机に肘をつく。くるくるとボールペンを回す。目を細めて前方を見れば、奇遇にも合った視線。慌ててふいっと逸らすと、「」というよく聞き慣れた声が、これもまた同じく前方から聞こえて来た。なんですか、と聞けば、ただ一言。 「あんた、視力が悪いのか」 確かに私は視力が悪い。けれど、いや、だからこそのコンタクトレンズだ。私がコンタクトを入れていることなんて知るはずもない彼が、なぜ私の視力の悪さを言い当てたのか。色のついたコンタクトを使っている訳でもないし、高校みたいに先生に視力検査をされるわけでもない。彼、斎藤教授はいろんな意味で謎の多い人物だけれど、人の身体を透視でもするのだろうか。 「何か失礼なことを考えているだろう」 ぎくり、と、冷や汗が背中を伝う。思わずくるくる回していたボールペンを机の上に落してしまった。考えてませんよ被害妄想ですね、と捲し立てれば、その切り返しが何よりの証拠だ、なんて言う。全く、頭いいのも大概にして欲しい!そういう難しい言葉を使われると、自分の頭の悪さを再認識させられている気分になる。いや実際、斎藤教授とは比べるまでもなく頭悪いんだけど。それでもこの大学に入るだけは入れたんだから(その後の成績は別として)、そこだけは褒めて欲しい所だ。 私の間違いは、目の前の人物を選んだ所から始まった。元々大人数が嫌いな私は、部活も、委員会も、あまり人気のないものを選ぶ。大概それらは私の性格に合っていたから何の苦痛でもなかったのだけれど、それと同じ勢いで選んだゼミ。そう、これが私の最初の失敗。レポートや課題を提出しても、重箱の隅を爪楊枝でつつくような採点をしてくれやがる。教授の質問に答えられなければ、 「、やり直しだ」 「……はーい」 すぐこれだ。教授もゼミ生が少ないから一人に割ける時間が十分すぎるほどあるのだろう。お陰で私のレポートはいつも教授の赤線だらけで返って来る。その無残な姿と言ったら、まるで紙が出血しているかのようだ。けれど選んでしまったものは仕方ない。途中で放り出すのは嫌いだし、中途半端にやるのも嫌い。こうなったら最後まで徹底的にやってやる、と決めて早半年。既に心が複雑骨折です、教授。 「ところで教授、なんで視力が悪いって分かったんですか?」 「遠くのものを見るのに目を細めるのは視力の悪い者の典型的な癖だ」 「…へぇ」 …物知りなこった。教授に近寄ってレポートを受け取り、パラパラと用紙を捲りながら、ちらっと斎藤教授の方を見る。彼も目が悪いらしい。メガネのレンズにパソコンの画面がぼんやりと映った。シルバーのフレームは西日を反射して眩しい。私は勢いよくカーテンを閉めた。眩しいのが半分、真っ赤な修正の多さにイラっとしたのが半分。ねえ、私これ、寝ずにやってるんですけども。 けれどそんなことは知らないとでも言うように、何の言葉もなくひたすら彼は画面と睨めっこ。そりゃあ、それだけパソコンと仲良くしていれば視力だって悪くなるでしょうよ。心の中で毒づきながら、修正された箇所に並ぶ、教授の綺麗な字を目で追う。その量の膨大さと来たら。そんなに雑なレポートを出しているだろうか。小さくため息をつくと、それが聞こえてしまったのか、斎藤教授は眼鏡のレンズ越しに私を少しだけ見た。 「落ち込むことはない。のレポートは同期の学生の中ではかなり良い出来だ」 「…そうですか」 信じられませんけど、と声には出さないがそう付け加える。だって、この流血まがいのレポート用紙を見て、一体そんな言葉、誰が信じよう。いやでもこれも愛の鞭か、と思いながら自分のノートパソコンを開く。また肘をついて、立ち上がるのを待った。 ああ、そう言えばなんで斎藤教授は眼鏡なんだろう、と何でもないことを考える。眼鏡なんて頭痛くなるし、鬱陶しいし、コンタクトにすれば楽なのに。まさかとは思うけど、眼鏡効果を狙っているとか。…いやいや、教授に限ってまさか。自分で考えておいて、どこかおぞましくなる。単に眼鏡が好きなんだきっとそうだ、と自己完結し、あっという間に立ち上がったパソコンを操作。 いつもはあともう二人はいるであろうこの部屋も、なぜか今日は私と教授の二人だけ。なんだか気まずい。別に会話が必要な訳じゃないし、無駄な会話は好まない人だから良いんだけど、この沈黙は私の集中力を削ぎ落とすのに十分な威力を持っているのだ。集中しろ、集中。自分にそう言い聞かせ、画面と睨めっこ。そんな、なけなしの集中力を掻き集めていたところを邪魔したのは外でもない、斎藤教授。「」といつもの冷静そのものな声で私を呼ぶ。 「どうせなら同期の誰も追いつけないようなものを書いてやれ」 「…はい?」 「あんたに期待している、と言っているんだ」 何が?期待?…レポートのこと?思わず目をぱちぱちさせて教授を見つめる。私の視線に気づいたらしい教授は顔を上げると、小さく笑って眼鏡を外した。どきん、と一際大きく心臓が跳ねる。その感覚を、私は痛みのように感じた。実際は何の痛みもないのに、胸が軋むような、そんな感覚。次に、かあっと顔が熱くなる。 待って、だって、今までそんなこと、一度も言わなかったじゃない。けちょんけちょんな修正しか、入れてくれなかったじゃない。褒められたことなんて、一度もなかったじゃない! 動揺して何の言葉も返せないでいると、教授は立ち上がって、私の横を通り過ぎざまにぽん、と肩を叩く。何だそれ。何だ、それ。何だそれ!ガタンと派手に音を立てて、私も椅子から立ち上がる。そして後ろの本棚から何やら資料を探しているらしい教授の背中を見つめる。だめだ、言葉が出て来ない。何を言おう、何て言おう、どうしよう、どうしよう、がんばれ私!喋れ私! 自分で自分を叱咤し、控え目に名前を呼んでみる。「斎藤教授?」と。するとゆっくり振り返って目を細める。ドキドキする胸、熱い頬。でもきっと分からない。教授はきっと知らない。少し離れた距離にいる私の顔なんて、きっと目を細めても教授からは見えない。そう思うと幾らか気分が楽だ。すう、と大きく息を吸い込んだ。 「…よろしく、お願いします」 なんだそれは、とおかしそうに笑う。いえ、と言って、またゆっくり椅子に座る。自分でも何が言いたかったのかよく分からない。咄嗟に出たその言葉には、さして意味はなかったのかも知れない。何か伝えたくて、それを飲み込んで、代わりに出た言葉がそれだった、ただそれだけ。 (まずい…) これは、何か罠にでも引っ掛かった気分だ。 |