逃げ出すように沖田先生と先生の元を去った。何だかすごく格好悪い。これでは沖田先生でなくても「何かあります」って言っているようなものだ。私が随分コドモのように思えた。けれど、私を惨めに思わせる要因は他にもあった。


(どこよ、ここ…)


 気付けば見知らぬ場所にいた。そうだ、右も左も分からない初めての場所に私は来ていたのだ。まるでホテルかというような広い校舎、しかし案内板などない校舎からは、まるで出られる気がしない。しかも歩けば歩くほど、人気のない所へ進んで行っている気がする。それが余計私を惨めにも不安にも寂しくもさせた。

 二度と帰れないなんてことはないのだろうけど、一体何時間かかるか分からない。どんどん不安は膨らんで行く。どうしよう、どうしたらいい。混乱した私は、元来た道さえ分からない。誰でもいいから出て来て、と泣きそうになりながら内心叫ぶ。


先生?」


 私が呼ばれた訳でもないのに、藁にも縋る思いの私は思わず勢いよく振り返った。そこには、当然だけれど見知らぬ男性。恐らくここの教員なのだろう厳格そうな彼は、しかし私に声をかけたようだった。


「…な訳ねぇな、こんな所で何している?許可証を持ってんなら用があんだろ?」
「あ、あの、いえ、もう帰る所だったんですが」
「だったら玄関は真逆だぞ。…初めて来るのか?教育実習生の来る時期じゃ…」
「きょ、教育実習生じゃありません!隣の大学の学生です!」


 鋭い目付きに内心少し怯えながら、必死で言葉を選んで事情を説明する。大学紹介のこと、沖田先生に連れて来てもらったこと、訳あって迷ってしまったこと。「迷う?」と彼は不審そうに眉根を寄せたが、不自然に声を詰まらせた私を見て、それ以上問い詰めずにいてくれた。大人の対応にほっとする。

 そして順番を間違えながらも「と言います」と名乗れば、幾らか不信感は拭えたのか「土方だ」と言ってすっと手を出される。おずおずと私も手を出すと、「別に取って食ったりしねぇよ」と苦笑いされてしまった。そんな失礼なことをしたにも関わらず、土方先生は校門まで私を送ってくれることになった。曰く、「総司が迷惑をかけたな」とのこと。


「そういう格好を見てると、教育実習生時代の先生を思い出してな」


 その後ろ姿とか、と言いながら土方先生は笑う。どうやらリクルートスーツのことを言っているらしい。ただ服装のことを言っているだけにしても、先生のような綺麗な人を連想するのはどこか恐れ多い気がした。

 先生は沖田先生がまだここの生徒の頃に、教育実習生として来ていたらしい。土方先生、先生、沖田先生と、長年の繋がりがあるのだと思えば、職場の先輩であるはずの先生に沖田先生が軽口を言っていたのも分かる。…いや、彼は元々そういう人ではあるのだけれど、どこか親しそうな雰囲気はあったのだ。

 そこでようやく、私はふと気付く。そう言えば、沖田先生と斎藤教授は高校時代の同級生だ。その頃に先生が教育実習に来ていたのなら。


「…もしかして斎藤教授とも知り合い?」
「なんだ、さんこそ斎藤の知り合いか?」
「斎藤教授のゼミ生です」
「へぇ、あいつも偉くなったもんだな」


 そう零す土方先生の表情は、どこか嬉しそうだ。元教え子の成長は、卒業して何年経とうと喜ばしいものなのだろう。私はそんな教え子の教え子、孫みたいなものか。…土方先生に釣られて笑おうとしたのだが、どうも上手く笑えない。さっきから私の心には先生がずっと引っ掛かっているのだ。

 先生はどんな人?斎藤教授とどんな関係?二人はお互いをどんな風に思ってるの?どうやって出会って、これまで来たの?考え出したらキリがない。けれどここでそれらを土方先生に聞くことは、裏でこそこそと嗅ぎ回ってるみたいで宜しくない。そんな卑怯な真似はしたくないのだ。今でもぎこちないまま、話すことすらまともにできていないのに、これ以上悪い印象を持たれたくない。せめてそれくらいは願いたい。


