毎朝、とは彼女の「おはようございます」から始まる。は俺より年下でも随分落ち着いていて、焦ったり取り乱したりしていることは滅多に見ない。けれど今朝は違った。珍しくばたばたと息を切らして走って来たかと思えば、すごい勢いで頭を下げたのだ。 「ごめんなさいっ!!」 「ど、どうしたのだ」 「ごめんなさい、私、勘違いをしていて、その、昨日のこと…」 昨日のこと、と言えば、あのが捲し立てた件だろうか。先程も言ったとおり、落ち着いていて温厚な性格のが昨日は初めて怒ったのだ。呆気に取られ、何のことを言われているのか分からず、その時は何の言葉を返すこともできなかった。しかし、が盛大な勘違いをしていることに気付いたのは直後だった。 本当は、昨日の夜は他の幹部の者が出掛けている間、俺はと過ごすつもりでいたのだ。副長から見ても働き過ぎなを休ませる意図もあったのだが、いろいろなことが重なり、結局は誤解されてしまった。は、俺も島原へ行くものと思い込んでしまったのだ。その後、こういう日に限ってとは仕事のためにすれ違い、誤解を解くことも、との時間をつくりたいと言うことも言えないままになっていた。 最終的には収まったため、それを掘り起こすこともしなかったのだが、はそうはできなかったらしい。 「本当に勘違いをしていて…斎藤さんは島原に行くつもりはなかったんですね。あたし、勝手に一人で怒ったりなんかして…」 「気にするな。忙しいことを言い訳に早くに伝えなかった俺にも非はある」 「でも、」 「誤解が解けたならそれでいい」 少し距離を詰めて、の顔に手を伸ばす。手のひらでその頬に触れると、昨夜と同じように僅かにまつ毛が揺れた。するとの手が、俺の手の上に重ねられる。俺から手を伸ばすことはあっても、なかなかからということはないため、少々どきりとした。少し目を伏せたは、微かに頬を赤らめて小さく零す。 「…恥ずかしいです」 「恥ずかしい?」 「私、斎藤さんよりずっとずっと子どもみたい」 「そのようなこと、」 「私ばかり泣いたり怒ったり、呆れられたらどうしようっていつも考えてしまいます」 は心配をし過ぎるきらいがあると思う。何もが不安になどなることはなく、俺もに呆れたりする訳がない。新選組のことは別として、今、誰よりも俺が気にかけているのも、思っているのも、守らねばと思うのも、全てだ。他の誰にもこのようなことは思わない。…そういうことを、彼女に言葉で伝えられれば良いのだろうが、上手くまとまらない。それにそれは、彼女の求めている答えではないような気さえする。もっと、彼女は彼女自身で解決しなければならない様々な葛藤があるのだろう。そこへ俺が手を出すと言うのは、何か違うのではないか。そうは言ってもが大事な相手であることに違いはないため、どうしても手を出したくなってしまう。何も心配はないのだと言いたくもなる。少しでも彼女の不安を取り除きたい、そう思うのは自然なことだ。の曇った表情など見たくはないのだから。 から手を離して、視線を他へ逸らす。だけは俺を真っ直ぐに見つめているが、それを受けると余計離しづらいと感じてしまった。に見られると、考えていることまで読まれているようで敵わない。 「俺は口が上手くない」 「どうしたんです?いきなり」 「の望む時に望むものを与えてやれないかも知れぬ」 「…はい」 「つまりだ、俺とてに愛想を尽かされないかと考える時は、ある」 「え、と……じゃあ、斎藤さんも同じってことですか?」 彼女なりに俺の言葉を解釈してくれたのだろう。首を傾げて俺に問う。もっと分かりやすく言えなかったものかと後悔をした。しかしあまり直接的な物言いは躊躇われる。いざを前にすると、思っていることの半分も言えていない。の欲しい言葉を、求める言葉を、喜ぶ言葉を、と考えても、それが俺の口から出てくることはない。情けないと思う。 「じゃあ、余程でない限りあまり心配しないことにします」 「ああ、そうしてくれ」 それなのに、はまるで読んだかのように俺の思っていることをすらすらと言葉にする時がある。