あれからずっと、の笑った顔が忘れられなかった。それまで怯えていたのが嘘のように、控えめに笑った彼女は花のようだった、…と思う。



(…朝から何を考えているのだ、俺は)



 頭を軽く振って味噌汁を口へ運んだ。

 特別親しいわけでもない俺は次にいつ彼女と遭遇するかなど分からない。どこで働いているのかということや、毎日子どもたちを迎えに行っていることは知っているが、俺がそこへ行く理由などない。…いや、そもそもなぜに会うこと前提で考えている。そんな必要はないだけでなく、俺には毎日隊務がある。本来ならばそちらの方で頭を悩ませなければならないというのに、なぜだか気付くとのことを考えてしまう。怪我はもう治ったと言っていたが本当だろうか、また無理を治ったふりをしているのではないだろうか――そんな心配や、が俺を呼ぶ時の声、遠慮がちに上目で見て来ること、そんな一つ一つをいちいち思い出しては小さく息をつく。その時、平助が箸をくわえたまま訝しげに俺を見た。



「一君、なーんか最近おかしくねぇ?」
「何がだ?」
「何がって言われると分かんねぇんだけどさ」



 平助と佐之が勝手に話を進める。心当たりがなくもないので何も言えず、俺は黙っていた。

 しかし他の人間にも悟られてしまうなど弛んでいる証拠だ。雑念は追い払うに越したことはない。どうにか頭を一度空にしようと、非番の日にもひたすら素振りをするなど試せることは全て試した。しかし一瞬でも気を抜くとの顔が浮かぶ。その繰り返しで埒が明かない。

 すると総司が口を挟んで来た。



「一君にも不調な時はあるってことだね」
「斎藤!お前どっか悪いのか!?」
「そんなはずがないだろう。総司のは戯れ事だ」



 噛みついて来た新八を一蹴する。総司はまるで分かり切ったような顔をして言うが、正しくは不調ではない。に関することになると何か落ち着かない。いや、それが不調と言うことか。しかし俺が全面否定したので、平助も新八もどこか腑に落ちないような顔をしつつそれ以上何も言わず、また朝食の取り合いで騒がしくなった。目の前では平助と新八が攻防戦を繰り広げている。

 俺はその二人の戦いを笑いながら見ている総司が目に入ると、またそこからのことを思い出していた。総司とは一体いつ出会ったのだろうか。とはいつもどんな話をしているのだろうか。総司はとの関係を否定したが、彼女は総司の前であれだけ楽しそうにしているのだから、彼女が総司を慕っていたとしてもおかしくはない。しかしそんなことを考えていると、無意識にぼうっとしていたのか、皿の上からおかずが全て消えていた。

 前言撤回しよう。やはりどこかおかしいらしい。






* * * * *






 その日は夜の巡察だった。夜であればと遭遇することもない。何せ治安の不安定な今、家に小さい子どものいる彼女が夜間であるくことなどないからだ。そう思うと少し安心した――待て、なぜ安心しなければならない。今朝と考えていたことがまるで違う。落ち着かないのは変わらないが、に対して思うことがまとまらない。最初に見た時はあれだけ苛立ったと言うのに、次に会った時はそうではなかった。むしろあの時は今よりも落ち着いていたように思う。

 余所事を考えていては注意力が散漫する。隊務中だと言うのにこれでは何かあった時に冷静に対応できない。幸い今夜は何も異常はなかったから良かったものの、もし何か怒っていたとしたら、その先は想像に固くない。屯所の入り口にまで戻って来て短く息を吐き出すと、後方が何やら騒がしい。どうやら女が一人、最後尾の隊士を捕まえて何か訴えているらしいのだ。



「女の要求はなんだ」
「沖田組長を呼んでくれ、とのことです」
「総司だと?」



 俺は他の隊士には中に戻るよう指示を出し、残された女の方を見て驚いた。それはここにいるはずのないだった。何故あんたが、と聞くよりも先に焦った様子では駆け寄って来て、「総司さんはいますか!」と訴える。