「丁度いい、迎えが来たみたいだな」
「え?」


 黙り込んだ私の頭の上から声が降って来る。その目線の先を私も追うと、息を切らした斎藤教授が数メートル先に立っていた。そして「なんで」と殆ど息だけで呟いた私を、目を丸くした土方先生が見る。まるで私の中で時間が止まったかのように足が動かなかった。いや、縫いつけられたかのようだ。


「土方先生、お久しぶりです」
「おう。お前いつの間に教授になったんだよ。たまには顔見せやがれ」


 目の前で繰り広げられる二人の会話は耳に入って来るものの、どこか遠い所で話しているかのようだ。私はまだ、そこに斎藤教授が現れた意味を理解できなかった。来てくれて嬉しいという可愛らしい感情はなく、なぜ、なんで、どうしてと、何かを疑うかのような思いしか浮かび上がって来ない。

 どんどん私が嫌な女の子になって行く。どろどろした感情が渦巻いて消えてくれない。ほんの少し前までは、教授の一挙一動にどきどきして、嬉しかったり楽しかったりしていたのに、今はこんなにも苦しい。もう嫌だ、やめてしまいたいと思うほどに。

 私は、斎藤教授の何?


(…ただの学生だよ)


 分かっているのに、そんなこと。斎藤教授ではないけれど、私の友人にだって自分のゼミの教授の連絡先を知っている子はいる。私の場合、まさかそんなことなどしないだろうという、あの斎藤教授だったから他のこと状況が違っただけで、教授と学生という立場は他のゼミの子と何ら変わりないのだ。連絡先がなんだ、電話がなんだ。それを言うなら沖田先生の連絡先を知っている方が、余程何かを疑う余地がある。改めて思うのは、私は馬鹿だと言うこと。


「…すまねぇが斎藤、そろそろ職員会議の時間だ。さんもお前のゼミ生だって言うし、後は任せて大丈夫だな?」
「え、あ、ちょ…っ」
「はい、元々そのつもりで来たので。ありがとうございます」


 一切私の方を見ずに土方先生に返す。土方先生も土方先生だ、私の違和感に気付いておきながら放置だなんて。職員会議だから仕方ないけれど、「任せて大丈夫だな」なんて、私が大丈夫じゃない。土方先生は腕時計をちらっと見ると、慌ててその場を後にした。嫌な沈黙だけが残る。生徒が一人もいないしんと静まり返った廊下は、互いの呼吸の音すら聞こえそうだ。そんな沈黙を破ったのは、まだ少し顔に疲労の残る斎藤教授だった。


「総司から、連絡があった」
「…………………」
「きっと校舎内で迷っているだろうから言ってやって欲しいと、そう言われた」
「……沖田先生に言われたからですか」
「…、」


 ぽたり。大粒の涙が廊下に落ちた。俯くと、ぱたぱたと続けて流れ落ちる。

 何これ、すごくみっともない。責められるべきは斎藤教授じゃないのに、これじゃあ私が泣かされているみたいだ。面倒くさい女だ、て思われているかも知れない。でも止まらない。何かが苦しくて、何かがつっかえて、何かが痛い。…ああ、分かった。今のこの、私の微妙な立ち位置が苦しいんだ。多分私は、斎藤教授にとってただの学生でも、大勢のなかのただの一人ではない。だからと言って特別な誰かでもない。けれど先生は特別な人なのだろう。

 私は宙ぶらりんだ。特別な誰かにも、ただの学生にもなれない。特別になれれば、何でも率直に聞くことができるのに。ただの学生だったら、仕方ないって簡単に諦められるのに。その丁度真ん中にいてしまうから身動きが取れない。ただ、斎藤教授が何か言ってくれるのを待つしかない。今はまだ、客観的に見れば私は教授にとってただの学生だから。


「少し、話がしたい」


 そう言うと、私の手を引いて適当な空き教室に入った。扉を閉めると自然と離れた手。斎藤教授は私を置いて窓の方へ近寄ると、カラカラと窓を開けた。少し強い風が教室に入り、締め切られていたせいで淀んだ空気を一瞬で連れ去って行く。興奮している私を静めるような、冬を感じさせる冷たい風だ。

 私は右手で涙を拭うと、斎藤教授は窓にもたれかかり「俺は…」といつもの低い声で切り出した。


「俺は、先生が好きだった」








 

(分かっていたけど)
(聞きたくなかったな)





(2010/12/12)


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