の結婚の件に絡んでいた長州の残党にが狙われたのは、次の日だった。残っていた荷物をまとめに行くと言うので、何人かをの護衛につけたのは正解だったようだ。こちらの行動も予測していたのか、大野邸に潜んでいた長州の連中は、足を踏み入れるとすぐさま斬りかかって来た。 は門の外へ避難させて置いたのだが、片付け終わった後は彼女に見せられるような現場ではない。とりあえず後始末も終えた後で、と彼女には言ったのだが、それは拒否された。「見せて下さい」と迷いのない声で申し出たのだ。とてもじゃないががああ言った現場を見慣れているとは思えず、その発言の意図が分からない。けれど何を思ってか総司は彼女の申し出を受け入れ、二人で邸の中へ入って行く。思わず制止しようとしたのだが、「一君は来ない方がいいよ」と切り捨てられてしまった。 * * * * * 自分の目で確認したいものがあった。短い時間ながら自分の夫であった人物、大野正晴についてだ。昨夜はいなかったようだが、先程も外で騒動が終わるまで待っている間、微かに声が聞こえた気がしたから。 これだけの現実を突き付けられながら、全てが嘘だと知った時、あたしは少なからず動揺した。確かに不本意な結婚ではあったけれど、彼の人柄がなければ早々に飛び出すなり、最初から断っていたはずだ。あの優しさも気遣いも、全ては父の研究資料のためだったのだと思うと悲しかった。あたしも強い人間ではない。嘘でもあたしたちきょうだいを気遣ってくれた彼が死んだと知れば悲しいのだ。 まだ誰かいるといけないから、と総司さんの背に庇われながら、あたしは血の臭いの充満する邸の中を進んだ。思わず目を背けたくなるような光景が続く。けれど、正晴さんを確認するためには目を逸らしてはならない。嘔気に襲われながら、それも必死に堪えて歩くあたしの手は、知らない内に総司さんの背中をきつく握っていた。 「…ちゃんが何をしたいかは分かってるつもりだよ」 「総司さん…」 「でも怒らせると怖い人がいるんだから、無茶もほどほどにね」 「そう、ですね」 正晴さんが今回の一件に絡んでいるだなんて、思いたくなかった。まだ半分は信じられずにいるし、受け入れられずにいる。そして、過去の自分の浅はかさに悔いた。騙されていたなんて誰だって思いたくないだろう。だから、それに関しても自分の目で確かめたかったのだ。正晴さんがここにいることを確認するまでは、全てを信じる訳にはいかない。総司さんたちを信じていない訳ではないけれど、信じたくない、という気持ちを拭い去れないのだ。 どれだけ今回のことに人を割いたのか、いや、どれだけ命を懸けていたのか、その現場を見て思い知る。父の研究がこれ程までに必死にさせる理由が分からない。そのような価値のあるものとも思えない。あのような研究、自分の両親が隠れて行っていたと言う事実にも嫌悪を覚えずにはいられないのに、何に魅力を感じるのか、あたしには理解できなかった。もしも今、父に会えたなら、こんなにも人を狂わせるような研究を行っていた理由を問い詰めたい。 その時、見覚えのある顔が目に映った。思わず足を止めると、総司さんはあたしにつられて足を止める。 「彼が大野正晴?」 「は、い…」 「まだ息はあるみたいだけど、そうは保たないだろうね。どうする?」 総司さんの問いに答えられず、けれど足は勝手に動いた。総司さんから手を離し、震える足で正晴さんに近付く。膝をついて彼の顔を覗き込めば、あたしの姿をみとめた正晴さんは僅かに目を見開いた。浅い呼吸を繰り返す彼は、殆ど吐息だけで「」とあたしを呼ぶ。そんな力は残っていないはずなのに、ゆるゆると血まみれの手を伸ばしてあたしに触れようとした。その手を握ればもうひやりとし始めていて、総司さんの「そうは保たない」と言った言葉が胸に刺さる。 「あたしは、まだ信じられません。あの子たちの相手もしてくれ、気遣ってくれ、祖父母に会いに行く自由もくれた。何より、正晴さんはあたしに何も無理を強いなかった」 「…」 「全部、嘘だったのですか?」 あたしの問いに、ゆっくりと首を横に振る正晴さん。