後悔の塊ばかりが胸を占める。

 縫物の手を止めて、ふと庭の方に目をやった。そこでは、弟たちがいつも通り男性に構ってもらっている。実感は湧かずとも、こうして広い家に住んでいることや、弟たちの相手をしている男性――夫、大野正晴の存在が、少しずつ自覚を促して行く。私は妻になったのだと。正晴さんは優しい。弟たちの相手も嫌な顔一つせずしてくれるし、弟たちも随分懐いているようだ。さすがに祖父母の面倒まで一緒に見てもらうことは気が引け、大野邸で一緒に住むことはしていないが、「好きな時に会いに行けばいい」とかなりの自由も貰っている。

 結婚をして変わったことは他にもある。仕事がなくなったことだ。いや、家の中での仕事ならいくらでもある。ただ、稼ぐために外へ出て仕事をするということがなくなった。そう、結婚と同時に私は長年お世話になった小間物屋を辞めたのだった。弟たちが以前よく遊んでいた空き地や神社などはここからは少し遠く、そちらへ向かう機会がなくなり、総司さんにももう随分会っていない。


(斎藤さん、は…)


 あんな風にお別れを言うつもりはなかった。最後にあれだけ泣いてしまうだなんて、未練がましいのが見え見えだ。まさか斎藤さんが私のことをあんな風に思っていてくれていたなんて思いもせず、結婚するという事実を伝えることが急に辛くなってしまった。それとなく伝え、ひっそりとここへ来るつもりだったのだ。


、考え事かい?」
「あ、いえ。今日は天気も良いので、少し眠くなってしまいました」


 手が止まっていたのを見て、正晴さんが笑う。一介の町娘だった私が、こんなにも良い生活をさせてもらっていると言うのに、これ以上何を望むと言うのだろう。早く振り切らなければ、早く忘れなければ、もう過ぎたこと、もう終わったこと――毎日そう思うのに、思えば思うほどぎゅっと胸を締め付ける気持ち。この後悔の源は一体何なのだろう。斎藤さんの前で泣いてしまったことだろうか。笑って別れを告げられなかったことだろうか。結婚することを伝えてしまったことだろうか。あの時の斎藤さんの顔が焼き付いて離れない。あんなにも私を思ってくれていた人を、私は簡単に傷付けてしまったのだ。

 けれどきっと何より後悔しているのは、斎藤さんの言葉に答えられなかったことと、私の本当の気持ちを言えなかったことだ。「ありがとうございます」とか、「嬉しいです」とか、そう言った一言でさえ出て来なかった。私に笑っていて欲しいといってくれた斎藤さん。今でもそう思ってくれているだろうか。


「時に、明日から二週間ほど留守を頼みたい」
「遠くへお仕事ですか?」
「ああ。何かあればすぐそこの葵屋さんへ行くと良い。私からも言伝しておくよ」
「分かりました。気を付けて行って来て下さいね」


 「なかなかとゆっくり過ごすことができんな」と苦笑する彼に、私も小さく笑って返した。そして縁側に腰掛け、私を手招きする。縫物をその場に置いて近寄り、私は彼の隣に腰を下ろした。膝の上で重ねた手に彼の手が重ねられると、ぽつりと彼は「すまない」と零す。


「お仕事ですから仕方ありません。私なら大丈夫ですから、安心して下さい」
「そういうことではなく……いや、なんでもないよ。これから京は暑くなる。くれぐれも体には気を付けてくれよ」
「意外と心配性ですね」


 失礼な奴だな、と言いながらも私の肩を引き寄せる。まだそう言ったことに慣れていないため多少緊張しながら、頭の片隅でこの人の謝罪の意味を考えていた。けれどそれも一瞬のことで、すぐに忘れ去られる。目を伏せてしまえば、陽気のせいで本当に眠ってしまいそうだ。「」と呼ばれる声ではっとして目を開ければ、また苦笑している正晴さん。

