先生は俺が高校二年の時、この学校へ教育実習に来ていた。彼女の教育実習への向き合い方や考え方に惹かれていたことは違えようのない事実だ」


 人として憧れていただけだと言われるかも知れないが、と斎藤教授は少し声を落として零した。先生は今も斎藤教授の気持ちを引っ張るものを持っている。今の斎藤教授を象っているもの、その一部には違いないのだ。忘れられない恋を非難するつもりは少しもない。過去を蔑ろにすることの方が余程酷いと私は思う。私が泣きたくなったのは、先生と私を比べたからではないのだ。

 斎藤教授がそんな私の考えに気付いているのかどうかは分からないけれど、私は黙って話の続きに耳を傾けた。


「あらぬ疑いを掛けられたり、妙な噂を流されたこともあった。だが、俺と先生の間には何もなかったし、今だって何もない。いや、何かあったら問題だ」
「問題…?」


 こんなにも喋るこの人を見たことがない、とぼんやり思いながら、最後の言葉を繰り返した。そうだ、と斎藤教授は頷く。あらぬ疑いだとか、妙な噂の内容は、聞かなくても分かる気がした。この間も女の子たちが斎藤教授の話をいろいろしていたように、大学生になっても恋愛事の噂話は回るのが早く、尾鰭がつくものなのだ。ましてや高校生となれば、同じことの繰り返しである日常の刺激に持って来いなのだろう。教育実習生と実習先の生徒、一種のタブーというか、スリルたっぷりと思われる関係における恋を話題にするのは、いかにも高校生が好みそうなものだ。

 全開の窓から入る風で、教室はすっかり冷えきっていた。私が軽く両手をさすったのを見て、教授は窓を閉めてくれた。本当に細かい所によく気がつくと思う。


「土方先生だ」
「土方先生?」
先生は当時既に、結婚を前提に土方先生と交際していた」
「……え?」
「俺もそれは後から聞いたことだったが」


 目を見開いて言葉を失う私とは裏腹に、斎藤教授はおかしそうに笑っていた。自嘲するでもなく、悔しそうにするでもなく、むしろ見たこともないくらいに優しく笑っている。それもあり、私は反応に困った。ようやく「そうなんですか」とだけぎこちなく言うと、教授はそんな私の反応にこそ困ったようだった。すると教授は窓の鍵もかけ、まっすぐに私の方へ歩いて来る。教室を出る訳でないらしい教授は、私の横を通り過ぎたりせず、目の前で止まった。その距離、およそ二歩分。廊下にいる時以上に互いの呼吸が近く感じる。

 斎藤教授はもう一歩距離を詰めると、私の顔から眼鏡を外して、少々乱暴に濡れている目元を拭った。突然のことにびっくりして、近付いた一歩分、私はまた後退してしまった。


先生のくれた助言のお陰で、俺は今あの大学にいる。…これがどういうことか、なら分かるな?」
「……その、それは、つまり…」


 自惚れても良いのだろうか。斎藤教授が言わんとしていることは、私の想像しているとおりでいいのだろうか。

 教授が先生に惹かれたように、私も斎藤教授に惹かれた。さりげない気遣い、たまに褒めてくれること、厳しさの次の優しさ、沖田先生が絡むとムキになったり焦ったりする所。近付けば近付くほど見えて来た斎藤教授は、気付けばただの憧れではなくなっていた。これが恋だと自覚するのは容易で、けれどそれと共に止めどなく溢れて来たのは決して綺麗な気持ちばかりではない。嫉妬もする、苦しくもなる、醜くもなる。狡くもなるし、泣いて困らせる。

 そんな私を見ても、目の前のこの人は「良い」と言ってくれるのだろうか。私を大勢いる学生の中の一人ではなく、教授にとってのたった一人にしてくれるのだろうか。


「極論、先生がいたからこうしてに出会えたということだ」


 じわりと目が熱くなる。駄目だ、また泣いてしまう。何か言いたくて、言おうとして、なのに開きかけた口からは何の言葉も出て来ない。拭っても拭っても止まらない涙に、斎藤教授は困ったように少し笑った。


