刃が肉に食い込む感触を今も覚えている。大野正晴を殺したのは私。あの刃を握ったのは私。今、その切っ先を向けられて初めてその恐怖が分かる。憎悪に燃える彼らが私をひと思いに殺しなどする訳がない。着物の色が変わるほどの出血のせいで、もう意識はおぼろげだ。それでも手離す決定打とならないのはまだこの身に残っている痛みのせいだろうか。気を失いそうになる度、死なない程度に身に刃を突き立てられ、しまいには爪を剥がされる始末。最初は吐き気さえした血のにおいも、何とも思わないまでになってしまっている。

 もう諦めているこの生を手離すことを惜しいとは思わない。恐らく生きてきた中で私の罪は一つどころではないことも分かっている。けれど一つだけ心残りがある。その姿を瞼裏に描いた瞬間、私の意識を連れ戻すかのように、一人の叫び声が響いた。次に、どさりと体の崩れ落ちる音。言うことを利かない体の代わりに、目だけを動かしてそちらを見遣ると、暗い部屋に加えてぼやける視界の中によく知った影を見つける。


「さい、……と、さ……」


 ひゅう、と喉が鳴った。声を漏らせばせり上がって来る血の味に、一度は引いたはずの吐き気が襲って来るけれど、そうする力も残っていない。身じろぐことすら億劫だ。このまま目を閉じてしまいたい。もしかして、あの影は最期に私が見ている都合のいい夢幻なのだろうか。だって、斎藤さんがこんな所にいる訳がない。

 けれど、無駄のない動きで男たちを次々に倒して行く姿は、夢の中よりも、想像よりもずっと鮮明だ。殆ど意識なんてないに等しいのに、もしかして、と思うと目を閉じるに閉じられない。やがて音が止み、辛うじて捉えた黒い影は私に近付く。もう動かないはずの、力が入らないはずの左手を伸ばせば、まるで壊れものを扱うかのように優しく包まれる。常ならば私よりも低く感じる温度がとても温かい。だけどそれは、紛れもなく斎藤さんの手だった。

 、とよく耳に馴染んだ声もする。私を呼ぶ心地の良い声。全身の感覚が抜け落ちたような錯覚に陥るほど、体が言うことを聞かない。息をする事も儘ならない。それでも私を抱き上げた斎藤さんを確かめたくて、今、籠められるだけの力を籠めて手を握る。


「ありが、と、……ざ…い、ま……」
「すぐ止血をする、だから、」
「さいと……さ……だい、じょう…ぶ?」
「……それはあんただろう、
「だ、て……なきそ、う…」


 痺れと痛みの混在する指先で、その顔に苦痛を浮かべた斎藤さんに手を伸ばす。頬に触れれば、べたりと私の汚い血がついてしまった。いけない、拭わなければ。そう思うけれど結局着物だって血だらけ。ごめんなさい、とほぼ吐息だけで伝えると、益々顔を歪める。

 違う、そんな顔をさせたい訳じゃない。どうして私はいつもこの人を苦しめてしまうのだろう。出会った時から迷惑をかけてばかりで、守ってもらってばかりで、挙げ句の果てに苦しめた。こんなつもりじゃなかった。見つからないなら見つからないまま、こんな傷だらけの姿を晒すことなく消されたならそれで良かったのに。でも、もしそうだったとしたら、それはそれで同じような顔をこの人はするのだろう。

 謝るのは私の方なのに、斎藤さんは「すまない」と言って弱い力で私を抱き締める。どこもかしこも痛く苦しいはずなのに、斎藤さんの腕の中にいる、それだけで安心できた。これだけ迷惑をかけておいて、と頭では分かっていつつも、心の底から安堵する。

 そしてようやく気付いた。やっぱり私は死にたくなかったのだと。








* * * * *








 屯所に戻り、はすぐに医者に診てもらったが状態は良くなかった。未だ呼吸は浅く、顔は夜目にも分かるほど蒼白い。時折僅かに顔を歪めるが一向に意識は戻らず、相当苦しいであろうことは誰の目にも分かった。だが、これ以上何とかすることはできないのだと言う。あとは、の持つ生きると言う気力に懸けるしかないとのことだった。


「…もしの意識が戻らなかったらどうするんだよ」
「滅多なこと言うもんじゃねぇよ」
「でもさ左之さん、は隊士じゃないから変若水使うわけにも行かねぇけど、このままじゃは、」
「平助」


 誰もがを案じていることに変わりはない。平助もを心配してのことだ。だがを助け出した今、仮にだとしてもそのような話を聞きたくない。余計な言葉を耳に入れたくなかったため、左之が話を止めてくれたことには内心感謝する。は簡単に生を手放すような人間ではない。弟や妹を置いていくなどということは、彼女であればしない。

