そわそわするのは気のせいじゃない。私は朝から、いや昨夜からどこかおかしかった。日付が変わると共にそれは増幅して、結局浅い眠りしかできなかったのを覚えている。…過剰な期待だ。だって斎藤教授は知るはずがない、知る術もない、聞かれたこともない。三六五日の内で唯一特別な一日のことを。


「誕生日おめでとう!これ、文香が好きなお菓子の新作」
「わ、ありがとう!嬉しい!」


 朝一の講義が始まる少し前、講義室の前で私は友人に呼び止められた。よく一緒にショッピングに出かける彼女は私の好みなどお見通しで、ここ一か月ほど欲しい欲しいと思っていたそれを手渡され、私は感動する。可愛らしい包装に既に心が弾み、朝から気分は上々だ。いつもであれば金曜日の朝一講義なんて気が沈むばかりなのに、今日はそのことに感謝した。


「でもいきなりどうしたの、文香?」
「何が」
「最近ちょっと変わったみたい。色気づいてる?」
「ば、ばか!」


 色気づいているつもりはないが、きっかけと言おうか、心当たりがあり過ぎて思わず声を荒げてしまう。これでは肯定しているようなものだ。その証拠に彼女も何やら面白そうにこちらを見て笑っている。教えなさいよ何があったのよと肘で突く彼女。何でもないとそればかりを繰り返す私。埒の明かない言い合いを続けていれば、「入口を塞ぐな」と聞き慣れた低い声が後ろから振りかかって来る。どきん、と跳ねる心臓。一瞬で手のひらまで汗をかく。緊張しながら私が口を開くその前に「斎藤教授!」と彼女は声を上げた。

 そう、今日は今から斎藤教授の講義だ。左手首の腕時計をちらりと見れば、もうそろそろ予鈴の鳴る時間。小言を言われる前に着席しよう。…そう思って彼女の腕を引っ張ろうとしたのに、目聡い彼女は斎藤教授がほんの一瞬だけ私の手元を見たことすら見逃さなかったらしい。あろうことか「今日この子、誕生日なんです」などと言い出した。


「誕生日?」
「おまけに色気づいてます」
「ごっ誤解です教授!」
「…そうか。席に付け、講義を始める」


 やけにあっさりとした言葉。何も聞かなかったかのように私たちをスルーして、先に講義室の扉を開けて中に入って行く。拍子抜けした私は何の言葉も出なくて、講義室の前へと進むその背中をぽかんと見つめていた。さすがの彼女も驚いたのか、「やけに冷たいね」と零す。


「祝う義理もないって」
文香もさっぱりしてるし。あんな風に言われてショックじゃない?」
「…別に、教授と学生だし」


 けれど私の言葉には隠しきれない棘があったようで、気まずそうに私から目を逸らすと「入ろっか」と背中を押す。その手は不思議なもので、一瞬にして動けなくなってしまったかのように思った足は、軽く一歩を踏み出す。

 講義の中身なんて全く頭に入って来ない。ノートを取る気にもならないし、テキストも広げたまま、ペンも握ったまま、捲られることがなければ使われることもない。講義がどれほど大切か分からないほど馬鹿じゃない。それに、別に斎藤教授のさっきの言葉に傷付いたわけでもないのだ。なのに何か脱力感を拭い去ることができない。講義をしっかり聞く気がなければ、テキストを目で追うことすらやる気が起きない。講義の間中も斎藤教授の方を見る気にはならなくて、ずっとぼうっと窓の外を眺めていた。別段何かを見るわけでもなく。外に目をやる。

 恐らくそんな集中力散漫な私に斎藤教授は気付いていたのだろう。長いような短いような、時間間隔の麻痺した講義が終わり、携帯を見ていれば「講義が全て終わったら第二研究室に来るように」というメールが入っていた。行くか行くまいか迷う。こんな気持ちのまま斎藤教授に会ったって、今朝の教授の対応に不満たっぷりです、と言っているようなもの。また一つ、子どもな私をみせてしまう。けれど、それでも。


「ごめん、今日講義終わったら寄る所ができたみたい」
「…やっぱり色気づいてんじゃない」


 違うから、と否定しつつ、何か感付いた様子の彼女。だけど事情を察してくれたのか、それ以上は何も言われなかった。




***




 呼び出されてこの研究室に来る時は、いつも緊張する。それはまた真っ赤に添削された課題を返されるのだろうかという緊張が大半だ。けれど今日は違う。いつもみたいに呼び出された目的が読めないから、変にどきどきしてしまう。今回は返される課題もないし、斎藤教授が私を呼びだすとすればそれは今朝の一件だろう。タイミング良くあの講義の後にあんなメールが来たとなれば、尚更。だから躊躇った。返事も送ってないし、この扉の前に到着して早十分、未だノックの一つもできていない。恐ろしいほど記憶力の良い斎藤教授は、水曜にこの時間には私の受ける講義は全て終わっていることは知っている。だからもうこの扉の向こう側に彼はいるのだろう。呼び出しておいていなかった試しもないのだ。