「……むずかしくて、よく分かりません」
?」
「もっと分かりやすく言って下さい。いつも、課題を返してくれる時みたいに」


 確信を得るたった一言が欲しくて、そんな可愛くない返事をした。すると思ったとおり斎藤教授は言葉を詰まらせて、視線を泳がせる。察しろ、なんて私に通用するとでも思ったのか、もう大人だろうと思って接してくれるのは嬉しいことだけれど、まだまだ子どもな部分がたくさんあるのだ。いや、子どもな部分の方が多いくらいだ。ちょっとしたことで浮かれたり沈んだり、笑ったり泣いたり、ときめいたり妬いたり、私は忙しい。そしてこうやって我儘も言う。

 僅かに頬を赤くして、斎藤教授はわざとらしく咳払いをする。そして私の左肩を掴んだかと思えば、一瞬だけ、本当に一瞬だけ唇が触れた。


「こういうことだ」


 どういうことだ、なんて返せるはずもなく、一拍遅れて私の顔は急に熱を持つ。そんな私を見て、教授もまた同じくらい顔を赤くする。何だこれ、とか、そういうことじゃなくて、とか、いろいろ言いたいことはあったのだけれど、私のことなんて待たずに斎藤教授は私の手を引いて教室を出る。手を繋ぐ、なんて可愛らしいものではなく、掴んで引っ張られていると言ったほうが正しい。これではまるで連行されているようだ。それでも、なんだかその方が斎藤教授らしくて何の違和感もなく、私は振りほどくこともしない。私の顔もまだ熱を持ったままだったから、互いに顔の見えないこの位置で丁度良いのかも知れない。

 しかし何の前触れもなく突然教授は足を止めたため、勢い余って私はその背中にぶつかった。「すみません」と言うよりも先に飛び出した「何ですか」という言葉に、教授の方が「すまない」と謝罪を述べる。


「眼鏡を返すのを忘れていた」
「あ、ああ、そうですね…」


 それだけか、と思って手を伸ばすと、しかし手は空振り、私の眼鏡は引っ込められる。…何がしたい。


「もう一つ忘れていた」
「…何でしょう」
からの返事を聞いていない」


 さっきまであんなにも赤くなっていたのは何だったのか、私に詰め寄って来る。今度は私が口籠る番だった。言われるのは良い、私がせがんだのだから。自分から告げるのは恥ずかしい、誰だって。ましてやさっきの雰囲気が一度絶たれて、また仕切り直し、なんてことになれば尚更。こういう時に限ってなぜこの人は時と場所を考えないのだ。


「きょ、教授と同じですよ」
「同じでは分からん」
「だから、ですね、その…あの……」
「ねえ、人の学校でいちゃつくのも大概にしてくれないかな」


 聞き覚えのある声に思わず息を忘れる。斎藤教授の向こうを見れば、にこにことそれはもう満面の笑みを浮かべた沖田先生が立っていた。斎藤教授はと言うと、固まったまま動かない。

 神出鬼没も良い所だ。一体いつからそこにいたのかは分からないが、既に全てを悟っているかのように笑う沖田先生が恐ろしい。「良かったね、ちゃん」などと口では言いながら、どうも「僕のお陰だよね」と言われている気がしてならない。「は、はあ…」と曖昧に返事をしながら笑うも、頬が引き攣る。


「ああそうそうちゃん。別に一君は僕に言われたからここに来た訳じゃないよ。迷ってるかも知れないけど多分大丈夫だって言ったら“がどんな思いで引き受けたかも知らないで簡単に言うな”、なんて電話口で叫んだくらいだし」
「…そうなんですか?」
「いや、それはだな…」
「土方さんにも探すの手伝ってもらうから、なんて言おうものなら何も言わずに電話切ったよね。心配したんじゃない?ちゃんが土方先生に、」
「総司!」


 沖田先生の言葉を遮って叫ぶ斎藤教授は、今にも掴みかかるんじゃないかというほどの焦りようで、沖田先生を研究室に案内したあの日を思い出してしまった。あの時も、何でもない沖田先生の言葉を斎藤教授は上手く受け流せなくて、真っ赤になって反論していたのだ。あの時と同じように大人気ない斎藤教授の腕を引っ張ると、もう片手で私は自分の眼鏡を外して精一杯背伸びをした。そして半ば押し付けるように、彼の頬にキスをする。

