引っ込んで、結局“斎藤教授”と呼んで来た彼の名。それを今、彼自身から求められている。私の口から私の声でその名前を呼べと、遠回しに強要されているのだ。促すようにすぐ耳元で「」と私の名前を呼ばれる。二人きりになれば何度でも呼んでくれた。その度にありふれたこの名前もとても特別なもののように思えて、擽ったくて、けれど嬉しい。

 私も斎藤教授の名前を呼べば、そう感じてくれるのだろうか。特別な名前のように感じてくれるのだろうか。だから、と思ってくれるのだろうか。大きな期待を込めて、私は少し息を吸い込む。指先に力を込めて、消えそうな声で告げた。


「一さん、が、好きです」


 世界が変わる。景色が変わる。この瞬間、本当に一つの境界線が綺麗に消えた。そして何度も何度も繰り返し呼ぶ彼の名は、この世で何よりも愛しい名前になった。








 


「は、はい…っ」
「呼んでみただけだ」
「も、もう…!」
「あんたは呼んでくれないのか?」
「(い、意地悪だ…!)」





(2011/6/15)


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