それは大半が俺がに伝えたいことであり、から欲しい言葉でもあるのだ。恐らく俺がに言われたいから、俺もに伝えたいのだろう。ならばはどうだ。は俺にどんな言葉を求めているのか。何を言われたら喜ぶのか。の笑う顔がもっと見たいが故に、そのようなことを考える。 けれどただ悩んで止まり続ける俺を置いて行くかのように、は綺麗に笑って俺を動揺させるのだ。今だって上手く何かを伝えられたつもりはない。むしろ逆だ。しかしは何故か満足そうに笑い、また頬を染める。彼女の中では解決しているらしいが、俺だけが腑に落ちない。 「斎藤さん?どうかされました?」 「いや、何でもない」 「嘘でしょう。何かあるなら仰って下さい。私、何か気に障ることでも言ったでしょうか」 「……ならば、一つ聞くが、笑わないと約束してくれるか」 「ええ、笑いません」 に隠し事はできないらしい。俺が再度彼女と視線を合わせると、彼女も真剣な目でこちらを見た。 「が何を求めているのか、俺には分からぬのだ」 「私の求めているもの、ですか?」 「あんたがどんな言葉を欲しているのか、何をすれば喜ぶのか、いくら考えても答えが出ぬ」 「……………」 嘘は通用しないと悟り、今伝えられるだけのことを言葉にした。俺にとってはなかなかに勇気というものが要ることで、がどんな反応をするのか、どんなことを言うのか、それが気になって仕方がない。呆れられるのはこちらの方だ。 彼女は何度も瞬きだけをして、固まったかのように微動だにしない。「?」呼びかけると、口元を隠して小さく笑った。…笑わないと、約束しただろう。呆れこそすれ、一体何がそんなにもおかしかったのか。、ともう一度名前を呼ぶと、ようやく「すみません」と言ってその手を外した。 「そうですね、簡単なことです」 「簡単なことだと?」 「はい。斎藤さんがいつでも会える距離にいて、こうして話せる。私はそれが一番嬉しいです」 「そんなことで、いいのか?」 「大切なことですよ。毎日斎藤さんに会える、それはとても大切なことです」 そう言っては、少し寂しそうに笑った。そうだ、一度全く会えなくなったことはそう昔の話ではないのだ。そのことがあってのの発言なのだと思うと、少し胸が痛くなった。にそんな表情をされると、どうしても抱き締めたくなる。彼女からそれを求めることは余りにも少ない。けれど今、もそうして欲しいのではないだろうかと思った。 大野に関する事件は間違いなくの心に大きな穴を作った。それは恐らく一生埋まることはなく、抱えて行くのだろう。思い出しては痛み、けれど決して癒えることのない痛み。彼女があんな表情をするのは、大野に関することを思い出している時だ。この先ずっと忘れることがないであろう大野正晴は今、一体彼女の中でどれだけ占めているのだろうか。それを咎めるつもりも責めるつもりもないが、の中に他の男の影が住んでいるという事実には、少なからず複雑な気分になる。 の表情の向こうに見える大野の影を掻き消すように、俺は半ば乱暴に彼女を抱き寄せた。 「斎藤さん…?」 「会うだけでも話すだけでも足りない」 「え?」 「俺は、毎日こうしてに触れたいと思う。嫌か」 「嫌、では、ありません…」 はまた俺の気持ちを察してなのか、それ以上は何も言わなかったが、彼女の細い身体を抱く腕が震えそうになるほど焦っていたことは、どうか悟らないで欲しい。尚もに情けない所を見られるのは本意ではない。…そう色々と言い訳じみたことも考えるが、つまる所、俺は嫉妬していた。を傷付けたり悲しませたりしたい訳ではないが、忘れられない痛みを残した大野正晴、その人に。 上手く行きかけた、けれど上手く行かなかった。解決したはずなのに、どこかすっきりしない。そんなわだかまりを残したまま、事件は繰り返される。 が消えたのは、その数日後のことだった。 (2010/12/5) ← ◇ → |