その日の幹部の何人かは、妙にそわそわしているというか、浮足立っている気がした。何か良いことでもあるのだろうか、と思ったのだけれど、居候の身である私がその理由を訊ねるわけにも行かず、いつもどおり屯所の家事一般の手伝いをしていた。

 けれど夕刻になり、私はその理由を知ることになる。








* * * * *








 お昼ご飯の片付けを終えた私は、その間総司さんに預けている弟たちを引き取るために急いでいた。庭に面したその廊下を進んでいると、向かいからは機嫌の良さそうな永倉さんが歩いて来る。そして彼も私に気付くと、「お」と声を上げる。足を止めて挨拶をすれば、彼もまた足を止めた。


「こんにちは、永倉さん」
「おう。ちゃん、今ちょっといいか?」
「何でしょうか」
「幹部連中の今晩のメシなんだが、抜きにしておいてくれねぇか?あと千鶴ちゃんの分も」
「お夕飯ですか?分かりました。どこか出掛けられるのですね」


 幹部の方たちだけならまだしも、雪村さんの分も抜くことや、この永倉さんの嬉しそうな顔。外で何かあることを察するのは容易だった。そんな私の推測は当たりだったようで、永倉さんは「まあな」と言いながら笑う。

 皆さんは日々忙しいのだから、たまにはこういう日もあって良いだろう。恐らく飲みに行くのだろうけど、幹部というからには土方さんや斎藤さんもいるわけだし、何かあっても止める人間はいる。雪村さんがいる手前、ハメを外すなんてこともできないはず――しかしそんな私の考えは、打ち砕かれた。


「今日は近藤さんや土方さんも公認で島原だからな!」
「島…原……?」
「馬鹿、お前…!」


 永倉さんの言葉を繰り返すと共に、偶然通り掛かった原田さんが永倉さんの口を押さえながら押し退けた。そして呆然とする私にぎこちない笑顔を見せ、「な、なんでもねぇよ!」とあからさまなごまかし方をする。それでは何かあると言っているようなものだ。いや、それ以前に既に永倉さんは「島原」という核心を突く一言を発してしまったから意味はない。

 島原がどのような所か知らない私ではない。だから原田さんが永倉さんを叱責した理由は様々だと思う。そのような場所へ行くこと自体か、それを私にわざわざ告げたからか、同じ女である雪村さんを連れて行くことか。…或いは原田さんのことだから、私と斎藤さんのことを察してだとしてもおかしくない。けれどそんな風に隠されることは、逆に私の気持ちを深く抉った。

 斎藤さんだって男性だ。そんなこと分かっている。私だけではどうしようもできないことだってあるだろう。…いやいや、そもそも島原に行くからと言って女の人を買うとは限らない。もしかしたら本当にお酒を飲みに行くだけなのかも知れない。けれど、そこへ行けば綺麗な女性がいることに変わりはないのだ。私のような華も何もない、その辺の町娘、しかも一度は嫁いでいるような身の私では勝負にすらならない。それは酷く辛いことだった。…これが、初めて知る嫉妬の味というものだろうか。


「新八、左之、何をしている……と、?」


 間が良いのか悪いのか、斎藤さん本人が現れた。原田さんは気まずそうに私と斎藤さんを交互に見るけれど、永倉さんはその状況を理解できていないようだった。斎藤さんはというと、私の様子がおかしいことに気付いたらしく、近付いて顔を覗き込むが、伸ばされたその手を私は弾いた。ぱしん、と乾いた音が廊下に響く。


「人と言うのは得てして楽しみがなければ生きていても面白くないでしょう。それは私も十分承知の上です。しかし少しでも疚しさがあるのであればそれは解消するのが要らぬ疑惑や疑念を避ける予防策と私は思います」
「ど、どうしたのだ
「適度な娯楽と休養は心身ともに必要なことは私だって分かっております。ええ、ええ、どうぞ行ってらっしゃいませ。しかしながら酒も女遊びも程々にしないと後々身を滅ぼすことになるということをせめてもの親切心としてお伝えさせて頂きます」
「待て、何を」
「言い訳なら聞きたくありません!それでは私は山崎さんから頼まれている仕事がたくさんあるので失礼します!」


 一方的に捲し立てると、そのまま目も合わせずに三人を通り過ぎる。後ろから叫び声やら大きな音が聞こえた気がするけど、一度も振り返らない。斎藤さんもまた追い掛けて来ず、「これだけ言えば」と、少しでも期待した私が馬鹿だったと思い知らされているような気がした。

 贅沢に浸って、欲張りになりすぎていたのかも知れない。だって、元はと言えば私のような身分の人間が斎藤さんと、なんて有り得ないのだ。こういったこととは縁すらもなかった。だからといって斎藤さんのくれた言葉が嘘だなんて疑う訳ではないけれど、「やっぱり…」なんて思いが胸の中に広がる。