 何度目かの深呼吸をして、今度こそ右手で扉を叩こうと勇気を振り絞る。未だかつてこんなにも緊張してノックをしようとしたことはない。部屋の中にいるであろう斎藤教授は、一体どんな顔をしているのだろう。何を思って、何を考えて、何を言おうとしているのだろう。せっかくの誕生日なのに、こんな暗い気持ちにならなければならないなんて何だか悲しい。…こんこんこん、と三回ノック。ドアノブに手を掛ければ、耳に馴染んだドアの開く音。


「…梅野、です」
「随分遅かったな」


 ドアの前に十分はいました、なんて言えるはずもなく、暗い声で「すみません」とぽつりと零す。するといつものように斎藤教授は定位置である自身の椅子から立ち上がって、私の方へ歩み寄るとすぐ後ろのドアの鍵を掛けた。がちゃん、と私のアパートのそれよりも少し重い音が響く。緊張しているせいで、それにすらびくりと肩が震えてしまった。馬鹿だ、これでは何か変に意識してしまっているみたいだ。こんな関係になったばかりならまだしも、今更。


「あの、今日は何、」


 言いかけて、人差し指を唇にそっと押しあてられる。どきん、と心臓が大きく跳ねた。そのまま持続して、呼吸一つにすら気を遣ってしまう。互いにレンズ越し、その奥に何を考えているのかを探りながら見つめ合う。言葉のないこの空間は酷くもどかしいように思えた。言葉もなく相手の考えを読み取れるほど、まだ付き合いが長い訳でもない。何の耐久戦なんだと頭の中では必死で抗議しながらも、目を逸らすことができない。教授の視線には何か引力でも仕組まれているかと言うほど、強く引き付けられる。何を言わんとしているのか汲み取ろうともしてみるけれど、「遅かったな」以外口にしなかった教授から伝わってくるはずもなく、ただ見つめ合った。この時間に何の意味があるのかとか、何がしたいだとか、聞きたいことは山ほどあるのに。やがて、私から言葉を封じた教授が話を切り出した。


「何を言えばいいのか、考えていた」
「………………」
「さっき口ではああ言ったが、…まさか梅野がこんなに早く来るとは、いや、本当に来てくれるとは思わなかった」
「………………」
「今朝は、済まない」


 飛び出した謝罪の言葉に、思わず目を見開く。するとようやく人差し指を離し、私は元の呼吸を取り戻す。とはいえ、至近距離が持続している今、心臓の拍動が早くなっているのは抑えることはできない。指先一つで私の言葉を封じ、目線一つで呼吸を操る、斎藤教授にその自覚はなくとも、私をどれだけでも好きにできる力があるのだと実感した。

 済まない、なんて。そんな申し訳なさそうに言われてしまったら、許すほかないと思う。優しく頬を撫でられたら、許すしかないと思う。狡い、斎藤教授は本当に狡い。私がこんな風に思っていることまではきっと知らないだろうと思う。だから許してしまう。この間のことだって、今朝のことだって、斎藤教授が直接的な言葉でなくても私を特別視してくれていることをこうして示してくれるから、それでいい、て思ってしまう。惚れた弱みとは、なんて便利な言葉だろう。こんなにも私ばかり忙しく色んなんことを考えて、どきどきしたり、緊張したり、悲しくなったり。それなら私だって斎藤教授を振り回してやらなければ気が済まない。


「じゃあお詫びに一つだけお願いを聞いて下さい」
「何だ」
「私、誕生日なんです。だからこれから祝って下さい、……二人きりで」


 私の言葉に、今度は教授が目を丸くする番だった。言いながら恥ずかしくなる。最後の方は随分と声が小さくなり、段々と目線は下へ落ちて行く。熱くなる頬、背中を伝う汗、聞こえそうなほど大きく鼓動を打つ心臓。髪の先まで緊張が走り、私は斎藤教授の返事を待った。それは数秒だったかも知れない、けれど私には随分と長い時間のように思える。

 ここで駄目だと言われたら今度こそ泣いて飛び出して行ってやる、斎藤教授なんて嫌いだと叫びながら。…そんなことを考えている私の言葉は、教授にしてみれば脅しのようなものだっただろう。けれど斎藤教授はそんな私の言葉に優しく笑って、返事の代わりに頬に一つキスをする。そしてこれまでで一番甘く、耳元で囁いた。


「誕生日おめでとう、文香」








 

「願ってもない申し出だな」
「え?」
「いや、何でもない」





(2011/6/15)


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