「近頃の斎藤教授はお顔が険しい」と仲間内では専ら噂になっていた。そうかな、と呟くと「あんたよっぽど教授に興味ないのね」なんて言われてしまった。むっとしたが心の中で反論させて欲しい。誰よりも斎藤教授に興味があるのは私だと。 「、あれだけ個人指導されておいて気付かないの?」 「悪いものでも食べたんじゃない?」 「あんた教授を何だと思ってるの…」 呆れる友人を余所に、ペットボトルのお茶に口をつける。…「何だと思ってる」なんて、「お付き合いさせて頂いてる方ですが」なんて言えるはずもなく、私は口を尖らせながら大人しく黙った。今の私は、他の女の子の口から斎藤教授の話題が出ることすら嫌だと感じている。同じゼミ生であれば話題を避けられないのは当然だけれど、それでも嫌なものは嫌なのだ。顔が険しい?そんなの、私だって当たり前のように気付いている。私だけが気付けていればそれでいいのに。 …なんて、一丁前に思ってみるけれど、きっと教授から見ればそんな私は酷く幼稚に映るのだろう。大人だと言うのは魅力でもあるけれど、同時に自分の幼稚さを思い知らされる気がして悔しい。だから、そんなこと斎藤教授本人の前では絶対に言いなどしないのだ。そんな私の心境など欠片も知るずのない友人は尚も教授の話を続ける。私は適当に相槌を打つ。 「恨みでもあんの?」 「まさか、感謝しこそすれ、恨みだなんて」 「じゃあもうちょっと態度変えたら?最近の、教授の前でも結構酷い、特に顔が」 「え」 思わず両手で顔を覆う。そんなこと、全く意識していなかったのだ。不平不満を絵に描いたような顔をしていたらどうしようか。失礼どころの話ではない。常識的に考えて、大学生にもなって自分をコントロールできないのは大問題である。今日からはもう少し意識をして臨まなければ。 ただ、最近はなぜか斎藤教授にどんな顔をして会えばいいのか分からない。ゼミ以外でふたりだけで話している時は嬉しくて、幸せで、それが顔に出ているであろうことは簡単に想像できる。けれど、こういう関係になる以前、私がどんな顔で斎藤教授と話していたかを思い出せない。もしかしてそれだろうか、教授の態度もどこかおかしいのは、私のせいなのだろうか。…こういう時は、聞くに限る。 「…というわけです」 「話が分からん」 「だから、斎藤教授の様子がおかしいって噂なんです。何か私に原因があったら申し訳ないと思って…」 「あんたが自分で心当たりがないのなら、何もないのだろう」 「そ……」 そんな言い方、と言いかける。淡々と告げられた言葉は、普段私が指導を受ける時には考えられないほど温度がなくて、萎縮すると共に怖かった。まさか本当に私は知らない内に斎藤教授の気に障るようなことをしてしまったのだろうか。けれど、教授だって大人だ、何かあれば言うような人だし、本当は今の教授の言葉を信じたいと思う。けれど何をどう前向きに捉えたって、言い方だ。突き放されたかと思ってしまう。そんな不安の雲が心の中に立ちこめれば、どんどん私の視線は床へと落ちて行く。「」と呼ばれても顔を上げることができない。小さく「はい」と返事をすると、微かな、本当に微かな溜め息が耳に入る。 まずい、泣きそうだ。泣いては駄目だ。誰かが言っていたのだから、女の涙は男の暴力と同じだって。だから泣いては駄目。 「、顔を上げろ」 「あ……っ」 両手で頬を包んで顔を上げさせられる。至近距離、視界いっぱいに斎藤教授の顔。吐息すら感じる距離に、思わず私は口を引き結び、息をするのも忘れてしまった。瞬きだけをひたすら繰り返し、目の前のこの人の言葉を待つ。恥ずかしくて振り払いたいのに振り払えなくて、目を逸らしたいのに逸らせない。斎藤教授はそこに私を縫い止めるだけの力を持っているような、そんな気がした。やがて、形のいい唇が小さく動き、言葉の続きを紡ぎ出す。 「心当たりがあるのは俺の方だ」 「え、な、何…」 「良からぬ噂が立たないよう、特別扱いはしないようにと言い聞かせていたのだが、逆に厳しくしすぎたか」 「そんな、ことは…」 ないとは言い切れないけれど、甘やかされるより、贔屓されるよりはましだ。それに、「は残れ」と言われて指導されている間は、他に誰の邪魔も入らない、二人だけで過ごすことができる。数少ない、教授といられる空間だ。だからと言って、普段はきちんと学生をしないといけない、そう私も自分に言い聞かせていたのだ。そういう意味では斎藤教授に対してでれでれしてしまわないように気を付けないようにしていたし、もしかすると周りの人から見ればそういった私の態度が“反抗的”に見えたのかも知れない。だとすれば、私も教授もただ同じことをしていただけということだろうか。 「少しでも気を抜けばだけそういう目で見てしまう。だから、だな…」 「わ、分かりました!もういいです、大丈夫です…!」 「待て、まだ話が、」 「あの、次の講義がありますし…!」 言ってぐいっと胸を押し返すけれど、逆にその腕を掴まれてますます私は逃げ道を失ってしまった。真っ赤になる私、困った顔をした教授。無言の空間が酷くもどかしい。何か言った方が良いのだろうか、言われるのを待った方が良いのだろうか。でも私が今、口を開いたら「離して下さい」なんて言葉が飛び出して来そうで怖い。…本当は離して欲しくないという気持ちもある。緊張するけれど、恥ずかしいけれど、やっぱり二人で過ごせる時間が限られている今は、こうしてほんの少しでも触れあえる時間が嬉しくて仕方ない。それでもやっぱり恥ずかしい。二つの矛盾した気持ちが交錯して頭の中がぐしゃぐしゃになる。 「次の講義などないだろう?」 「それ、は、あの…!」 「まだとは話したいことがある。…嫌か?」 「教授……っ!」 卑怯だ、教授は卑怯だ。そんな風に言われたら嫌だなんて言えないに決まっている。それすら見透かしていそうで私は奥歯を噛みながら目線を斜め下に落とす。すると窓から差し込む光のせいで、教授とこんなにも近くにいることが影にも現れているのが目に入った。握られている手も、くっつきそうなほどに近い額も、全部影で確認できてしまって、それがますます私を緊張させる。 「、答えは」 「……良い、ですよ」 ぼそりと返事をすると、ようやく教授は少し笑って私の頬をその大きな手のひらで撫でた。 |