「総司がどうした」
「斎藤さん、お願いです、総司さんを、早くしないと…っ」
「落ち着け、



 切迫した表情で掴みかかって来たを肩を掴んで引き剥がす。彼女に落ち着けと言いながら、自分にも言い聞かせた。こんな時間に、しかも屯所にが現れるという有り得ない事態に動揺している。彼女もはっとしたように俺を掴んでいた手を離すと、小さく「すみません…」と涙まじりに言いって俯いた。事情を話すよう促すと、ようやく落ち着いたのか「弟が、」と切り出す。



「弟の熱が下がらなくて、上がるばかりで、それで、」
「…薬をもらいに来たのか?」
「総司さんが何かあったら、て前に言ってくれていたので……すみません、時間も考えずに馬鹿でした…」



 の話によると、もし子どもたちが熱を出したりしたら彼女に薬をやると言っていたらしい。けれどのことだ、迷惑をかけてはいけないと今日になるまで総司を頼らなかったのだろう。聞けば弟の一人が熱を出していて、しかも上がったり下がったりしているのだという。おかしいと感じたは夜中にも関わらず一人で家を飛び出して来たようだ。

 弟のためとはいえ、女一人でこんな時間に出て来るとは危険にもほどがある。けれど今はそんなことを話している場合ではない。とりあえず総司を呼ぶのが先決だ。ここで待っていろ、と伝えて振り返ると、既にそこには総司がいた。そしていつもとは違い、少々厳しい口調でに問う。



ちゃん、こんな時間に一人で来たの?」
「総司さん、あの、…ごめんなさい」



 項垂れるに近付くと彼女の手をとり、手のひらにいくつか薬の包みを乗せた。ぱっと顔を上げると泣きそうな顔で総司を見る。恐らくに声をかけられた隊士が話をしていたのを聞き、事情を推測して薬も持って来たのだろう。その勘の良さに改めて驚きつつ、総司が彼女の涙を拭ってやった瞬間、どこか痛むような、軋むような変な感覚に襲われた。そしてそれはすぐにまたあの苛立ちに変わる。総司はと言えば、先程とは打って変わって笑いながら彼女に言葉を掛けた。



「偉かったね。でも危ないからもうこういうことはしちゃ駄目だよ」
「はい」
「それから、もっと早く言うこと」
「…はい」



 何か違う雰囲気の漂う二人を、どこか違う場所から見ている気分だった。最早自分は蚊帳の外だ。加えて、総司がの手を未だ強く握っているのを見て、ますます苛立って来た。これ以上ここにいても不快になるだけだ。用も済んだのでその場を後にしようと背を向けたのだが、総司はそんな俺を見逃さなかった。



「どこ行くの一君、ちゃん一人で帰るの危ないんだけど」
「…………」



 総司の口調は俺に送り届けろと言っているようなものだ。元々巡察の終わる間際にに声をかけられたので、「あんたが送り届けたらどうなんだ」とはさすがに言えない。二人を振り返ってみると、やはり何やら楽しそうに総司は笑っている。一方は俺と総司を困惑したお様子で交互に見た。彼女からすれば一刻も早く帰って薬を飲ませたいに違いない。

 俺は息をついて、まだ総司に握られたままのの腕を掴んだ。



「行くぞ」
「でも、」
「総司も言っただろう。あんたを一人で帰すのは危険だ」
「…じゃあ、お願いします」



 答えたを引っ張っていこうとすると、総司が俺の肩を掴んで引き留めた。急がなければならないのに何かと思えば、「だから言ったでしょ」と笑う。一体何のことだ。不審に思っていると更に言葉を続けた。



「これからもっと苛立って来ると思うって、前に言ったよね」



 分かっててやっていたのか。少々呆れたが、今は総司に構っている暇はない。続きは帰ってからにするとして、俺は屯所の出口に向かった。

 そうだ、苛立った。不快だった。けれど屯所を出ればそんな思いはまた綺麗に消えていて、自分でも少し混乱する。そのせいか、途中でに言われるまで、腕を掴んだままだと言うことには気付かなかった。慌てて手を離すと、はすぐに手を引っ込めて掴まれていた腕をもう片方の手で押さえた。知らない内に力を入れ過ぎてしまっていただろうか。申し訳ないと思いながらを見ると、彼女はぽつりとこぼす。



「夜で、良かったです」



 その言葉の真意がよく分からず、「そうか」とだけ返しておいた。
























(2010/4/5)