![]() 元を辿ればいつだったのだろう。私があれらに気付いたのは、もう随分と前だった。それから程なくして両親は死んだ。いや、殺された。酔っ払った浪士に絡まれた、と説明されたけれど、子どもながらにそれは違うという確信を得ていた。すぐに私はあれらを隠した。ただ隠すだけでは見つかり、悪い方向へ傾いて行ってしまう。あれらは子どもの私が読んでも十分に分かるほど恐ろしいシロモノだ。 変若水。それが父の研究していたもの。けれど私がその資料を全て隠したから、もうそんなもの、この世には存在しないと信じていた。 * * * * * 「研究資料は副長の予想通り、が隠し持っている様子です」 「…好奇心に駆られて覗いたのが徒になったか。それで、手に入れられそうなのか」 「いえ、それが…」 は昨夜、資料は渡せないと言った。新選組が関わっていると知り、酷く心を痛めているようだった。どうやら綱道氏関与の事実は知らなかったらしく、自分が隠したはずなのに何故、と悲痛な面持ちで語った。結局、それ以上詮索することも追及することもできず、とりあえずが落ち着いてから戻って来たのだ。 あれだけの極秘資料を誰にも話さず抱えていたことは、彼女にとっても大きな負担だっただろう。彼女は優しい人間だ。人の生死に関わる資料など、心苦しかったはずだ。だから尚のこと、資料など放棄してしまえば良いものを、父が守ろうとしていたものを易々と人には渡せない、と言って頑として譲らなかった。 「どっちにしろ、譲ってもらわないと困る。だって命は惜しいだろうよ。旦那――大野正晴と言ったか、奴が帰って来るまでに説得を続けてくれ」 「分かりました」 「それと斎藤」 「なんですか」 「万が一のことも考えておけ」 「…御意」 最初に言われた“可能な限り”の範囲を超えた場合――もしもが敵対する姿勢をとった場合、けれど何としてでも資料は手に入れなければならない。長州の連中の手に渡る前に、だ。最悪の場合はを斬ることになるのかも知れない。長州の連中のように、の弟や妹を人質にしなければならないのかも知れない。脅迫してでも、手に入れなければならないのかも知れない。私情など挟んではならない。これは任務なのだ。 そうどれだけ自分に言い聞かせても、以前自分に向けてくれた笑みが、恐怖や怯えに滲むだろうと考えただけで、またひび割れるような痛みを感じた。 * * * * * 何をしても手につかない。料理をしていても、裁縫をしていても、子どもたちの相手をしていても、集中できない。随分と久しぶりに会った斎藤さんは、予想だにしなかった事実を私に持って来たのだ。動揺せずにいられる訳がない。私だけが知っているのだと思っていた父の研究は、どこから漏れたのか幕府が絡んでいるらしいのだ。思えば、あれだけの研究を両親だけで成立させられる訳がなく、協力者の存在など少し考えれば気付くはずだったのに。私が馬鹿だった。 裁縫にも集中できず、しかしもう暗いので辞めておこうと手を止めると、ぱたぱたと慌ただしい足音が聞えて来た。この軽い足音は末の妹、吉乃だろう。明るい表情で飛び込んで来た吉乃は、「おねえちゃん!」と高い声で叫びながら私に抱きつく。 「なあに、吉乃?何か良いことでもあった?」 「うんっ!」 「どうしたの?」 「そうじおにいちゃんがきてくれたよ!」 「…総司さんが…?」 昨日は斎藤さん、今日は総司さん。そんなことをされても、私が資料を渡さないのは変わらないのに。 夜だと言うのに庭先から聞こえて来る賑やかな子どもたちの声に、吉乃の言っていることは本当なのだと思い知らされる。とりあえずお茶くらいは出さないと、と立ち上がったのだが、廊下に出れば既に縁側に総司さんは座っていた。驚きに一歩後ずさると、「その反応は傷付くなあ」と苦笑いする総司さん。ああ、この人も相変わらずだ、なんて胸を撫でおろした。 「久しぶり、ちゃん。一君が言ってたとおりだ、ちょっと痩せたね」 「と、言われましても…」 どう切り返せばいいのか分からず、思わず口ごもる。