私もです、と唇だけを動かす。声は掠れて出なかった。笑いたいのに笑えなくて、涙ばかりが目尻を伝って流れて行く。そんな私の目元を優しく拭い、「初美」と名を呼ぶと斎藤さんは小さく笑った。


「少し眠ると良い」
「もう十分、寝ました」
「喋り疲れただろう」
「起きていたいのです。…斎藤さんの傍に居たい」


 すると困ったように笑い、私に覆い被さるようにして背に腕を差し入れると、ゆっくりと抱き起こしてくれた。けれど体に力が入らずそのまま体を預けた。重い頭を上げられず、肩口に額を乗せたままの私は斎藤さんと目を合わせることもできない。その顔を見たくて、確かめたくて、なのに何でこんなにも体が言うことを聞かない。やっと私がどうしたいかも、どう思ってるかもちゃんと見えたのに。


「辛くないか?」
「ない、と言えば嘘になります。でも、嬉しい」
「…そうだな」


 背中を擦ってくれる手。じんわりと伝わって来る体温が嬉しい。なんとか腕を伸ばして、私も斎藤さんの背に腕を回す。すると一層力は強められて、吐息すら耳のすぐ傍で感じるほどに密着する。

 拒まれなかったことへの安堵と、「愛しい」と言われたことで満たされる心、そしてそれでも消えない罪悪の気持ち。だけどもう隠さない。そのどれにも目を背けない。斎藤さんはきっと全てに頷いてくれるのだろう。それでいいと言ってくれるのだろう。私の犯してしまった過ちも知った上で「愛しい」という言葉をくれたのだから。私もそうだ。どんな斎藤さんだって傍に居たいと思う、誰よりも傍で、この人を支えたいと思う。


「斎藤さん、私もあなたが愛しいです。もう駄目かと思った瞬間、私が真っ先に思ったのは他の誰でもない、斎藤さんでした」


 障子から射す光は穏やか。まるで今の私の心を映したように穏やかだ。さっきまであんなにも荒れ狂っていた、どろどろとした気持ちが渦巻いていた、それなのに斎藤さんの言葉一つでこんなにも安心する。抱き締めてもらえるだけで、こんなにも幸せに思う。体の痛みなど気にならないほどに、気持ちだけはこんなにも落ち着いている。

 ゆっくりと体を離されると、見える世界いっぱいに斎藤さんの顔が映った。唇が動いて何かを告げようとしてくれるけれど、上手くまとまらないのか、なかなか言葉は紡がれない。再び口が開くのを待てば、何度目になるだろうか、「初美」と呼ばれる。はい、と小さく返事をした。斎藤さんに呼ばれる度、その名前が何か特別なもののように思えて仕方がない。ぎゅっと、胸の前で手を握り締めた。


「俺とていつ死ぬかも知れぬ身。だが、初美が居なくなったと聞き、不安で仕方がなかった。もう初美に会えないのかと思うと、悔いばかりが浮かんで来た」
「……はい」
「同じ思いを初美にさせてしまうことは、これからも数え切れぬほどあるだろう」


 斎藤さんの言わんとしているその先は、きっと二つに一つ。それでも私を傍に置いてくれるのか、だからもう近付くなと言われるのか。少し前なら迷った。斎藤さんが分からないと思うこともあった。けれど今なら前者だと確信を持って言える。


「それでも初美には傍に居て欲しいと、俺は思う」
「はい」
「この先に何があったとしても、初美には信じていて欲しい」
「信じます、斎藤さんをずっと信じます」


 そう言って笑えば、斎藤さんも少し笑って返してくれる。もう大丈夫だと思った。遠回りも間違いもたくさんして、今ここへ辿り着いた。ぼろぼろになりながら、それでも掴める手があった、伸ばしてくれる腕があった。その手をもう離したくないと思う。例えばまた離れてしまっても、何かに引き裂かれてしまっても、斎藤さんを信じて待つことができる気がした。何があるか分からない、それはやはり大きな不安を伴うけれど、だから今、この気持ちを大切にしようと、斎藤さんと過ごせる一瞬すらも愛おしく思おうと。

 私の手をとって、斎藤さんは優しく撫でる。痛むだろう、とまた苦しそうな顔をしながら。そんな顔をしないで下さい、と苦笑した。帰って来られた、斎藤さんにまた会えた、そのための痛みなら受け入れることくらい、なんて容易いのだろうか。

 見つめ合う目が少しずつ近付く。私はゆっくりと瞼を閉じようとした。したの、だが。


「ちょっ、やめ――――!」


 ドタン、バタン、と何やら大きな物音が障子の外から聞こえ、弾かれたように私たちは離れ、揃って音のした方を振り返る。「あ、あの…?」「すまない」私に向かって小さく言い、立ち上がって障子の方へ歩いて行く。そして勢いよく障子を開ければ、そこには藤堂さんたちがいた。どうやら、さっきまで中を覗き見していたらしい。藤堂さんの他には、永倉さんや総司さんまでいる。


「……いつからいた」
「いや、その、だな、だから俺らも初美のことが気になって、」
「答えろ、どこから聞いていた」
「ぜ、ぜん、ぶ…?」


 藤堂さんと永倉さんが交互に応える。青褪める二人とは逆に、総司さんだけは楽しそうな顔をしていて、全部聞かれた、見られたのだと思うと私は途端恥ずかしくなった。目が合えばにこりと笑う総司さんに、顔が一気に熱くなる。


「良かったね、初美ちゃん」
「あ、あ、あの……っ!」
「一君、初美ちゃんのことが好きで好きで仕方ないらしいよ?初美ちゃんを拉致した奴らを殺す勢いだったもんね。全部吐かせるために生かしとけって言われたのにさ」
「総司!」
「一君だって良かったって思ってるんでしょ?何があっても初美ちゃんは信じてくれるってさ」
「っ総司さん!」
「君らさ、もっとちゃんと話しなよ」


 ひらひらと手を振りながら「じゃあね」なんて軽く言って立ち去って行く。藤堂さんと永倉さんもどさくさに紛れて慌てて走って行ったけれど、まさかそんな風に総司さんに引っ掻き回された中で追い掛ける訳にも行かない。私と斎藤さんの間には妙な空気が流れたまま、互いに沈黙してしまった。どうしようか、とても気まずい。けれど総司さんの言うことは尤もだとも思う。ちゃんと話をしていなかったがゆえに起こった捩れもある。ちらりと斎藤さんの方を見ると、しっかりと合う目線。話を切り出したのは斎藤さんの方だった。


「…総司の言ったことに、違いはない」
「私も、です…」


 認めてしまう言葉を吐き出せば、それはそれで随分と恥ずかしく、一層嫌な沈黙が小さなこの部屋を占める。すると、座ったままの私に斎藤さんは近付き、言葉もなく私を抱き上げた。突然のことに小さな悲鳴を上げるけれど、しっかりとした力で支えられている体は安定していて、抱き上げられていることに恐怖心はない。ただ、体が少し痛い。


「な、にを…」
「少し、外に出た方が良い」
「え、ええ…」


 部屋のすぐ前に下ろされると、隣に斎藤さんも腰を下ろす。肩を引き寄せる腕に従ってまた体を預けると、頭の上で小さく笑ったのが分かった。私も安堵して、瞼がどんどん重くなる。まだ話したいことがあったはずなのに、と思いながらも、襲って来る眠気に勝てる気がしない。眠れば良い、と優しい声が降って来て、それに甘えて私はとうとう目を閉じた。

 次に目が覚めても、きっと斎藤さんは傍に居てくれる。満たされた心は、素直にそう思うことができた。
























(2011/4/18)