こんな所に、と斎藤さんは呟いた。あたしは父の研究資料を壷から少しずつ取り出しながら渡して行く。

 資料の全ては、父が薬種問屋をしていた頃に住んでいた家の庭に埋めていた。壷に入れ、厳重に蓋をして埋めた。しかもそれは一か所だけでなく、幾つかに小分けしたのだ。決して不自然にならないよう、その上には紫陽花を植えて誤魔化してもいた。そして紫陽花が埋めた目印になるように。これを掘り起こすにあたって紫陽花は掘ってしまわなければならなかったが、紫陽花は強い花だ。もう一度植えればまたちゃんと育つだろう。


「これで全部です」
「そうか。…すまなかった」
「いえ、もう良いんです。私が持っていても仕方のないものですし」


 斎藤さんと総司さん、それに副長だという人まで現れ、彼らはその中身を確認していた。私は埋めて以来見ておらず、中身を書き換えるなんてことはできない。だから父が書き残したそのままが残っているはずだ。全て目を通し終えた後、副長さんは「協力感謝する」と言って壷ごと資料を引き取ってくれた。

 そしてそのまま総司さんだけを連れて帰ってしまった。…気を遣われたのだろうか。さっき総司さんたちのいる前で抱き締められて、全て悟られてしまったのだろう。その時の斎藤さんの赤面具合と来たら、私が赤くなるのを忘れたほどだ。そんなこともあってか、副長さんと総司さんが去ってからどことなくぎこちない雰囲気になる。せっかくなのだから何か話そうと思っても、私は私で何か面映ゆくて斎藤さんの方を見ることができない。どきどきしながらそっと隣を盗み見ると、目が合ってしまい、慌てて逸らす。すると、斎藤さんは小さく笑いを漏らした。


「斎藤さん、」
「すまない。がなかなかこちらを向かなかった故、つい」
「ついじゃありません…っ!」


 今度は私が真っ赤になって慌てる番だった。ますます斎藤さんはおかしそうに口元を抑えて笑いを堪える。

 こんな風にまた話せる日が来るなんて、夢にも思わなかった。場所や時間はいつもと違えど、私がいて、斎藤さんがいる。その事実は違えようのないもので、どうしようもなく愛しく感じた。あんなにも思い馳せた時間を過ごしているのだと思うと、なんて贅沢な夢だろうと浮かれた気分になる。けれどこれは夢じゃない。現実なのだ。ちゃんと触れられる、ちゃんと通じる。

 とうとう私が黙ってしまえば、斎藤さんは「」といつものように私を呼び、私の頬に手を伸ばす。慣れないその感覚に思わずきゅっと目を瞑る。そっと目を開けてみると、私の目線の高さに合わせ、すぐそこに斎藤さんの顔があった。


「さ、斎藤さん」
「なんだ」
「近いです」
「ああ」
「ああ、ではなく…」
「やっと会えたんだ。もっとちゃんとあんたの顔が見たい」


 思わず返す言葉を失う。こんなことを言う人だっただろうか。あまりに率直な物言いに、私は一度引いた顔の熱が再度上昇した。言葉も交わさず、ただずっと相手の目を見つめることは思った以上に恥ずかしい。私はその空気に耐えかねて俯いてしまったのだけれど、それでもまた名前を呼ばれて斎藤さんの方を向かざるを得ない。何度かそれを繰り返した後、斎藤さんはこつんと額をつける。今日の彼は理解しがたい。身を引きかけたが腰を引き寄せらせ、むしろ更に彼との距離は縮まる。

 ずっと触れたかったのは確かだ。抱き締められている感覚が本物でも、やはり都合のいい夢の中なのでは、と疑って止まない。ずっと想っていた人の腕の中と言うのは、こんなにも緊張し、戸惑い、そして安心することを知った。身分も世界も違う、だから結ばれるはずがないのだと諦めていた相手。その人から「ずっと支えたい」と言われた時も夢のようだと思い、信じられなかった。

 今もまだ待っていてくれていると、総司さんが言ってくれたその言葉を信じたい。私はまだ、斎藤さんにあの時の答えを伝えていない。待っていてくれているなら、伝えたい。


「斎藤さん、お伝えしたいことがあります」
「なんだ」
「ずっと、斎藤さんのことばかり考えていました。大野邸へ入る前からずっと、誰よりも、斎藤さんのこと…っ」


 気持ちばかりが溢れて、言葉が追い付かない。肝心な所でいつもそうだ。元からこんなにも泣き虫だった訳じゃないのに。私を泣き虫にしたのはきっと斎藤さんだ。斎藤さんのことを考えると、嬉しいことも、幸せなことも、悲しいことも、切ないことも、全て涙になって溢れ返って来る。けれど言葉にならない部分まで、斎藤さんは汲んでくれる。掬い上げて受け止めてくれる。今もまた、私を抱き締める腕の力が強まった。それに応えるみたいに私もそっと斎藤さんの背へ手を伸ばす。

 本当はずっとこうなることを願っていた。身分とか、世界とか、そう言ったものはただ煩わしくて、そんなものを払い除けて斎藤さんの傍にいたいと願っていた。今、そんな願いの先にいるのだと実感する。あたしの髪を梳く手も、伝わって来る体温も、耳を掠める声も、願いが本物になったのだと教えてくれる。そう思えばまた頬を涙が伝った。


「……と、………た」
「え…?」
「やっと、捕まえた」


 その言葉と共に、一層強く抱き締められる。今日だけで一体どれだけのものを斎藤さんにもらっただろう。これまでの分も含めれば、きっと数え切れないほどに多い。これから貰った分だけ、私はこの人にちゃんと返して行けるだろうか。だってこのご時世、いつどこで死ぬかなんて分からないのだ。今はこうしていても、あと少しでもすれば斎藤さんは帰って行ってしまう。その後はもう、分からないのだ。…いや、そんな縁起でもないことを考えるのはやめておこう。だからもう少しだけ。あともう少しだけ、斎藤さんとこうしていたい。

 私だって、やっとこの人に捕まえてもらえたのだから。
























(2010/5/9)