するとまた困ったように笑って、「ちょっと話そうか」と彼は自分の隣をぽんぽんと叩いた。 「君たち、ちょっとそっちで遊んでおいで。僕はちゃんと大事な話があるんだ」 「後で遊ぼうな、総司!」 「こーら、お兄ちゃんでしょう」 子どもたちの嬉しそうな顔に、思わず以前の口癖が出る。それを聞いて総司さんも小さく笑った。変わってないね、と言われて、何年も経ったわけじゃないですよ、と返すけれど、実際はもう何年も経ったような気さえした。半年と経っていないはずなのに、懐かしく思える。 けど、あれだけお世話になったのに、総司さんにも碌に挨拶をせずここへ来てしまったので、どこか気まずかった。もしも会えたら謝らなければならないと思っていたことはたくさんある。それも何から話せばいいのか分からなくなった。だけど総司さんが私に求めているのはそんな話なんかじゃないはずだ。あるとすれば、昨日の話の続きか、斎藤さんに関することか。そして暫くの沈黙ののち、総司さんから口を開いた。 「正直な話、僕は怒ってるんだ」 「…はい」 「好きなようにしてみたらって言ったけど、まさか本当に結婚するなんて思わなかったし」 「はい…」 「ちゃんを本当に笑顔にしてくれるのは誰か、考えてみたら?」 「私を?」 「誰といれば一番いい顔してるかなんて、自分でも分かってるよね」 その一言に、昨日雪から言われたことを思い出す。「一お兄ちゃんといるお姉ちゃんが好きだな」――総司さんが言っているのはそれと同じことだ。それに総司さんの言うとおり、私だって誰といれば一番楽しいか、幸せか、嬉しいか、なんて分かっている。結局はこの結婚だってあの子たちのためにはなっていなかった訳だし、意味がないと言えば意味がなかった。空回りしてしまっていたのだ。 けれど今更戻れるのだろうか。自分勝手に周りを振り回して、また前みたいに斎藤さんのすぐ近くにいることなんて。そんな都合の良いこと、許されるのだろうか。…どうしても、そのことを考えずにはいられない。それに今はそれ以外のこともある。命を狙われていると言われたことも、父の研究資料を譲ってほしいと言われたことも、いろんなことが重なって、どれから片付ければいいか混乱してしまっている。 どこで間違ったのだろう。ここまで収拾がつかなくなるなんて、私は何をどこで間違ってしまったのだろう。結婚のこと?好奇心から父の研究を覗き見たこと?それをそのまま持ち続けたこと? 「命を狙われていることも当然知っている。だとすれば尚のこと、こんな所にいるべきじゃない」 「でも、じゃあどこへ行けば…」 「ちゃんを命を掛けてでも守ってくれるのは誰だろうね」 「え?」 「ちゃんにとっては不本意な動機かも知れないけど、副長の命令とあればなりふり構わず動いてくれる、ちゃんもよく知ってる人が新選組にはいるんだけど?」 「…………」 誰のことを指しているかなんて、口にするだけ野暮だ。含みを持った笑みを浮かべる総司さんに、私も困り気味に笑って返す。そんな私に「自己犠牲はやめなよ」と付け足した。 自己犠牲。慣れない言葉を心の中で反芻する。自分ではそのつもりはなかったのだけれど、周りからはそんな風に映っていたらしい。一見それは美しいのかも知れない。けれど、一つ間違えれば押しつけがましいだろうし、周囲を苛立たせたりするのかも知れない。確かに私は自分のことは我慢して来たけれど、それをあの子たちが申し訳なく思っていたとしたら本末転倒なのだ。 不本意とか、そんなの関係ない。動機がなんであれ、私はやっぱり斎藤さんと会えるのが嬉しかった。昨日も、告げられた事実がどんなものだとしても、斎藤さんに会えたと言う事実は何よりも嬉しかったのだ。研究資料を渡してくれと言われたこと、命を狙われていると伝えられたこと、それらに動揺しなかった訳じゃない。それでも、本当はどんな用件であれ嬉しいことに変わりはなかった。 どうせ同じ不本意なら、私はあの子たちにまた不便な生活をさせることになっても、斎藤さんにいつでも会えるところにいたい。 