これ程時間の経過が長く感じたのは初めてかも知れない。陽が落ち、夜になるまで随分時間がかかった気がする。そして、夜が近付くにつれて段々と緊張して来た。ようやくとの時間がとれるのは嬉しいことだが、何を話せば、何から話せばいいのだろうか。以前は何を話していただろうか。…思い出せない。思えば、いつもが話を振ってくれていた気もする。総司や左之のように何か簡単に話題が出て来る訳でもない俺は、最初に声をかけることさえ緊張の一瞬なのだ。 しかしそうも言っていられない。そろそろの元へ向かわないと待たせてしまう。そんな俺を呼び止めたのは総司だった。 「もしかして、ちゃんと何か約束でもあるの?」 「何故そのようなことを聞く」 「…一君たちって分かりやすいよね」 まあいいや、と言ってひらひらと手を振ると、踵を返して早々に去って行った。何が言いたかったのだ。総司の行動を分かりかねるまま、の部屋へ向かう。…と、そこでふと思い出す。は、確か弟たちと同じ部屋にいなかっただろうか。そんな中、一人を連れ出すのだろうか、俺は。それとも弟たちも含めてか?それはそれで、当初の目的とずれが生じるような気がするのだが。 家事や弟たちの世話から少しでも解放され、気を抜く機会を与えてやりたくて声をかけたのだ。少しは俺がと話をしたかったのもあるのだが、いやしかし大半はを思って、休息の時間を与えてやりたくて、だ。どうすればいい。の性格を思うと、弟たちを置いて行くことに何か後ろめたさも感じそうだ。それは俺も同じなのだが、の思うそれとは比べてはいけない。 悩みながら歩いていると、の部屋の前に佇む人物が見えた。間違いない、部屋の主であるはずのだ。何故、ぼうっと部屋の前で立っていると言うのだろう。思わず足を止めてしまうと、俺に気付いたが「斎藤さん!」と俺を呼び、近付いて来た。 「、何故…」 「すみません、あたし、大人しくしていられなくて」 「いや、俺の方こそ遅れてすまない。待ったか?」 「そんな、とんでもないです…!」 「そうか。では行くか」 「はい」 できる限り平静を保とうと思うのだが、すると会話が続かない。せっかくと二人だというのに、はただ俺のあとを黙ってついて来るだけで、申し訳ないと思う。気の利いた言葉もかけられず、二人分の足音と虫の音が聞こえるだけ。それでもは文句も何も言わない。呆れたような素振りも見せず、ずっと俺の後ろにいる。 目的の場所は屯所からそう遠くない河原だった。屯所からでも当然空は見えるが、こうして開けた場所で見るのとではまた違うだろう。「、上を見てみろ」「上…」繰り返しながらは視線を空に移す。まるで降って来そうな星を見上げ、感嘆のため息を漏らした。その横顔はうっとりとしているようだ。思わず、どきりとした。それを誤魔化すように、俺は言葉を繋げる。 「あまり遠くへは行けぬ。ここでいいだろうか」 「何かあると屯所に戻らないといけませんもんね」 「すまない」 「斎藤さんが謝るようなことじゃないです!あたし、とても嬉しいんですから」 「…そうか」 が笑うから、自然と俺も頬が緩む。すると、それまで俺を見上げていたは、急に俯いてしまった。どうした、とその顔を覗き込もうとすると、びくりと肩が跳ね、顔を逸らす。何か気に障るようなことを言っただろうか。いや、何も言っていない気がするのだが。一歩後ずされたことが気になり詰め寄ると、はまた一歩引く。 「何故逃げる…」 「あ、いえ、すみません、その…」 「俺が何かしたなら言って欲しい。に不愉快な思いはさせたくない」 「不愉快だなんて、そんな…!」 必死で弁解するように勢いよく顔を上げる。…ようやく、目が合った。満月であることも手伝って、互いの顔は表情までしっかり確認できる。そうして見えた泣きそうな顔をしているに驚く。最早、彼女にどんな言葉をかければいいのか分からない。何か言いたそうに薄く唇が開かれているが、言葉が紡がれる様子はない。だが、どうしても聞きたい。それに、今は誰の目もなく、二人きりだ。…に触れたい。そう思い、俺はの頬に左手で触れた。またびくりと震えるが、今度は後ずさったりしない。それを良いことに距離を縮め、両手で掬うようにの頬を包んで顔を上げさせる。月明かりで瞳が潤んでいるのがよく分かった。 