 沖田先生の言うことも一理ある。沖田先生が斎藤教授に電話を入れてくれなければ、私は明日も、もしかするとこれからずっと、最後までいろんな誤解をしたままだったかも知れない。だからこれは、斎藤教授の気を沖田先生から逸らすためと、先程の教授の問いへの答えだ。

 けれど何が起こったのか理解できていないらしい斎藤教授は、また暫くその場で固まっていたのだった。




***




 高校で大学紹介をしてから数日後、私はいつものように研究室にいた。昼休みということもあり、ここには私と斎藤教授以外は誰もいない。ずらりと並ぶ本棚のせいで多少閉塞感を感じながらも、斎藤教授といるこの研究室は嫌いではない。…などと思いながらも、課題の多さに小さく文句を垂れると、斎藤教授は呆れたように溜め息をついた。


「大学とは本来勉強をする所だ。課題が出るのは当然だろう」
「そうですけど……怒りました?」
「怒ってなどいない。呆れたが」
「う…」


 ちらりと教授の方を見れば、教授も私の方を一瞬見ていた。何だか気恥ずかしくて私はすぐに目を逸らす。昼食後ということで眠気も襲って来る中、重力に従って落ちて行く瞼。けれどそれを見逃さなかったのか、「」と咎めるような声が飛んで来た。昼休みなのに、と思いながら、また口を尖らせて顔を上げる。すると斎藤教授は立ち上がって、私の課題を片手に近付いて来る。見なくても真っ赤な修正だらけであることが容易に想像できて、私はまた重い気分になってしまった。


「…いいか、人生って言うのは何があるか分からないんだ。だから、」
「勉強して損はないはずです」


 ノックもなしにドアが開いたかと思えば、何となく聞いたことのあるような声が研究室に響く。斎藤教授と同時にドアの方を振り向くと、そこには先生が立っていた。


「それ、私の受け売りですよね、斎藤くん」
「…お元気そうで何よりです、先生」
「可愛い彼女との逢瀬を邪魔されたからって、その棒読みはないんじゃないですか?」
「かわ、おう…っ!?」


 私が訳の分からない悲鳴を上げていることなど気にする様子もなく、斎藤教授は「総司ですか」などと冷静に返した。すると先生はドアを閉めて、私と斎藤教授の元までやって来た。そしてずっと後ろに隠していた綺麗な白い紙袋を私に差し出す。その紙袋と先生を交互に見る。受け取って、と言われておずおずと受け取り、紙袋に書かれたお店のロゴを見れば、学生ではなかなか手が出ないようなケーキ屋さんのものだ。思わず立ち上がって「受け取れません、こんな…」と言いかけたが、さすが教員、上手く丸め込まれた上に斎藤教授にも「もらっておけ」と言われてしまい、ありがたく受け取ることにした。


「それで…さん大丈夫?斎藤くんに酷いことされてない?」
「い、いえ、そんな」
「何でもベタ惚れすぎてキャンパス内で問題を起こさないか心配だって沖田くんが言ってたものだから」
「総司の話を鵜呑みにしないで下さい」
「違うんですか?こんな可愛い彼女を溺愛しないなんて案外冷たいんですね。そんなこと言ってたら沖田くんにとられちゃいますよ」
「…先生、総司と職場が同じになって性格が変わりませんでしたか」


 ぎゅう、と先生は私を抱き締めて斎藤教授から遠ざけるような素振りを見せる。もうどこからつっこめばいいのか分からない会話に、私はただ「ははは…」と乾いた笑いを漏らすだけ。そして「とりあえず離して下さい」と私を先生から引き剥がすと、今度は先生から遠ざけるかのように私を背に庇った。表情が見えなくてその意図が汲めずにいると、斎藤教授は迷いのない声で先生に言う。


のことは譲れと言われても譲らないから大丈夫です」


 まるでドラマのワンシーンのように、そんな斎藤教授の言葉はとても心地よく響いた。








 

「教授、ヤキモチですか?」
「喧しい」





(2010/12/22)


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