目を開けると見慣れない天井、薄暗い部屋。ここはどこ、と身を起こすと見覚えのある背中が目に入る。斎藤さんだ。机に向かっているその人は、ゆっくりと振り向いて「目が覚めたか」と言った。そこでようやく、あたしはここにいる経緯を思い出した。嫌な予感が胸を占めつつ、恐る恐る斎藤さんに聞く。



「もしかしなくても、もう夕刻ですよね」
「そうだが」



 どうやらあたしは半日この部屋で寝て過ごしたらしい。しかも斎藤さんが何やら作業をしている隣ですやすやと。申し訳ないのと恥ずかしいのとでいっぱいになり、あたしは項垂れた。半日居座って今更だが、これ以上お世話になる訳には行かない。とりえず、この布団はどうすればいいのだろうか。



「帰るなら送る」
「あの、でもお仕事しているんじゃ…」
「急ぎでないから構わない。それに門までの道は分からないだろう」
「…はい」



 結局、借りた布団もそのままに背中を押されて廊下に出る。すると、目に飛び込んで来た西日の眩しさに思わず目を細めた。

 あたしの前を歩く斎藤さんの背中を見つめながら、少し後悔した。せっかくここまで来たのに、ろくに斎藤さんと話もせずに帰ることになってしまったのだ。新選組だって暇じゃないんだから、ゆっくり話なんてしている暇はないのだろうけど、半日寝ているくらいなら少しでも話をして帰った方がましだった。斎藤さんのことだからずっと部屋にいてくれたのだろうし、もし変な寝言でも言っていたらどうしよう。恥ずかしさで消えてしまいそうだ。



(どうしよう…)



 こんな気持ちになるのは初めてだ。こんなにどきどきするのも、どう思われたかをいちいち気にすることも。これまで、他の誰にもこんなことを思った経験がない。どうしよう、どうすればいいのだろう。このまま帰るのがすごく惜しい。もっと見ていたい、もっと話したい、もっと知りたい。そんな欲がどんどんと膨らむ。

 だめだめ、と頭を振って掻き消すも、屯所の門が近付くほどにあたしの足取りは重くなる。部屋を出てから一言もしゃべらない斎藤さんは、こちらを振り返ることもしない。その必要がないのだから仕方ないことではあるけれど、自覚してしまった自分の気持ちに逆らうことができなくなった。

 とうとう門まで来ると、ようやく斎藤さんはあたしを見た。いつもと変わらない落ち着いた表情だ。変わったのはあたしの方。あたしの意識の方なのだと嫌でも思い知らされる。微かに震える唇で「斎藤さん」と呼んで、あたしは懸命に掻き集めた言葉を伝えた。



「また、お会いできますか」



 胸の前で手をぎゅっと握り締め、言えたのはたったそれだけ。本当はもっと言いたいことがある。もう少しだけ斎藤さんといたいだとか、もう少しだけ話をしたいだとか、今望むことがある。けれどきっと斎藤さんからすれば迷惑に違いない。だからせめて次の機会を期待したい。

 斎藤さんの返事を急かすかのように鼓動は速まる。あたしの言葉に斎藤さんは僅かに目を見開き、あたしを見下ろした。唐突過ぎて言った意味が伝わらなかっただろうか。それもそうだ、ついこの間まで会う度にびくびくしていたのに、今度は会いたいだなんて、冷たい言葉の一つや二つは飛んで来ることも有り得る。それとも理由を問われるだろうか。それはそれで説明するのは恥ずかしいのだけれど。

 思わず身構えたが、斎藤さんの返事はまるで予想だにしなかったものだった。



「また、とはいつだ」
「…はい?」
「明日か、明後日か、それとももっと先か」
「え…っと…?」
「言わなければ、俺が明日あんたに会いに行く」



 今度はあたしが驚いて言葉が出ない。今、この人は一体なんて言っただろうか。聞き間違いではないだろうか。とうとうあたしの耳はおかしくなってしまったのではないだろうか。だって、もしこれが総司さんならまだしも、斎藤さんがそんなことを言うはずがない。「あんたに会いに行く」なんて、そんなの嘘だ。

