父が生前は薬種問屋を営んでいて顔が広かったこともあり、その伝手であたしは父と交流のあった小間物屋で働いている。一度は身売りも考えたことはあったけれど、そうして得たお金で妹たちを養って行くのは気が引けたし、祖父母の必死の説得もあって思い留まった。そんなあたしを雇ってくれると言ってくれたのが、父の友人でもあった店の主人だった。

 これまで一度も休んだことなどないので、これからも休むわけにはいかない。昨日の怪我だって歩けないほどの痛みはなく、仕事に差し支えはないだろう。鈍い痛みを堪えて店に来ると、早々にご主人に頼まれたのはお遣いだった。



「丁度良かった!ちゃん、これを長谷屋まですぐに届けてくれないか」
「長谷屋さんですか?」
「昨日渡しそびれていた品があってねぇ、さっき気付いたんだよ」
「分かりました、すぐに行って来ますね」



 こういう日に限ってお遣いだなんて、あたしの普段の行いが悪いのだろうか。そう思いながらも、ご主人はあたしを信用して品を預けてくれているのだから、無事これを届けなければならない。最近は京も何かと物騒だから、すぐそこへお遣いへ行くにしても十分用心しなければならないのだ。この間も女の子が浪士に絡まれて困っていたし、まさか自分を狙って来るような人間はいないとは思うが、注意するに越したことはないだろう。

 それにしても、思った以上に左足が痛む。昨日は帰ってからすぐにしっかり冷やしたのだが、それも応急手当てに過ぎない。帰っても炊事だ何だでゆっくり休む間もなく、これでは治るのも長引きそうだ。仕事ができないような大きな怪我でなかったことが不幸中の幸いだろうか。

 気だるい身体でぼんやりとそんなことを考えながら歩いていると、ドン、と向かいからやって来た人に肩が軽くぶつかってしまった。「すみません」といつものように謝って通り過ぎようとすると、「おい、待ちな姉ちゃん」と太い声が後ろからかかる。何だか嫌な予感がした。そろそろと振り返ると、あたしよりもずっと背の高くて体格のいい男が三人。腰に刀を佩いているのを見て、背中を嫌な汗が伝った。



「ぶつかっておいて詫びもなしか?」
「いえ、あの、…すみませんでした」
「口だけの謝罪で済まされると思ってんのか?アンタのせいで剣が握れなくなったらどうしてくれんだよ!」



 ぶつかったくらいでは怪我の一つもできないのは分かり切っていることだ。それでもこの人たちはなんでもいいから口実にしたがる。あたしは何度も「すみません、すみません」と謝罪を繰り返す。普段だったらこんな人たち相手にだって弱気になんてならないのに、体調が万全でないだけでどうしても弱気になってしまう。言い返すだけの元気が出ず、男たちの怒声や繰り返し放たれる脅しの言葉に涙が溢れて来た。そんなあたしの様子を見て腕を掴もうとぶつかった男の手が伸びる。唇を噛み締めてぎゅっと目を瞑ったその時、



「そこまでだ」



 どこかで聞いたような声が、あたしと男たちの間に割って入る。まさか、と思いそっと目を開けると、最初に飛び込んできたのは鮮やかな浅葱色だった。それを見た男たちも一目散に逃げ出し、一時は空気の張り詰めた通りはまた元の活気を取り戻す。

 あたしは身体の力が一気に抜けて、その場にへなへなと座り込んでしまった。そしてようやく、あたしを助けてくれたその人はこちらを振り向く。思った通り、斎藤さんだ。昨日と変わらない考えの読めない表情であたしを見下ろす。冷たいのか厳しいのか、とりあえず好意的ではない目を向けられ、さっきとは違う感覚に身がすくむ。ここはお礼を言うべきなのだろうが、「自分は嫌われてしまっている」という先入観から、上手く声が出ない。

