ガタガタと椅子をしまう音にまぎれて、は残れ、という斎藤教授の声が聞こえた。こういうことは一度や二度ではないため、周りからは「は課題の出来が相当悪いらしい」と噂になってしまった。「もしかして二人は…」という噂が立つよりはましなのかも知れないが、どちらにしろ名誉が傷付けられていることに変わりはない。私は口を尖らせながら研究室に残った。


「…別に良いんですけどね、私は特別頭が悪いなんて噂」
「他に引き留め方がない。仕方がないだろう」


 言うと、斎藤教授は中から研究室の鍵を閉める。最初こそ何をする気なんだと焦ったけれど、大学でそうそう間違いを起こすような人でないことは分かっている。念のため、ということだ。…とは言え、晴れて恋人同士となった私と教授が何もしない訳がなく、普通の教授と学生よりは過剰なスキンシップを含みつつ、課題を、そう、課題を返してもらうのだ。

 学生の本分は勉強、それは分かっている。だからこの真っ赤になって帰って来た課題にも文句はない。教授が特別私に甘いわけでもない。いや、むしろ私に特別厳しい気さえする。どんどん言葉が辛辣になって行っている気がするのは、私に対して遠慮がなくなったということなのだろうか。元より、学生に対してこういうことでは遠慮などなかった彼だが、これでは「は頭が悪い」という噂だって流れるはずだ。それを斎藤教授は知っているのだろうか。…知らなさそうだ。


「――ということだ、分かったか
「…分かりました」
「…不服そうだな」
「まさか」


 また拗ねているのか。課題を引き取ろうと伸ばした手をそのまま掴んで引っ張られると、バランスを崩して斎藤教授の胸に倒れ込む。この時私の口から出たのはまさか、可愛らしい「きゃあ!」なんて叫び声ではなく、「ひぃ!」という何か恐ろしいものを見たかのような声だった。しかもこの人、私がどういう体勢になるかなど全く考えていなかったのだろう。引っ張る、というよりむしろ引き下ろされたと言った方が良い。椅子に腰かけている人間が立っている人間をいきなり引けばそうなるだろう、誰でも。なんとか座面に膝をつけてはいるが、今後一切なにも言わずにこういうことをするのは止して貰いたい。

 そう可愛くないことを思いつつ、心拍数というのは自分でコントロールできるものではないため、心臓は早鐘を打って止まない。頬に当たる斎藤教授の髪が擽ったい。けれどそれ以上に、私の身体を支える手の大きさや力の強さにどきどきする。斎藤教授が黙ってしまったせいで、心臓の音なんて簡単に伝わってしまうんじゃないかと心配になった。それがそのまま緊張になり、身体が固まって動かない。


「まだ緊張しているのか?」
「まだって…!」
「先が思いやられるな」
「さ、先……っ!?」


 背中を嫌な汗が伝う。教授の言った言葉を反復するだけの私に、教授はおかしそうに耳元で笑った。…からかったな。


「あ、あのですね…!私、これまで一度も、」
「静かにしろ、
「ん゛っ!?」


 言葉を遮るように手で口を塞がれる(前にもこんなことがあった気がする)。大人しくそれに従って静かにしていると、ドアの外から足音が聞えて来た。そしてそれはドアの前でぴたりと止まった。思わず息を潜める私と斎藤教授。まずい、声が外まで響いていただろうか――そんな私たちの間に緊張が走る。嫌な緊張もあったけれど、こんな密着した状態で素手で口を塞がれるなんて、顔が上気しないわけがなかった。息を止めて斎藤教授に視線をやると、彼もまた緊張した面持ちでドアの方を見つめている。不謹慎だけれど、じわじわと体温が伝わって来たり、すぐそこに感じる息遣いに平然としていられるほど、私は男慣れしていない。目眩がする。

 けれど無情にもドアはノックされる。てっきり斎藤教授は返事をするものだと思っていたのに、依然私の口を塞いだままで、応える気配はない。…この人、居留守を使う気か。なんて教授だ。出なくていいのかと目で訴えるが、そんなこと知るものかとでも言うように私の髪に口づける。


