暗い道を一人で歩いていた。吸い込まれるように、ただ足を動かす。目的地なんて、この先に何があるのかなんて分からない。ただ、“そうしなければならない”ということだけ分かる。重い身体を引きずって、それでも前へ、前へ。すると、僅かだけれど光が見えて来る。ああ、ここが出口か――けれどそこへ手を伸ばそうとすると、強い力で後ろへ引かれる。その瞬間、すぐ耳元を掠めた声。 ――――来てはいけないよ。 足元が崩れ、真っ逆さまに落ちる感覚が身体を襲う。 (やめて、離さないで、誰か引っ張って、私、まだ死にたくない…っ) 助けて、斎藤さん。声が出ているのかどうかも分からない、音もない光もない場所で、確かに私はそう叫んだ。居るはずもない人を求め、必死で手を伸ばす。助けて、助けて、と何度も泣き叫びながら、真っ黒な闇の中に斎藤さんを探す。いつだって私を救ってくれたあの手を、私はまだ求めている。生を諦めるだなんて嘘。まだこんなにも未練がある、手離したくないものがある、どうしても会いたい人がいる。 斎藤さん。…二度目、名前を叫ぶ。居るはずがない、けれど諦めたくない。斎藤さん、斎藤さん、斎藤さん。どこまでも落ち続ける中、もがいて、足掻いて、叫んで。孤独よりも恐怖よりも、ただひたすらに今、私は彼を求めている。もう一度会えたなら、二度と手を離したりなんかしない。 (だから、斎藤さん、助けて下さい、) 途端、急に落下は止まり、私の右腕をさっきとは違う腕が引き上げる。他方、後ろからは先程の声。 ――――、君はまだ来てはいけない。 なぜ忘れていたのだろう。私が忘れてはいけない人なのに。忘れることは許されない人なのに。きっとこの世で誰よりも、私を殺したい人のはずなのに。 (そうだ、この声は)
瞼が震える。ゆっくりと持ち上げれば、よく知った部屋が目に映った。まだ夢の中なのだろうか、先程の夢の続きなのだろうか。そう自問しながらも、あちこちの痛む身体が決して夢ではないことを証明する。浅い呼吸のまま首をゆっくりと巡らせれば、そこにはいつもと変わらず背筋を伸ばして座っている斎藤さんがいた。 ああ、やっぱり夢なのかも知れない。都合のいい夢を私は見ているのかも知れない。でも夢なら許されるだろうか、私が話しかけることも、触れようとすることも。まだ、夢の中であれば。 「おはよう、ございます」 「ああ」 「今日は……晴れてるみたい、ですね…」 「そうだな」 「斎藤さん、大丈夫でしたか…?」 訊ねるけれど、返答がない。代わりに、彼は私の右手を壊れものを扱うかのようにそっと掬い上げる。両手で、僅かな力で握ると、深く頭を下げるみたいに項垂れた。すまない、と耳を澄まさなければ聞きとれないほどの声で告げられた言葉。その意味を分かりかねて、言葉の真意を探ろうと斎藤さんの顔を覗き込もうとしたけれど、身体が上手く動かない。起き上がるどころか、腕の一本、自由に動かすことができない。疲労と痛みが、今この体を縛りつける。 「の手を、傷付けた」 「…悪いのは、私、ですよ」 「そのようなことは、」 「斎藤さん、私は人殺しです」 だから、仕方なかったんです。そんな私の言葉に、斎藤さんは目を瞠る。何も言えずにいるのか、私の言葉を待っているのか、部屋には沈黙が流れた。 もう、言ってしまっても良いだろうか。こんな私を見ても、斎藤さんは今握っているこの手を離さずいてくれるだろうか。いや、どうせこれはまだ夢の中。ここまで都合の良いものならば、言おうとも言わずとも斎藤さんはきっとここにいてくれる。…おかしな確信をしながら、息を吸い込んで、吐き出すみたいにもう一つ隠していたことを明かした。 「大野正晴を殺したのは私です」 「………………」 「だから私は、あの人を、忘れてはいけない。