 居た堪れなくて地面に目を移すと、斎藤さんは不意にしゃがんであたしの表情を窺った。なのに、思わず後ずさるように身を引いてしまう。ますます怪訝そうな顔をし、あたしを見る斎藤さん。何か言わなければ、そうだお礼を言わなければ、そう思っても声にならない。



、体調の良くない時に出歩くのは勧めない」
「…は、い…」



 そう返事をするのが精一杯だった。どうしても緊張して何も言えなくなる。斎藤さんにあたしの名前なんて教えただろうかとか、体調が悪いなんてなぜ斎藤さんが知っているのだろうかとか、聞きたいことはたくさんある。けれどどれ一つとして口から出て来ない。

 あたしの体調の良し悪しを知るはずのない斎藤さんが悟ったのは、きっと彼が洞察力だとかに優れているからなのだろう。恐らく昨日、あたしが足を痛めたことも見抜いている。そこから推測したのかも知れないが、それにしたって苦手だ。気持ちの分からない表情も、見透かすような目も。そして、どんな言葉が出て来るかが分からないことも。



ちゃん、どうしたの?」



 助け船のように反対方向からかかった声は、聞き慣れた総司さんのものだった。総司さんが近付いて来ると、入れ替わるように斎藤さんは立ち上がってあたしから離れた。よく見知った人を前にして、ようやくあたしはちゃんと声が出た。



「総司、さん…こそ、」
「僕は巡察だよ。…それでちゃん、何か巻き込まれでもした?」
「いえ、あの、斎藤さんに助けて頂いて…」



 言いながら斎藤さんの方を見たが、あたしの方など一瞥もせず「任務を果たしたまでだ」とだけ言って、隊士を引き連れて去って行ってしまった。突き放されたような気持ちになり、あたしの気持ちは更に沈んでしまう。一旦落ち着いたはずなのに、彼の態度にまた泣きたくなった。

 総司さんはあたしと斎藤さんの背中を交互に見、何か事情を察したのか困ったように笑う。そして「切れてるよ」と言って、昨日あたしが妹にしたように袖口であたしの唇を拭ってくれた。出血するほど噛み締めていたとは思わず、言われて初めてじわじわと痛くなって来たことにわたしは気付いたのだ。一方、総司さんは「うーん…」と唸って落ち込んだあたしにかける言葉を考えてくれていた。「斎藤君は…」と切り出す。



「悪い人じゃないよ」
「それは、…分かってるんですけど」
ちゃんは斎藤君のこと嫌い?」
「嫌いって言うか、あ、いや、嫌いではないんですけど」
「けど?」
「…苦手、です」



 慎重に言葉を選ぶ。決してあたしは総司さんの仲間の人の悪口を言うつもりはない。けれど、それがあたしの率直な気持ちだった。あたしからすれば、斎藤さんとは好き嫌いを言うほど関わってはいない。斎藤さんにとってあたしの何かがいけなかっただけなのだと思う。だけどそれを総司さんに確認するだけの勇気はない。昨日今日出会った相手であろうと、わざわざ自分から嫌われていることの確信を得るなんて自虐的なことはしたくない。もうこれ以上落ち込む必要もないだろう。

 苦手だ、と告げたきり会話は途切れる。その沈黙を破ったのは総司さんの方だった。そっか、と息をついてから言葉を繋げる。



「斎藤君もちゃんが嫌いってわけじゃないと思うけどなぁ」
「…そうでしょうか」



 自分でも思いの外、刺々しい声が出る。はっとして口を押さえたあたしを見て、総司さんは楽しそうに笑ったけれど、告げ口されないか多少心配になる。そうすれば更に斎藤さんからの風当たりは冷たくなる。お店は変わらず同じ通りにあるし、巡察も定期的に同じ人がやって来る。その途中でまた今日のような迷惑をかけてしまうかも知れないし、そうでなくても総司さんと交流があるので、仲間である斎藤さんと出会う確率はないわけではないのだ。

 いくら親しくしてもらっている総司さんの言うことでも、さすがに斎藤さんに嫌われているのではないということまではあたしは信じられなかった。
























(2010/4/1)