![]() 「あじさい、おっきくなってた!」 「ぼくが水やりしたからだよ!」 「わたしもしたもん!」 数歩後ろからはしゃぐ弟たちの姿を追う。常ならば歩き疲れておんぶしなければならないだろう吉乃まで、もう日も暮れかけていると言うのに元気だ。紫陽花はと言えば、思った通り一足遅く、花は咲いていなかった。けれど彼らにとっては、それよりも昨年より生長していたことが嬉しいらしい。 そしてお寺の裏の紫陽花の様子を見た後、祖父母へも会いに行き、久しぶりに八人揃って食事もした。弟たちだけでなく祖父母もやはり嬉しいようで、いつも私が一人で会いに来る時よりも明るい表情をしていた。弟たちには「迷惑はかけていないかい」「ちゃんと良い子にしているかい」と聞いていたけれど、私にはいつも「酷いことされていないかい」と聞く。二人が心配性なのは昔からだ。優しくされ過ぎているくらいだというのに。 やがて日も傾いて来たので、泣きそうになっている弟たちを促して帰って来た。私も心が痛むが、帰らない訳にはいかない。それでも弟たちは元気なもので、今また紫陽花や祖父母の話をしてはしゃいでいる。けれど五人の中で一人、浮かない顔をしていた。一番上の妹、雪だ。私の隣をとぼとぼと重い足取りで歩く雪に、目線を合わせるように身を屈めた。 「雪、そんなに帰りたくないかな」 「ううん」 「じゃあ元気ないのはどうして?」 「…お姉ちゃんが元気ないもの…」 「お姉ちゃんは元気だよ」 「だって…」 だって、の先は言葉にならず、歯痒そうに着物をぎゅっと握り締めて俯く。一番上とはいえまだ七つ、言葉が上手く見つからないのだろう。言葉に詰まった時に着物を握り締めるのは雪の癖だった。 雪の言いたいことはなんとなく分かる。私があの人と結婚してからこっち、特に雪はいろいろと思う所があるようで、落ち込んでいることが多かったのだ。可哀想なことをしてしまったと思う。自分だって新しい環境に慣れることに大変だろうに、私のことを心配してくれているのだ。本当にどうしようもない姉だ、私は。 泣きそうになっている雪の頭を撫でてやると、珍しく私に抱きついて来た。一番上だからと余り甘えることをしない子だから、いつもは我慢しているのだ。私にとっては妹・弟のつもりでも、彼女らにとっては私は母親でもある。これだけ年が離れてしまうと、私と彼女らの感覚も違うのかも知れない。雪はいつも、長女であろうと一生懸命だったから。 「ねえ雪。この間雪がね、斎藤さんに会いたいって言ってくれた時、お姉ちゃん嬉しかったの」 「そう、なの…?」 「斎藤さんはお姉ちゃんにとって大事な人だから、雪たちが斎藤さんを嫌いじゃないって分かって嬉しかったんだよ」 「本当?」と目を大きくして私に聞き返す。うん、と答えれば、雪の表情がぱあっと明るくなった。きっとあの時、彼女らが斎藤さんや総司さんの名前を出したことには、少なからず罪悪感を背負っていたのだろう。ずっと私を困らせないようにとして来たこの子たちなのに、私が泣いてしまったものだから相当落ち込んだようだ。 私がどれだけ妹・弟だと思っても、この子たちから“拾われた子”という意識は消えない。それがどこか悲しくもあった。だから、ああやって本音をぶつけてくれることは嬉しい。 そして雪はたっぷり悩んだ後、少し照れながら小さな声で言った。 「お姉ちゃんが大事な人は、雪たちにも大事な人だよ」 「うん、そっか」 「それとね、お姉ちゃん」 すると今度は私の耳元で内緒話をするように質問する。その内容は、思いもよらぬものだった。 「はじめお兄ちゃんのこと、好きでしょう?」 「え?」 「雪、はじめお兄ちゃんといるお姉ちゃんが好きだな…」 「そ、か…」 なんと答えればいいのか分からず、そう短く返事をした。その時、何やら前方が騒がしくなる。「姉ちゃーん!」と叫びながら駆け寄って来る吉乃たち。