私の死ぬ、その瞬間まで、…死んでも、忘れてはいけないんです」 何も言わずに、斎藤さんは黙って私の話を聞いてくれた。握る手の力を緩めることなく、ずっとそこで。口にするということは不思議なもので、もし斎藤さんが本当は聞いていなくて、ただそこにいるだけなのだとしても、一つ二つと事実を口にする度、気持ちが軽くなるような、どこかへ抜けて行くような気がした。隠していた訳ではないのかも知れない、けれど言わなかったのだから秘密も同然。時が経てば経つほど打ち明けにくくなってしまったそれは、知らぬ間に私の中に圧し掛かってしまっていたのかも知れない。きっとそれが、私と斎藤さんとの間に溝を作った。死を感じたあの間際、後悔に襲われたのはそのせいだ。 私は結局、斎藤さんを信用しきれていなかったのかも知れない。寄りかかった振りをして、どこかで隙間を作っていた。私が人を殺した人間だと知られれば、もう以前のようには居られないのではないか。そんな不安はいつだって少なからずあった。そう、夢の中だけでなくいつだって私は都合のいい人間だったのだ。 「けれど、なのに、もう死ぬのかと思ったあの時、私が思い出したのは、斎藤さんでした」 「……」 「ずっと、謝りたかった」 目の前が滲むのはなぜなのだろう。悲しい、苦しい、辛い、そのどれでもない。確かに体中痛いし、まだ呼吸すら苦しい。どれだけここが都合の良い夢の中なのだとしても、伸ばすことのできない腕は、指先を少し動かすだけで痛む。もう一度瞼を閉じたら、次に目覚めた時は地獄の底なのだろうか。でも、こんなにも言うことの利かない身体なら、もう仕方ないのかも知れない。 「ごめんなさい、斎藤さん、…私、あなたが好きなんです」 今、私の持っている全てと、いや、この世の全てと秤にかけても、私は斎藤さんを選ぶ。何よりも、誰よりも斎藤さんを思う。人一人を葬ったこの手でも、斎藤さんに触れていたい、そう思ってしまう。言葉にしてしまえば途端に軽いけれど、違えようのない私の真実だ。斎藤さんと離れたくない、斎藤さんとまだ生きていたい、そして、斎藤さんに思われたい。止まらない我儘、欲張りになり続ける心、そのどちらも斎藤さんに出会ったから。どれだけ正晴さんをこの手で殺めた罪の意識に塗れても、いつもどこかで許されたかった。 私は、斎藤さんの前では綺麗な人間でいたかった。 「ごめんなさい……斎藤さん、ごめんなさい……っ」 誤魔化そうとしたこと、隠し通そうとしたこと、忘れたいと思ったこと、許されたいと思ったこと。全てが自分へ返って来る。今度こそ終わりだ。もう夢も覚める。そうしたら私は本当に手を離さなければならない。何度も助けてくれたこの手の温度ともさようならだ。 「何故、謝る必要がある」 「だ…て……」 「と同じように、俺もを好いている。それはずっと変わっていない、が大野と結婚すると言った前から、今まで、何も変わっていない」 「さい、とう……さん……」 もう良い、そんな優しい言葉も、甘い夢も要らない。ずっと願ったその手で涙を拭ってくれなくても良い。突き放す言葉や冷たい視線を向けられるのだろうと思っていたのに、どうしてこのままの私を受け入れてくれようとするの。こんな甘い夢、見続けるだけ苦しいだけなのに、どうして覚めてくれないの。 自分で斎藤さんを求めておいて、優しくされれば引き裂かれるように痛い。けれどそれ以上に、目尻から流れ伝った涙の冷たさも、右手をずっと包んでいる温度も嬉しくて仕方がない。悲しい、苦しい、辛い。けれどそれとは似ているようで全く違うこの気持ちを、私は知っている。悲しい以上に、苦しい以上に、辛い以上にこの胸を占める気持ちの名前を。 「、あんたを愛しいと、俺は思う」 (2011/2/6) ← ◇ → |