 罪悪感と、自らへの嫌悪と、本心と、いろいろな感情がせめぎ合う。私のような人間に心を砕いてくれる夫を目の前にしながら、私の心のほとんどはまだ斎藤さんに傾いていた。






* * * * *






姉ちゃん、姉ちゃん」


 洗濯物を干していれば、くいっと着物の袖を引っ張られる。まだ私の腰ほどしかない弟たちが、気付けばそこに群がっていた。何やら困ったような顔をしている。どうしたの、と身を屈めて一番上の弟に聞いてみれば、彼らは顔を見合わせて「えっと…」と言ったきり黙りこんでしまう。何か言い出しにくい相談らしい。前に住んでいた家が恋しいとか、そういう話だろうか。

 怒らない?怒らないよ。本当に?本当だよ。本当に本当?本当に本当。本当に本当に本当?本当に本当に本当、だから言ってごらん。…首を傾けてそう返すと、言いだしっぺの弟の目にじわりと涙が滲む。思わず目を瞠った。それに伝染するように、他の子たちも一斉に泣き出す。今までにこんなことは一度もなかったのに、一体どうして。けれど泣いてばかりで理由を話せない彼らの事情を察することができず、とりあえず全員抱き締めて「どうしたの」と繰り返した。


「ほら、泣いてちゃ分からないでしょう?言ってごらん。お姉ちゃんにできることならなんでもしてあげるから、ね?」
姉ちゃぁん…っ」
「総司と遊びたいよう!」
「え…?」


 まだ小さい妹たちまでわあわあと泣き出す。どれだけぎゅっと抱き締めてやっても泣きやむ気配は見せない。

 これでいいと思っていたのは私だけだったのだ。この子たちにこれだけ寂しい思いをさせていたなんて思いもしなかった。夫とも楽しそうに遊んでいたし、前よりいいご飯が食べられるだとか、広い部屋で寝られるだとか、そんな風に言っていたから何も心配することはないと思い込んでいた。けれどそうじゃなかった。小さなことが積もり積もって、今、溢れ出したのだ。これまでは夫もいる手前、こんなこと言えなかったのだろう。少しの間、私たちだけになると知って、それを狙ってこの子たちも言って来たに違いない。


姉ちゃん、総司に会わせてよ!」
「よしの、そうじおにいちゃんに、あいたいよう…っ!」
「はじめにいちゃんにもあわせてよねえちゃん!」
「雪も会いたいよう!」
「…斎藤、さん?」


 思わぬ名前が子どもたちの間から出て来て、私は抱き締めていた腕を解いた。一瞬、頭の中が真っ白になる。「そうじお兄ちゃんに会いたい」「はじめお兄ちゃんに会いたい」という彼らの言葉は、そのまま私の心から取り出したようだった。

 ああ、そっか。私も会いたいんだ。どれだけ自分を抑えつけても、消えずにここにある気持ち。会いたい、話したい、伝えたい。消えることなく残っている本心が、彼らの言葉に重なった。この子たちにも、自分にも、私はきっと無理をさせていた。仕方ないこと、と割り切った振りして、本当は何一つ諦め切れていなかった。だから、斎藤さんのことを考えない日なんてないのだと、今更になって思う。

 それに気付けば、私も知らない内に泣いていた。あたしも、斎藤さんに会いたい。


「そうだよね。お姉ちゃんが全部、勝手に決めちゃってたんだよね」
姉ちゃん…?」
「会いたいよね、総司さんにも、斎藤さんにも、会いたいよ、ね…っ」


 当たり前のように毎日会いに来てくれていた斎藤さん。暇さえあれば子どもたちの相手をしてくれていた総司さん。私のしたことは、この子たちも、斎藤さんと総司さんの二人も、そして私自身をも、全てを裏切った。けれどもう遅い。もう会えない。もう、会いに行く理由がない。今更行った所で、何を言うというのだろう。

 斎藤さんは良い人だから、きっとこれから良い人と巡り会えるだろう。私なんて忘れて、もっと素敵な女性と出会うだろう。そして私に言ってくれたように、私にしてくれたように、私の知らない誰かを支えて生きて行く。それがいい。それでいい。元々身分も何もかも違ったのだから、遅かれ早かれ同じ気持ちを味わっていたはずだ。

 分かっているのに分かりたくない。まだ心は、こんなにも斎藤さんに会いたいと叫んで止まないから。
























(2010/5/2)