興奮気味に私の手やら着物の袖やらを引っ張って「早く早く!」と促される。もう家はすぐそこでそんなにも急ぐことはないのに、一体何があったのだろう。誰かお客さんでも来ているのだろうか。 門の前まで来てふと子どもたちから前の方へと視線を移せば、そこにはいるはずのない人がいた。目があった瞬間に私の体は固まり、息も止まるような感覚に陥った。思わず、「うそ…」と小さく漏らしてしまう。その人は私の姿を認めると、凭れかかっていた壁から体を離し、こちらへ近付いて来た。 「嘘ではない」 何一つ変わらない姿で、声で、私の前に再び現れた人。会いたくて会いたくてやまない斎藤さんその人だった。 * * * * * 子どもたちは別室で遊んでいるように言い、私は斎藤さんを招き入れた。縁側に座っている斎藤さんにお茶を用意したのだが、盆を持つ手も、「どうぞ」と言った声も震えている。「すまない」と短く言い、湯呑みに手を伸ばす斎藤さん。庭の方を向いている彼の横顔を、私はじっと見つめた。するとそれが見つかったのか目が合い、慌てて逸らす。すると斎藤さんは湯呑みを置き、私の頬へ手を伸ばす。どきん、と心臓が一際大きく鳴った。 「少し痩せたか?」 「ど、どうでしょう…」 「そうか」 ゆっくりと手が離れる。少し惜しいと感じながら、私も自分の頬に触れた。僅かに熱を持ったのが恥ずかしくて、俯いてしまう。 まだ夢のようだった。何か、都合のいい夢をずっと見ているのではないかと疑わずにはいられない。斎藤さんが私に会いに来てくれることは何度もあったけれど、あの時と今とでは状況が違う。あれだけ酷いことをしておきながら、なぜ今また私の前に現れてくれたのか、疑問を抱かざるを得ない。「話がある」とは言っていたけれど、私の居場所を調べてまで話さなければならないその内容は、私にはまるで見当がつかない。 なかなか本題を切り出さない斎藤さんを、少し顔を上げて見る。相変わらず庭先の方を向いているけれど、きっと何かを特別見ている訳ではないのだろう。私に話さなければならないことについて、何か悩んでいるのだろうか。 「、落ち着いて聞いて欲しい」 「はい」 「あんたは狙われている」 「…は、い……?」 言われていることの意味側からず、何度も瞬きをする。少しも現実味を帯びないその言葉に、今度は違う意味で固まってしまう。しかし斎藤さんはこのような冗談を言う人ではない。すると体ごと私の方を向き、その眼にどこか焦りを滲ませながら低い声で続けた。 「父親は薬種問屋を営んでいたそうだな」 「え、ええ」 「その裏で何をしていたか、あんたは知っている。違うか」 息が詰まるのが分かった。斎藤さんのその言葉で、何のことなのか一瞬で理解する。そして彼が「狙われている」と言った意味さえも。 背中を嫌な汗が伝う。葬ったはずのあれらが蘇って来る。父にも母にも口止めされていたあれら。きっと斎藤さんはあれらのことを言っている。けれどなぜ今になって、いや、なぜ斎藤さんがあれらのことを知っているのだろうか。極秘だと私にきつく言った両親、外に漏れるはずのない情報、私だけが知っているはずの恐ろしい薬。 かたかたと震える私の肩を斎藤さんは掴んで、私に詰め寄った。「知っているだろう」と、有無を言わさず私を頷かせる。事実、知っているので嘘ではない。けれど、斎藤さんが聞きたいのはきっとそれ以上のことだ。あれらの在処、ではないだろうか。 「なんで、あれらを…」 「………」 「っまさか…!」 「幕府の命で、続いている」 「うそ…でしょう…?」 何度目か分からないその言葉を口にする。途端、目眩に襲われるような錯覚に陥った。目の前がぐらぐらと揺れ、世界が回って見える。、と私を呼ぶ声もどこか遠くに聞こえる。呼吸さえ上手にできない私に手を伸ばし、私を支える斎藤さん。彼はずっと私の頭の上で「すまない」と繰り返していた。 (2010/5/4) ← ◇ → |