ほとんど白い顔をした彼に、もう死が近いことを受け入れざるを得ない。 きっと、正晴さんも巻き込まれた一人なのだと思う。何か企んで近付いたのであれば、どこかで弟たちも察していたはずだ。親から捨てられた経験を持っているがゆえに芽生えた弟たちの警戒心は、幼いながら信用できるものだったから。そんな弟たちが懐いていたのだから、正晴さんの優しさも気遣いも本物だったのだろう。 だからこそだ。あんな研究資料のために命を落とさなければならないなんて、こんな不条理な話はない。正晴さんだけではない。あの研究があったがために巻き込まれた人の数は知れない。長州だろうと、幕府だろうと、新選組だろうと関係ない。やはりあの資料はあってはならないものだったのだ。どんどん人を貶めて行く。人が落ちて行くのを見るのは、誰であろうと心が痛い。なぜ関わってしまったのだろう。関わらなければ死ぬことなんてなかったかも知れないのに。 「す、ま……な…い……」 「それはあたしの、」 「騙す…辛か、た……、は…やさ、し……か、ら…」 「違う、違う…!」 「すまない」と家を空ける前日、あたしに言った意味がようやく分かる。あたしを騙していること、利用していること、全てを含めた言葉だったのだと、今になって知る。 この結婚に男女間の愛があったかどうかと言われれば、なかった。それでも気遣いも何もかもは本物だった。それを思えば、泣かずにはいられない。じわりと視界が滲んで、大粒の涙が流れ落ちた。すると正晴さんは、脇に落ちている短刀に手を伸ばす。それは、彼の家が代々受け継いで来たものだといつも自慢げに話していたものだ。力の入らない手でそれを握ると、あたしに差し出しながら「殺してくれ」と口が動いた。流れ出す血は止まらず、息もか細く苦しそうに顔を歪める。 このまま死ぬのを待つくらいなら、いっそあたしが――差し出されたそれを見つめながら、そんな考えがあたしの頭を掠める。けれど、受け取った短刀の光る切っ先を見て、途端に震えが止まらない。あたしがしようとしていることは人殺しだ。けれど、巻き込んでしまった彼にできる唯一のことと言えば、今やこれしかないのかも知れない。 彼の胸に刃を突き立てる。けれど刺すことができない。しっかりと握った両手は、それ以上動かない。そんなあたしに、総司さんが後ろから手を重ねる。 「綺麗事ばかりじゃ生きて行けないからね」 「すまない」と再度正晴さんの口が動いた瞬間、生身に刃が食い込む嫌な感触がした。そのまま横に身を引き裂いて、短刀を抜く。 「ありがとう、ございます」 「ちゃん一人でできるとは思えなかったし、でもちゃんならやるのだろうと思って手助けしただけだよ」 「一人では、無理でした」 「うん。…それでもまあ、一君には怒られそうだけど」 「そうですね…」 総司さんの手が離れると、音を立てて短刀はあたしの手からも滑り落ちた。力の入らない手を伸ばし、息絶えた正晴さんの瞼を閉じる。 幸せが全くなかったわけではない。どれだけ斎藤さんを思おうとも、結婚してしまえばもう斎藤さんは叶うことのない相手だったけれど、この人なら、いつか時間をかけて思えるようになるのかも知れない、と思っていた。一度でもそう思った相手の死を前に動揺しないほど強い人間ではないのだ、あたしは。がたがたと今になって体が震えて来る。 あたしは、この人を殺した。 「落ち着いてちゃん。君一人がやった訳じゃない」 「で、も…っ!」 「ほら、大丈夫大丈夫」 後ろからあたしを引き寄せて、片手であたしの両目を覆う。行き場のない手で後ろから回された腕を掴むと、もっと強く引き寄せられた。そうして、肩で呼吸をするあたしが落ち着くまでずっと離さないでいてくれた。立ち上がった瞬間は足に力が入らなくて、思わず崩れそうになる。何があっても、と覚悟していたはずなのに、自分の弱さには情けなさと悔しさを感じずにはいられない。 それからどうやって帰ったのか、何があったのかはよく覚えてない。気付けば、あたしは新選組に保護されることになっていた。 (2010/5/22) ← ◇ → |