せめて、名前を呼んで振り返ってくれた時、あの人の目には一番いい自分が映っていて欲しい。あたしにとってあの人が特別であるように、あたしもあの人にとって特別になりたいだなんて、きっと身分違いにも程があるのだから。

 だけどあの人の名前を呼べば呼ぶほど、その名前が特別なもののように思える。あの人に呼ばれれば呼ばれるほど、自分の名前は特別なもののように思える。呼ぶその瞬間、緊張しないわけがない。けれどあたしが生きている内にあの人の名前を呼ぶ回数なんてきっと限られている。だから何度でも呼びたい。

 できれば笑顔で、「斎藤さん」と。






* * * * *







ちゃん、ちょっと」
「はい?」



 昨日、たっぷりお休みを貰ったおかげで、あたしの体調はとても良かった。知らない内に無理をしてしまっていたのか、驚くほど今日は体も軽い。そのためお客さんへの対応も自然といつも以上の笑顔になる。お得意様には何かいいことでもあったのかと訊かれるほどで、心当たりがない訳でもないあたしは、笑って誤魔化すしかなかった。

 そんな中、ご主人に手招きされてそちらへ行けば、声を低くして怪訝そうにあたしに訊ねて来た。



「彼、ちゃんの知り合いかい?」
「え?」
「さっきからずっとこっちを見てるんだが…もし付き纏われているようなら気を付けないといけないよ」
「ええ…」



 誰かに付き纏われているような覚えはない。ご主人がちらりと視線をやったその先、店の入り口付近をあたしも目で追って、あたしは思わず叫びそうになった。口を両手で押さえて何度も何度も瞬きをする。

 そうだ。昨日別れ際に「明日会いに行く」と言われたのだった。思えばそれだけで舞い上がってしまって日時の指定なんてしていなかったが、まさか本当にあたしに会いに来てくれるだなんて思わなかった。建前なんて言葉があるし、あっちだって忙しいだろうし、あの言葉をもらえただけでもあたしは十分だったのに。

 斎藤さんは、本当にあたしに会いに来てくれた。



「っすみません、知り合いです…!」
「ああ、それなら良いんだ。あんまり待たせるのも悪い、行っておいで」
「ありがとうございますっ」



 あたしは慌てて店の外へ出た。大した距離を走ったわけでもないのに、心臓が早まるせいで呼吸が不規則になる。斎藤さんを前にすると、なんだか気恥ずかしくて俯いてしまった。おはようございますとか、昨日はありがとうございましたとか、何か言わなければならないことはたくさんあるはずなのに、嬉しくて嬉しくて言葉にならない。あたしの口からは小さく笑いが零れて来るだけで、斎藤さんも何か思案しているのか何も言わない。けれど、ぽつりと「邪魔しただろうか」と呟く。それを聞いてあたしはがばっと顔を上げて叫んだ。



「だ…大丈夫です!むしろご主人が待たせると悪いからって、話して来いって、時間をくれまして…っ」
「わ、分かった…落ち着け



 必死で訴えるあたしを宥めるように手で制する斎藤さんに、はっとして身を引いた。駄目だ、どうも冷静になれない。すみません、と小さな声で言ってまた俯く。斎藤さんを直視することもできないだなんて、これではせっかく来てもらったのに失礼だ。ゆっくりと顔を上げてみると、斎藤さんは僅かに頬を緩めていて、更には「髪が跳ねている」と言ってあたしの前髪を撫でた。



「な…っ!」
「あ、いや、すまない。驚かすつもりはなかったのだが」
「いえ、あの、…はい、そうですよね」



 もう会話が成り立っているかどうかすら分からない。ただ目の前に斎藤さんがいる、それだけで目眩でも起こしたような心地になる。それからあたしは必死に話題を探して、「今日は天気がいいですね」とか「もうすぐ梅雨ですね」とか、他愛のない会話ばかりをしていたのだけれど、間がもたない。こうしてみると本当に彼は無口なのだと思う。こうして並んで立っているだけでも嬉しいし幸せなのだけれど、できれば声を聞きたいし話をしたい。あたしは行き場のない手をぎゅっと握り締めて、途切れた会話の続きを考える。

 すると、不意に斎藤さんが口を開いた。



「本来ならの仕事の終わる頃に来るべきなのだろうが、生憎と今日は夕刻から巡察がある」
「ええ、お忙しいことは存じています」
「だが、やはり時間を間違えてしまったようだ」
「そんなこと、」
「店の主人がずっと怖い顔をしてこちらを見ている」
「え、やだ…っ」



 それはそうだ、仮にもあたしは仕事中なのだから、あまり長い時間放り出してはいけない。名残惜しいけれど、そろそろ斎藤さんともお別れしないといけない。そして、もう次はいつになるだろうと考えてしまった。一度甘やかされるとどんどん欲張りになってしまう。会えたなら話したい、話せたなら触れてみたい、だとしたらその先はあたしは何を望むと言うのだろう。ふと、考えは立ち止まる。

 その先なんて、きっとあたしなんかが望んではいけないことだ。斎藤さんとあたしでは身分も立場も何もかもが違う。だからあたしの気持ちはきっとこれからも隠したままだ。伝えることなんてしてはならないのだろうし、このままがいい。

 今の生活に不満がある訳じゃない。弟や妹、祖父母は大切だし、彼らのために働くことは苦でもなんでもない。むしろ弟たちがいるからあたしはいくらでも仕事ができる。この間のように体が不調でも働けるのだ。けれど、同じ年頃の子たちの幸せそうな話を聞くと、どうしても羨ましかった。だから斎藤さんと出会えて、こんな気持ちを知っただけであたしは十分。もう二度とないような経験をしているのだと、あたしは噛み締めている。



「せっかく来てもらったのにすみません」
「いや、次は俺も時間を配慮する」
「次…?」
「ああ」



 迷惑だったか、と聞いて来る斎藤さんに、あたしは「とんでもない!」とまた詰め寄ってしまう。すぐさま身を引いたが、斎藤さんは最初と同じように小さな笑みを見せて「そうか」と返してくれた。

 願ってもない“次”。斎藤さんの方からあたしに示してくれた次の機会。深入りしてはいけない、これ以上望んではいけないと分かっているのに、どうしても抗えない気持ち。口を開けば「好きです」と言ってしまいそうで、あたしは固く口を閉ざした。あたしの斎藤さんに対する気持ちや態度が変わっているように、斎藤さんのあたしに対する態度が初めて会った時と変わっているのは明らか。けれどその原因が同じとは限らない。

 話すほど分かって来た。斎藤さんは本当は優しい。本当は初めて会ったあの時からずっとそうだったのだと、今になって気付く。そうでなければあの時、足を滑らせたあたしを受け止めてなどくれなかっただろう。その後も足の心配をしてくれたり、体調を気遣ってくれたりする。そうやって優しいから、あたしは止められなくなる。多分もう、自分では引き返せないような所にまで来てしまったのではないだろうか。



「楽しみに、しています」
「ああ」
「あの…お仕事、気を付けて下さいね」
もあまり無理はするな」
「はい」



 上手く笑えていただろうか。斎藤さんの前で笑うことなんて、もう難しいことじゃないはずなのに、どこかぎこちない気がしてならなかった。斎藤さんが眉根を寄せて何か言いたそうにしていたから。
























(2010/4/11)