「〜〜〜〜!?」
「しーっ」


 訪問者のことなんてそっちのけで、髪、額、頬と唇を落として行く。真っ赤になっている私を面白がりからかっているのか知らないが、喉からは今にも悲鳴が漏れそうでひやひやする。擽ったいのと恥ずかしいのとで離れたいのだけれど、それを許さないのは腰に回された腕。少し身じろいだだけで椅子が鳴るから、動かないようにと固定しているのだろうけれど、それにしても力が強くて抜け出せる気がしない。

 今頃ドアの外では訪問者が斎藤教授を待っているだろうに、そんな少しの罪悪感と、恥ずかしさと、でも離れがたいのと、色々な気持ちの狭間で私は揺れる。いつの間にか口に宛がわれていた手はなくなっているけれど、叫び声を上げないために自分の両手で口元を覆う。必死な私を見ておかしそうに笑う斎藤教授は余裕綽々と言った感じで、私ばかりがどきどきしてすごく悔しい。

 滑らせるように肌の露出している部分へ次から次へと口付けて行く斎藤教授。耳朶や首筋に唇が這った時にはさすがにぎゅっと目を瞑って身体を小さくする。いつ外に聞こえるかひやひやして仕方ないのに、この人はそれすらまるで楽しんでいる。なんでこんなに手慣れているの、この間は私と同じくらい、あんなにも緊張していた癖に。


「…行ったな」
「…………」
「もういない。、手を外しても大丈夫だ」
「…信っじられない…!」


 涙目で睨みつけると、私などお構いなしに今度は唇にキスをされる。「ん゛ん゛っ」また潰されたような変な声が出てしまった。…こんな時になんだけど、もうちょっとこう、可愛げのある声って言うのはでないものだろうかと思う。これはもう幼いころからの性質だから直らないのだろうか。…惚れた弱みというのはこういうことを言うのだろうか、とも思う。どれだけ悔しくても、信じられないようなことをしても、この人の前ではできるだけ可愛い子でいたいだなんて。

 居留守を使うのだって、私とこうしているためなんだって思うと、嬉しいやら、愛しいやら、…やっぱり後ろめたいやら。


「斎藤教授って、意外と危ない橋渡るの好きですね」
「だとしたらのせいだな」
「なんですかそれ」
「まさか幾つも年下のあんたに翻弄される日が来るとは思わなかったということだ」
「い、今に斎藤教授がどきっとするような女性になってみせます…!」
「それは楽しみだな」


 絶対信じてない。コドモの戯言だって思ってる。好きだけど悔しい。悔しいけど好き。

 自分にないものを持っている人を好きになる、なんて昔誰かが言っていたけれど、本当にそうなのかも知れない。私にはない冷静さと、落ち着きと、知識。つまり、大人。私からすれば憧れの塊のような存在。


「それまでちょっとはこういうことに付き合ってあげてもいいですよ」
「その言葉に嘘はないな?」
「う、うそはありません…………多分」


 大人だって感じる瞬間ももちろん好きだ。課題やパソコン画面を見つめる目、返却された課題に書かれた綺麗な字、椅子に座って私を見上げる時の視線、私を支える腕の力強さ。けれど、告白された時の少し赤くなった顔とか、結構独占欲の強い所とか、沖田先生に張り合っては負かされている所とか、講義やゼミ中だけでは知ることのできない斎藤教授を知って、もっと好きになった。そう言う所はもしかしたら似ているかも知れない。今はそうやって、共通点と相違点を見つけることにすら幸せを感じている。時々斎藤教授がこういうぶっ飛んだことをしたりするけれど、それはきっと私にはできないことだから、だから許せちゃうのかも知れない。

 何となくまた斎藤教授の目が怪しく光った気がするけれど、今度こそ離れるために椅子から足を下ろそうとしたら、またとどめにキスをされてしまった。…この人に仕掛けるには、私なんて何百年も早い気がする。








 

「ではもう少し付き合ってもらう」
「今日とは言ってません!」





(2011/1/9)


←BACK TOP NEXT→