 そうしてもやもやとした思いのまま、結局その後は斎藤さんと一言も喋らないまま夜になり、私は山崎さんと仕事をしていた。


「このような雑事まですまない、君」
「いえ、私こそ部屋に来てもらってすみません」
「君の事情は察しているつもりだ。まだ幼い弟たちを見ながらの仕事は大変だろう。それなのに夜まで仕事を押し付けてしまって…」


 普段お忙しい土方さんは、私への臨時の仕事や緊急の仕事は山崎さんを介して伝えることが多かった。それ以外にも、土方さんの采配で何度か一緒に仕事をしたこともあり、ここでは数少ない親しい間柄だ。ここへ来てすぐも何かと気を遣ってくれ、私にとっては頼りになる兄のような存在でもある。聞けば、何度か父とも会ったことがあるようだった。

 そんな山崎さんの頼みで、今日は隊士の方たちの薬を量って小分けにしていた。土方さん曰く、何の知識もない人物より、私や山崎さんのように多少なりとも心得ている人物に任せた方が安心らしい。昼間はなかなか手が空かないので、夜手伝うことにはなっていた。しかし夜間はまだ幼い妹のためにも部屋を離れるわけにはいかず、彼女らの寝付く頃、山崎さんが薬の山を抱えてこちらにまで来てくれたのだ。


「しかも君は給金を断っているそうじゃないか」
「これくらい当然です。毎日働いても足りないと思うのですが…」
「いや、副長も君には感謝していると言っていた。謙遜することはないだろう」
「そんな、それは私の方です…!」


 ゆらゆらと蝋燭が揺れ、互いの顔に影を作る。向かい合って作業をしていたのだが、ふと視線を感じて手を止める。すると山崎さんの目は私の手をじっと見つめていた。何か間違っただろうかと焦ったが、彼が何も言わない所を見るとそうではないらしい。彼も必要がなければそう多くは語らない。それを居心地が悪いだとか、気まずいだとか思ったことはないけれど、ただじっと見られているだけというのは、どうにも落ち着かない。

 風もないような静かな夜、部屋には子どもたちの寝息しか聞こえない。何か言った方がいいのだろうかと、薬を包みながら考えていたが、自然と流れた沈黙の後、それを破ったのは山崎さんの方だった。「無理はしていないか」と何の脈絡もなく訊ねられ、思わず目を丸くする。確かにここの仕事量は多い。人がいるのだからそれは当然だ。けれどその分、働きがいもあるし、弟たちのためだと思えば苦などでないことは、町で働いていた頃となんら変わりはないのだ。山崎さんが心配するようなことは何もない。むしろ、そんな風に気にかけてもらっていたことを申し訳なく思う。


「変若水に関わってしまった以上、君はもうここを離れるわけにはいかないかも知れない」
「ええ。土方さんにも、大野の仇と狙って来るおそれがあるから保護だ、とは言われましたが、私が口外しないためでしょう。その証拠に勝手な外出は許されていませんから」
「さすが、先生の娘なだけあって君も鋭い。だが、副長も本意ではないことを分かって欲しい」
「大丈夫です。土方さんも心苦しそうに仰ってましたから。…時に、一つお訊ねしたいのですが」
「なんだ?俺の答えられることであれば何でも答えよう」
「父と母の死のことで」


 そう言った瞬間、山崎さんが固まる。そうして私は確信した。両親の死にはやはり何かがあると。


「…君、その件については、俺からは言えないことになっている。すまない」
「いいえ、私こそすみません。山崎さんにも立場というものがおありでしょうから」


 今はそれを知ることができただけで十分だ。例えば私は両親の仇をとろうだなんて考えてもいないし、今更あの頃に戻ることだってできない。ただ、事実をはぐらかされることが嫌なだけ。あの時、何度問い詰めてもお役所の人たちは「酔っ払いの起こした事件に巻き込まれただけだ」としか言ってくれなかった。それに比べれば、山崎さんは随分親切だと思う。山崎さんの言い方も態度も「何かあった」と言っているも同然なのだ。そして私がそれを察することを知った上で、そのような言い方をしたのだろう。

 私は一人納得し、作業を再開しようと箱に入った薬に手を伸ばす。すると、その手を山崎さんが突然掴んだ。何かと思って顔を上げれば、やけに真剣な顔をして彼は私を見ていた。


先生には恩がある。だから、できることがあるなら俺も協力したいと思っている。けれど仇討ちだけは考えないで欲しい」
「あの…それは、きっと大丈夫です。私にはこの子たちもいますから」
「そうか。…と、あまり遅くなっては明日に閊える。今日はこれくらいにしておこう」
「でもまだ残って…」


 言いかけるあたしの手を離し、手早く片付けるとまだ作業途中のそれらと、できあがっている薬包をまとめ、山崎さんは立ち上がる。私も思わず立ち上がりかけると、それを手で制される。