「遅く、ないでしょうか」 「ん?」 「今からでも、遅くはないでしょうか」 「今でもちゃんを待ってるよ」 いつでも総司さんの言葉に嘘はない。震える唇で、いつかも言った言葉を繰り返す。「斎藤さんに会いたいです」と。ただ、あの時と違うのはもう涙は出ないこと。後ろめたさも迷いもない。私は今すぐにでも斎藤さんに会いたいんだ。 そして伝えよう。父の研究資料の在処も、その内容も。既にあれは私だけが知るものではない。私はあれらから手を離し、然るべき場所で保管してもらうべきなのだ。新選組ならきっと悪いようには使わないはずだ。これだけ京で毛嫌いされているけれど、総司さんも、斎藤さんも、決して悪い人じゃない。この人たちが幹部だと言う組織なら、あの資料を悪用などしない。甘いと言われようと、それが私の答えだ。 「じゃ、早速行こうか」 「え、い、今ですか?」 「うん」 答えながら、土足で廊下に上がろうとする。言ってることとやってることが違う。…いや、そういう問題ではない。慌てて止めようとしたが、総司さんは刀に手を掛けたかと思えば、次の瞬間には私の背後を一閃した。直後、どさりと黒い影が崩れた。見覚えのない男だ。その後ろにはまだ何人か侵入者がいる。それをみとめると、私は血の気が引くのを覚えた。 「言ったでしょう、ちゃんは狙われているんだよって」 「な、…んで……」 「さすがに二日続けて訪ねて来るのは怪しまれたかな。…すぐそこにある葵屋と組んでたんだよ。大野正晴は長州の回し者だったんだ」 「え…?」 「つまり、これは仕組まれた結婚だったってこと」 「う、そ…」 すると今度は庭の方から子どもたちの叫び声やら泣き声やらが聞こえる。私は何が何だか分からず、立ち上がった足がガタガタと震えた。「しっかりしなよ」と私を背に庇いながら総司さんは言うけれど、こんな場に居合わせたことのない私は震えが止まらない。死ぬのだろうか。私は、こんな所で死ぬのだろうか。 後悔がずしんと心の底に落ちて来た。ああすればよかった、こうすればよかった――そう言ったことがたくさん降って湧いて来る。何より、こんな時だと言うのに斎藤さんのことが頭を離れない。昨日大人しく資料の在処も教えておけばよかった、斎藤さんについてここを出て行けばよかった、会いたい、今すぐ会いたい。 「ちゃん、ちょっと目を瞑ってて。もうすぐ応援が来るからそれまでの我慢」 「は、はい…っ」 私の頭にぽんと手を置くと、すぐに離れて刀を再度構える。けれど相手は一人じゃない。部屋の中が暗いせいで何人いるのか定かではないけれど、私は言われた通りぎゅっと目を瞑った。総司さんは新選組でも別格の強さだと聞く。大丈夫、大丈夫だと言い聞かせながら、目を瞑って耳を塞いだ。それでも聞こえて来る男たちの断末魔の叫び声に、その度びくりと肩が強張る。 まるで永遠とも思えるような長い時間だ。早く終わって、ときつく閉じた瞼の下で願う。やがて耳を塞いでいた手にそっと触れられ、ゆっくり顔を上げると、総司さんが何もなかったかのように笑いながら「大丈夫?」と聞いて来た。まだ上手く声が出て来ない私は一度だけ小さく頷く。途端、充満する血の匂いに思わず吐き気がして口元を抑えた。 「ああ、ごめんね。外に出ようか」 「はい、……あ、あの子たち…っ!」 「落ち着いてちゃん、大丈夫だから」 「でも…っ!」 「ここに来てるの、僕だけじゃないから大丈夫」 「へ…」 ほら、と言って総司さんが私の後ろを指差す。恐る恐る振り返ってみれば、そこには二、三人の見たことのあるような人――どうやら新選組の人らしい。その中の一人は確実に見覚えがある。いや、見覚えがあるなんてものではない。 安堵と、申し訳なさと、罪悪感と、嬉しさと、いろんな気持ちがないまぜになって溢れて来る。泣かないと思ったのに、泣かないと決めたのに、意思に反して涙は零れて来る。斎藤さん、と殆ど吐息だけで呟けば、次の瞬間、私は彼の腕の中にいた。 (2010/5/9) ← ◇ → |