![]() と会わなくなってから、またいくらか時間が過ぎ、いつの間にか梅雨も明けていた。これからまた纏わりつくような暑さの季節になるのかと思うと、少々鬱陶しい。梅雨と言えば、初めてに会いに言った時にもうすぐ梅雨だと話していたのを覚えている。紫陽花のきれいに咲く道があるとも言っていた。「斎藤さんも見に行きませんか」と言ってくれていたというのに、結局それも叶わないまま終わってしまった。 だが沈んでいる間もなく次から次へと隊務は入って来る。丁度いい、忙しさでのことを振り切ろうとした。それなのに何の因果か、結局辿りつくのはなのだ。 * * * * * 土方さんに呼ばれるのは別段珍しいことではない。間者としてあちこちへ走るのもまた俺の役目の一つだ。今回もまたそうして暫くここを空ける話なのかも知れない。色々と推測しながら副長室の襖を開けると、土方さんだけでなく近藤さんもいた。何やら難しい顔をしているのを見る限り、今回は困難任務なのだろうか。 「まあ座れ」という土方さんの言葉に従うと、彼は溜め息をついて重い口を開いた。 「綱道さんと関わりのあった店の人間が、変若水に関する資料を持っていたと言う情報が入った」 「持って“いた”?」 「店主は既に死んでいる。今はそいつの子どもらの周りを長州の奴らがうろちょろしているらしい。綱道さんは長州の人間といるって話もあるし、何か怪しい。とても偶然とは思えねぇ」 手にした書状を、眉間に皺を寄せながら見つめる土方さん。およそ、現在潜入捜査中の者から届いたものだろう。 土方さんの話によれば、店主の子が保身のために情報を長州へ売る恐れがあるということだった。誰だって殺されるか否かとなれば、情報くらい簡単に売るだろう。しかも現在資料を持っているらしい人間は、羅刹や変若水の研究とは何の関係もないという。それなら尚のこと情報が外へ漏れる危険が高い。今回の任務はそうなる前にその資料をこちらへ譲渡してもらい、加えて暫くの間、本人には気付かれぬよう監視をするというものだった。 油断をしている訳ではないが、さほど難しい任務ではないだろう。情報を持っているというだけで命を狙われる危険が付き纏うのだとすれば、自分たちへ譲る方が安全だ。しかし依然目の前の二人の表情は硬い。 「…何か難しい問題でも?」 「難しいというか、厄介だな。山崎の報告を聞いたが、店主の一番上の子と言うのは女で、長州の一人が彼女に縁談を持ち込み、既に婚姻済みだ。慣れて来た頃に資料を手に入れるつもりなんだろうよ」 「生活の苦しかった彼女のきょうだいごと引き取って養っているみたいなんだ」 「ま、体の良い人質だな」 なるほど、情報がその娘の手にある内は手を出さないだろうが、いざとなればきょうだいを殺すと言う算段か。しかし娘は研究については何も知らないということだったので、どちらかと言えばその娘自身というよりも、新選組に対する挑発のように思える。できるものならやってみろ、と言われているようだ。それにしても、同情しているふりをして弱みに付け込むとは非道なことをする。同じような例を最近見たばかりだから余計に嫌悪を感じる。 同じような例。その当事者である彼女を思い出して、またどこかが軋み痛む感覚がした。会わなくなれば忘れられるものだと思っていた。彼女に対する思いも、時間と共に薄れて行くものと思っていた。だが最後に見た泣いている彼女の顔は、まるで焼き付いたかのように離れてくれない。決して受け入れているとは思えない様子だった彼女は果たしてあの後、受け入れることはできたのだろうか。今はまた以前のように笑っているのだろうか。 彼女のことを忘れるどころか、日に日に思いは強まるばかりだ。本当は今すぐにも彼女の働いていた店へ向かい、彼女のその後を確かめたい。今はどこにいるのかも知りたい。けれどそのような資格が自分にはないことなど分かっている。いや、そんなものはただの言い訳に過ぎない。知りたいなら聞きに行けばいい。それができないのはきっと恐れているからだ。彼女の居場所を知り、様子を見に行った時に、以前自分に見せてくれていたのと同じ表情で彼女が生活していたとすれば、平常心でいられる自信がない。何かがひび割れるような、或いは酷く軋むような感覚に陥ることに恐れを抱いている自分がいる。 「斎藤、聞いてるか?」 土方さんの声にはっとする。するとそこには訝しげな表情をしながら、こちらを見ている二人がいた。またぼうっとしてしまっていたらしい。何でもありません、と答えると、まだ疑うような目で見られたが、土方さんは話を続けた。 「そう言う訳だ、可能な限り穏便にやってくれ。何か聞きたいことはあるか」 「もしも相手が資料を渡さなかったり、資料の内容を知っていた場合の対処は」 「…落ち着いて聞け、斎藤」 俺の問いには答えず、声を落としてそう前置きする。土方さんが書状を折り畳むと、近藤さんと目を合わせる。そこまで答えにくいようなことは聞いていないつもりだったのだが、二人は随分と慎重に考えているようである。まさか、という予感と、もしや、という恐れとが頭の中で混ざり合う。そんなはずはない、疑いは疑いのままで終わってくれと願った。 やがて、土方さんは浅く溜め息のように息を吐き出す。「斎藤の方がよく知っているだろう」という言葉を聞いて、予測が確信へと一気に近付く。たった一つ浮かんだ名前が、土方さんの声と重なった。 「娘の名前は、」 口にすることを封じて来た名前が耳から入り、心臓が一際大きく跳ねた。どうか違ってくれという願いは虚しく掻き消える。俺が何かを願えば願うほど、それは全て遠退いて行くと言うことをたった今思い出したのだ。随分と久しく耳にするその響きが重くのしかかる。 俺の反応を予想していたのか否か、二人は複雑そうな顔をする。きっとこの人たちは俺に今回の任務を任せたくはなかったのだろうと、その表情を見て容易に想像できた。だが監察方は現在、各々の任務についており、悠長に相手の出方を窺っていられることではない。もしかすると彼女から情報を手に入れれば、彼女は弟たち諸共殺されてしまう可能性もある。彼女と顔見知りであることは交渉に有利だが、同時にそれは別の危険を孕んでいる。もし彼女が資料の譲渡を拒否した場合のことだ。 「可能な限り、と俺は言った。後の判断はお前に任せる」 土方さんらしくないどこか厳格さの欠ける発言に、余計どうすればいいか分からなくなる。「脅せ」でも「斬れ」でもない曖昧な表現。任せる、ということは信用はされているのだろうが、逆に失敗は許されない。だとすれば、もしもの場合はどう動けばいい。どう動くのが良い。 (いや、) 俺は、どう動きたいのだろうか。 (2010/4/24) ← ◇ → |