「あとは俺一人でもできるから心配ない。それに、君には客がいるようだ」
「え?」


 すると、障子が開いたその先に斎藤さんがいた。思い返せば昼間、私はかなり一方的に何の事情も聞かず怒っていた。口を聞くどころか目も合わせなかった。…接触自体避けていたような気がする。それなのにこんな時間に訪ねて来るなんて。

 斎藤さんも気まずいのか、突っ立ったまま私とは目を合わせようとしない。山崎さんは私と斎藤さんを交互に見ると、表情も顕わにしないまま斎藤さんと入れ替わる。その去り際、山崎さんは首だけで振り返って、「ご両親の個人的な話であればいつでも話そう」と言ってくれた。仕事中の両親のことは、私より他の人の方がきっとよく知っている。だから、彼は事件のことを話せない代わりに、当時の二人の話を聞かせてくれると言うのだ。ありがとうございます、と返事をすれば、山崎さんは少し笑って障子を閉めた。

 残された私と斎藤さんは相変わらず気まずく、口を閉ざしたまま。どうぞ座って下さい、という機会も逸してしまい、私は座ったまま、斎藤さんは立ったままという奇妙な光景だ。端から見れば、私がお叱りを受けているように見えるかも知れない。そんな不穏な空気を破るかのように、斎藤さんが自ら今更だけれど「今、いいだろうか」と切り出した。どうぞ、という私の声は、自分で思ったよりも低い。


「昼間のことはすまなかった」
「…斎藤さんが謝るようなことではないと思います」


 つい、刺々しい言葉になってしまう。斎藤さんもそれを感じたのか、びくりと肩が揺れる。そして膝の上で握られた手に更に力が入ったようだ。…これくらいのこと、て私も笑って忘れられればいいのに、つい意地を張ってしまう。もう気にしていないのだ、別に島原に行くくらいのこと。それなのに、もう怒っている訳でも何でもないことさえ言えない。

 斎藤さんが私に好きだと言ってくれたことだって、嘘だなんて思っていない。でも、だからこそ、なんで、と思ってしまうのは私がただ我儘なだけ。欲張りなだけ。私にはこの人に、何かを縛るだけの権限なんてないのだから。謝るのは私の方だ。勝手に怒って、勝手に落ち込んで、斎藤さんを振り回している。私は迷惑しかかけられないのだろうか。


「私の方がごめんなさい」
「な、何故が謝る…」
「だって私、斎藤さんの話も聞かずに勝手に怒って……ふ、不安なんです…!」


 私なんかのどこがいいの。もっと綺麗な人も、もっと教養のある人も、もっと斎藤さんに合う人だってきっといる。そんな中で、なんで私だったの。…考え出すときりがない。一つ手に入れてしまったから、好きだと言われる幸せを知ったから、もっともっと欲しくなってしまう。自分の欲深さには嫌になるくらいだ。「不安?」「不安、です」頬に手を伸ばされて、まつ毛が震えた。疚しいのは私の方だった。だから、こうして斎藤さんの顔をまっすぐに見ることができない。


「その…俺は言葉の足りないことが多い。しかし、俺がこうして触れたいと思うのはだけだということは、覚えておいて欲しいと、思う」
「はい…」
「それと、が仕事熱心なことは分かっているが、部屋に、特に夜間、安易に男を入れるようなことはしないで欲しい」
「…………」
?」
「斎藤さんも男の方ですが」
「お、俺は別だ」
「総司さんは?」
「駄目に決まっている」
「山崎さんでも駄目ですか?」
「山崎君でも駄目だ」
「じゃあ土方さんは?近藤さんは?」
「それは………………、面白がっているだろう」
「ふふ、だって…」


 弟たちを起こしてはいけないと、口を抑えて笑いを堪える。ああ、さっきまであんなにも気まずかったのが嘘みたい。けれど斎藤さんは眉根を寄せて面白くないとでも言うように黙り込んだ。今度こそ機嫌を損ねてしまったようだ。でも私は、どうすれば斎藤さんの機嫌が直るのか、試したこともないのに分かる気がした。

 膝を滑らせて斎藤さんと距離をつめる。そしてぐっと顔を近付けると、その頬に口付けた。…一瞬で離れたけれど、斎藤さんは何が起こったのか分からないような顔をしている。それがおかしくて、また笑ってしまう。すると今度は斎藤さんが私を強く抱き寄せる。「…あまり妙な真似はするな」「は、はあ…」生返事をする私に、溜め息をつきながら「意味を分かった上での返事か?」と問う。分からないけれど、それを認めるのは何だか悔しい気がして、次は私が黙る番だった。

 お互い、悩むことは同じだったのだと思うと、私が今日抱いた不安など悩むほどのことでもない気がした。
























(2010/11/4)