 けれど、前髪の奥から覗く斎藤さんの目は真剣そのもの。とても冗談とは思えない(冗談を言うような人でもない)。ようやく斎藤さんの言葉を噛み砕いて呑み込むと、また顔が熱くなる。それ以上斎藤さんを見ることなんてできなくて、目を逸らして俯いた。



?」
「あ、明日!明日ですね!」
「すまない、都合が悪かったか」
「いえ、そうではなくて!あの……嬉しいんです」



 頬が緩むのを抑えられない。恥ずかしいのでそれを隠そうと前髪を直すふりをして顔を隠した。しかし、その手は斎藤さんによって退けられてしまう。何かと思ってそっと顔を上げれば、再度ぶつかる目と目。

 あれだけ苦手だとか、ちょっと怖いだとか思ったのに、今はもうどうしようもなく離れがたい。迷惑かけちゃだめ、我儘言っちゃだめだと叫ぶ心とは反対に、動かない足。いい加減、話を切り上げて「もう帰りますね」と言えばいいのに、それも言えない口。あたしが黙り込んでしまうと、斎藤さんの方が「仕事に戻る」と言ってさっと背中を向けた。

 その手を掴んで引き留めることができないのは、臆病な手だ。






* * * * *






(何だったんだ、今のは)



 思わず「仕事に戻る」と言ってしまったが、急ぎの仕事は既に片付いている。俺はまるでから逃げるように戻って来てしまった。しかもまだ陽は落ちていないとはいえ、昨夜同様、を家まで送るべきだったのではないだろうか。

 いや、それどころではない。俺は何か、大変なことをいろいろと口走っていたような気がする。また会えるかと聞いて来たに、返事も待たずに明日会いに行くと言ってしまった。いや、そもそもはそれでいいのだろうか。今日にしても総司といた所を引き剥がしたりと、思い返せばなかなかに手荒なことをしている。は総司に会いに来ていたはずなのに、総司とはろくに話もせず帰ることになったのだ。

 けれど、明日の約束を取り付けた時ののあの表情――俯いて顔を赤くしたをあれ以上見ていることはできなかった。きっとあのままあの場に留まれば、を手離したくなくなる。



(…手離す?)



 いや、そもそもは俺のものでも何でもない。一体何を考えていると言うのだ。大体、のこととなると突拍子でもないことを考え過ぎる。もう少し落ち着かなければと何度も思うのだが、を前にするとどうも上手く行かないのだ。

 門から随分遠く離れてから大きなため息をつく。は無事に家に着いただろうか、そんなことまで気になってしまう。彼女を見ると冷静でいられないが、彼女がいなくても気になって仕方がない。しかも今日はといても苛立ちなど微塵にも感じなかった。自分の健康を顧みない所は相変わらずだが、それが彼女なのだと思うと誰か周りの人間が気付いてやらなければ、とも思う。年は聞いてないが、恐らくまだ二十に満たないのではないだろうか。それにも関わらず弟たちのためにと一人で働いていれば、犠牲にするものもあるだろうし身近に頼れる者もいないのだろう。あれだけ無理をしているのを見れば分かる。

 考えても考えてもきりがないのに浮かんでは消え、浮かんでは消えるの声、顔、言葉。ぼうっと歩いていると、が休んでいる間に部屋から追い出した総司が、縁側に座りながら俺を呼んだ。大方に関することだろうという俺の予想は当たる。



ちゃん、一人で帰したんだ」
「…反省している」



 そう言うと、総司は目を見開いてぽかんとした様子でこちらを見た。何かおかしなことでも言っただろうか。不審に思って「何だ」と問えば、「何でもないけど…」と何やら歯切れの悪い返事が返って来る。



「一君、もう一回聞くけど。ちゃんのことどう思う?」



 それはこの間も総司が聞いて来たことだ。しかし、この間のようにすぐには答えが出て来ない。どう、と言われて簡単に表せるものではなくなっている。恐らく適当なことを言った所で総司なら見透かすのだろうし、誤魔化せないのなら方法は一つだ。

 部屋へ戻ろうと総司へ背を向けながら短く答えた。



「答える義務はない」



 大体、自分でも理解しかねているこの感情を一体なんて説明しろというのだ。
























(2010/4/7)