 そう思いながらもの部屋に向かう足は重いのは、先程一瞬でもが死を掴みかけたような気がしたからだ。の看病をするのは誰でもよかった。手は尽くしたと言われたため、専門的な処置は必要としない。気を利かせてか俺にと勧めてくれる者もいたが、断ったのはそういった理由からである。縁起でもない話など聞きたくないと思うと同時に、俺が一番の生への執着を疑っている。矛盾は躊躇いとなった。


「はじめおにいちゃん」
「…吉乃か」


 いつもは総司にべったりの吉乃が珍しく俺に声をかけて来た。これまでが傍に居ても吉乃が話しかけて来ることなど一度もなかったのに、余程のことが心配なのだろう。目に涙を溜めて「おねえちゃんだいじょうぶ?」と俺の着物の裾を引っ張りながら問う。どう答えるべきかと悩みながら、膝をついて吉乃と目線を合わせた。ずっと泣いていたのだろう、真っ赤に腫れた目が痛々しい。ともすれば大粒の涙がこぼれそうな顔をした吉乃は、答えを求めてじっと俺を見ている。

 吉乃はまだ幼い。突然の事件に怖い思いもしただろう。…そうだ、の安否を一番気にしているのは吉乃たちだ。俺がの代わりに吉乃たちを支えてやらねば、ここには彼女らの味方は少ない。特に今のように屯所も落ち着かない状態では、彼女らに全ての情報は伝わらないかも知れない。これでは徒に吉乃たちの不安を煽るだけだ。


「吉乃はが……が好きか」
「うん、すき」
「ならば、を信じてやれ」
「しんじる…?」
は吉乃たちを一番大事にしている。吉乃たちが信じてくれれば心強いだろう」
「……うん」


 まだ三つの吉乃には少々難しかっただろうか。こういう時、総司であれば上手く宥めることができるのだろうが、普段から接する機会がないと尚、こういう時にどうすればいいかが分からない。だが、子どもは時に大人よりも鋭い。動揺を悟られないようにしながらも、自分に言い聞かせるように吉乃に言い聞かせた。吉乃は袖口で目元をまた強く擦ると、先程より幾らかすっきりした表情になった。相変わらず目元は真っ赤だが、落ち着いたようだ。もう遅いから部屋に戻るよう促そうとすれば、吉乃は「あのね」と切り出す。


「はじめおにいちゃんは、おねえちゃんがすき?」


 胸の前でぎゅっと手を握る仕草はと同じだ。親の背を見て育つとは言うが、まさしく吉乃もを見て育ったのだと、このような状況にも拘らず微笑ましく思う。そんな吉乃の頭を撫でてやると、擽ったそうに笑う。


「…そうだな、俺もが好きだ」


 口にすると、思いの外楽になった気がした。頭の中でばかり考えていても良くないとは言うが、確かに口にすることは己の考えを整理するにも良いらしい。吉乃はと言えば、一人納得したのか満足そうな顔をしてすぐ隣の部屋に戻って行った。すぐそこだというのに、何度ものいる部屋を振り返りながら。何日も経ったわけではない、一日の内に解決したことだ。それでものきょうだい達にどれだけの恐怖や不安を与えたことか。それを拭いされるのはだけだ。の目が覚めて初めて吉乃たちも安心できる。

 そっと障子を開ければ、まだ苦しそうな顔で眠っていると山崎君がいた。恐らくを屯所へ運んで来てからつきっきりで看ているのだろう。そろそろ代わると申し出て、彼と入れ替われば、いつかのようにしんと部屋は静まり返る。思えば、こうして本当に二人きりになるのも随分と久しぶりだ。と接する機会はあれど、まだの弟たちもに甘えたい盛りで、このように他に誰もいない状態というのは、実は滅多にない。けれど今はに意識はなく、二人きりと言えどただ不安ばかりが渦巻く。

 も怪我で済めばまだ良かった。怪我と呼ぶには余りにも多く血が流れ、あの場にはただならぬ空気が流れていた。血のにおいはのみのもの、一方的なそのやり方は到底許せるものではない。もっと早く助けてやれればという悔しさは消えてはくれず、こうしての姿を見ているだけで寧ろ後悔の念は押し寄せて来る。

 数日前、は毎日会えて話せることはとても大切なことなのだと言った。それを何よりもは欲するのだと言っていた。あの時、俺は「そんなこと」などと返したが、「そんなこと」などではない。が目を覚まさない今、ようやく分かる。話せることがどれほど安心させてくれるかや、満たしてくれるのかを。自身を子どもだと、それが恥ずかしいのだとも言っていたが、それもとんでもない話だ。俺の方がよりもずっと幼稚だった。他者と自分を比べても意味がない。思う相手がただ一人だけであるように、もまた同じなのだと何故信じることができなかったのか。

 早く目を覚まして欲しい。そうすればまたいつものように挨拶を交わし、天気の話をし、きっとは小さく笑いながら言うのだ。大丈夫ですか、と。
























(2011/1/31)