「さい、とう…さん」 「なんだ?」 「あの、えっと…」 視線を左右に泳がせ、顔を下げる。また外れた視線に歯痒く感じ、右手を頬から離して腰を引き寄せた。「あ、あの…!?」動揺した声が上がるが、離さない。随分と我慢したのだ、こうしてと言葉を交わすことも、二人になることも、を抱き締めることも。それなら、せめて今くらいは好きなだけこうしていたい。残念ながら俺は話は続く方ではないが、を間近に留め置くくらいはできる。腕の中に収まるほどの華奢な身体を留め置くくらいは。 やがても抵抗する術をなくしたのか黙り込み、俺の着物を掴む。そして再度、の方から俺を見上げ、触れたままでいる左手に彼女自身の左手が重なる。 きっとそれが何かの合図だった。ゆっくりと顔を近付けると、もゆっくりと瞼を閉じる。ほんの少し、触れるだけの口付けを交わす。彼女との初めてのその感覚に、思わず目眩にも似た感覚に襲われた。すぐに離れるが、が着物を掴む手の力は強く、身体が強張ったままなのがよく分かった。 「ん、…っん、ふ…っ」 離しては重ね、離しては重ねる。その合間から漏れるの苦しそうな声。けれどそれとは逆に、の手は俺の背中に回されていた。やがて、ようやくを離す気になると、彼女はぼうっとした目で荒い息を繰り返していた。そして、恥ずかしいのか胸に顔を埋め、動かなくなる。けれどもう肩の力は抜けた、というか、気が抜けてしまったようだ。肩で息をするを支えるように抱き締める。…しまった、やりすぎたか。 「、大丈夫か」 「…、て」 「何?」 「、て、呼んで下さい」 「な…っ」 思いもよらぬ申し出に、今度は俺の方が固まった。そう言えば、出会った当初からずっとと呼んでいたから、そのままで来てしまっていた。しかし、そうか、との関係を考えれば名前で呼んでもおかしくは、ないはず。しかし苗字で呼び慣れていたため、急に名前で呼ぶというのは非常に勇気の要ることのように思えた。けれど、今腕の中にいる彼女はそれを期待している、そんな気がする。 との関係、と言うと奇妙なものだ。思い返せば数ヶ月前、をずっと支えたいと俺から告げた。しかしあの時はは結婚を理由に拒まれてしまった。その後なんとか事件は落ち着き、から「伝えたいことがある」と言われ、通じ合ったとは、思う。しかし、いつを振り返ってもはっきりとした言葉では告げていないのだ。その、好意の言葉というものだ。好いているだとか、惚れているだとか、互いに言い慣れていないのは同じ。ただ流れに任せてはいたが、そうだ、今だって直接的な言葉は何もに伝えないまま、口付けを交わした。 やはり言葉と言うのは要るのだろうか。…いや、それは愚問だった。俺だってから言われれば間違いなく嬉しい、と、思う。あの、初めての気持ちを確かめた夜でさえ、彼女の涙に邪魔をされて最後まで聞くことはできなかった。それなら、今なら、言えるだろうか。からも聞けるだろうか。の髪を撫で、そのまま頬へと手を滑らせる。 「…」 「は、い…」 「これを言うのは二度目だが、呆れないで聞いて欲しい」 「はい」 「俺はあんたを…を、ずっと支えたいと思っている」 すると、大きく開かれた目からぽろぽろと涙がこぼれた。何度拭っても、止まることを知らないかのように流れ続ける。 「、返事を聞かせてくれ」 「私、も、です…っ」 「あんたも?」 「斎藤さんは、危険なお仕事をされてます、から…そんな斎藤さんを、私も支えたい、です」 涙交じりに、途切れ途切れで懸命に伝えてくれる。そんな彼女がどうしようもなく愛しくて、昼間と同じように強く抱き締めた。心臓の音が聞こえてしまうのではないかと言うほど強く。会いたくとも会えなかった、触れたくとも触れられなかった分だけ強く。それで時間が埋まる訳ではないが、この手の中にがいる、それは何よりも満たされた気分にしてくれる現実だった。 「ずっと言えなかったが、俺は、あんたが好きだ」 やっと言えた言葉。それを告げた途端、止まりかけていたの涙がまた溢れた。そしてどこか舌足らずな口調で「あたしもです、はじめさん」と言う。どこまでも可愛らしい彼女の髪を撫で、また触れるだけの口付けを交わした。生ぬるい風が頬を滑る、その不快感すら気にならないほど、俺はだけを考えていた。 (2010/8/29) ← ◇ → |