と二人になったは良いが、何から話せばいいか分からなかった。こうして並んで歩くと言うのも随分と久しぶりで、何か落ち着かない。 そうして思案しているといつの間にか屯所は見えなくなっており、かなり沈黙を守り続けてしまったことに今更気付いた。に気まずい思いをさせてしまっただろうか。ふと横目で彼女を見るが、俯いていてその表情は窺えない。こうしていても残りの時間は少なくなるだけだ。彼女を家に送り届けてしまえば、せっかく引き留めたというのに全て無駄になってしまう。 、と呼び掛け、足を止めると、彼女も立ち止まる。向かい合うと途端に緊張が増した。やはり言うのは避けるべきだろうか。いや、しかし今日を逃せば次はいつになるか分からない。 「話があると言ったが…」 「はい」 「あまり大したことではなく、…いや、だからと言ってどうでもいいわけではないのだが」 「は、はあ…」 言うべきことは考えていたはずが、思ったように出て来ない。何か言い訳のような言葉を連ねてしまった。 一度ゆっくりと瞼を閉じ、そして開く。目の前にいるのは二週間前と変わらない。彼女の人と話す時の癖なのか、胸の前で両手を握り締める仕草も変わらない。ただ、今日はまだ一度も彼女の笑った顔を見ていない。屯所で総司と話していた時も、どこか無理をして笑っているような気がした。確かに総司の言っていたとおり、心ここにあらずといった様子だ。ぎこちなく笑うを見るのは気分がよくない。初めて彼女が笑っているのを見た時もそう思ったが、控え目ながらその表情は花のようなのだ。それが今は曇っている。 (の気が沈んでいるなら、) 小さく息を吸い込んだ後、できる限り平静を装って言葉を繋げた。 「馬鹿にせずに聞いて欲しい」 「斎藤、さん…?」 「あんたは笑っている方がいい」 「…え?」 「二週間空けたのは申し訳ないと思っている。だが、何かあったのなら遠慮などせずに今、話してくれないか。不平でも、文句でも、何でも構わん。あんたに我慢はさせたくない」 は目を見開いて何度も瞬きをした。そしてその視線が俺から外れて彷徨い、また地面に落ちる。けれど口は固く閉ざしたまま、何か迷っているようでもあった。 「俺はあんたをずっと支えたいと、思っている」 意を決して、ここの所思っていたことを告げる。思ったよりもするりと出て来て、伝えることに何の抵抗もなかった。浮かべては掻き消し、浮かべては掻き消して来た一つの仮定を、今なら自ら認めることができる。気がつけばのことばかり考えていた理由も、の前で冷静でいられなかった理由も、曖昧で不明瞭だった雑念も、今ようやく繋がった。靄がかかっていたような思考は途端にはっきりとその輪郭が浮かんで来る。 恐らく、初めて出会ったあの日から俺はに惹かれている。今、目の前で俺の言葉に答えあぐねているに、なんとか触れたいとさえ思ってしまうのだ。を困らせたいわけでは決してない。こうも悩ませてしまうことだったのだと知り、やはり言うべきではなかったかと後悔が頭を過る。 「、」 「………い…」 「なんだ?」 よく聞こえず訊ねると、彼女の肩がびくりとはねた。明らかに様子がおかしい。いけないと思いつつ、俯いたきり顔を上げないの頬に触れてみる。その瞬間、乾いた音と共に弾かれてしまった。ほんの一瞬だ。けれど触れた手の違和感に気付いた。俺の手のひらが何かで濡れている。自分の手を見て、そしてへ視線をやれば、目を赤くして彼女は泣いていた。 「…?」 「あ、ごめ、なさ…っ」 謝罪を告げる声は掠れて途切れ途切れ。着物の袖で乱暴に目元を何度も拭うが、彼女の涙が止まることはない。俺は少し動揺しながら、そして先程のように拒まれないかと戸惑いながら、に近付いた。案の定は「来ないで下さい」と弱々しくこぼして後ずさるが、そんな彼女の腕を掴んで引き留めた。そして再度、彼女の頬に手のひらでふれ、親指で目元の涙を拭った。けれどやはりは泣くことをやめない。笑って欲しいだけなのに、それを願えば願うほど上手く行かない。に会いたいと思えば思うほど遠退いたのとまるで同じだ。 そんなことさえ叶わないと言うのなら、を守りたいと思えば思うほどは傷付くのだろうか。傍にいて欲しいと思えば思うほど、離れて行くのだろうか。 「斎藤さん、駄目、なんです」 「何がだ」 「も、遅……っです…っ」 「待て、何のことだ」 いまいち要領の得ないことを言うの肩を掴んで、その顔を覗き込んだ。けれどすぐに目を逸らされ、俯いてしまう。は一向に口を開こうとしないので、俺はゆっくりとから手を離した。 何が駄目だと、何が遅いと言うのだ。何かをに期待していたわけではない。けれどまさか泣かせることになるとは思わなかった。目の前の現実に、何か打ちのめされたような気になる。普段、無理をしてでも平気な振りをする彼女が、こんな風に泣く姿を見るのは初めてで、一体どうすればいいのかも分からない。 すると、やがて彼女がぽつりと呟くように言葉を紡いだ。 「…あたし、もうすぐ結婚するんです」 * * * * * の言葉が、ずっと頭の中を巡っている。あれからどうやって彼女と別れたのか、どうやって自分が帰って来たのか、全く覚えていない。気付けば屯所に戻っていて、気付けば夕飯も終わっていた。そして、気付けば目の前に総司がいる。 「…良い方には転ばなかったみたいだね」 「知っていたのか」 「まあね」 彼女の弟たちにはお世話になってるし、と付け加える。 それなら何故言わなかった、と今ここで総司を責めてもお門違いも良い所だ。まさか、そんなはずがない、と自分の中の仮定を悉く潰して来た自分にも責任がある。自分の気持ちにさえ気付いていれば、あそこまで彼女が思い詰める前になんとかできたのかも知れない。いや、もしもの話などし始めたらきりがない。今はただ、後悔の念ばかりが頭を占める。 政略結婚は珍しいことでもないし一般的だ。周囲の人間もそうやって夫婦になった者たちが殆どで、遠い話でも何でもない。ただ、それは本当に正しいのだろうか。家のため、と思えばもちろん正しい選択なのだろう。彼女には養うべき人間がおり、結婚さえすれば多少は彼女一人の負担も軽くはなるだろう。 だが本当にそれでいいのか。あの、顔をぐしゃぐしゃにしてまで泣いたを思い出すと、どうも納得することができない。いや、それ以上に自分自身が認めることができない。はずっとあの店で働いていくものだと、何の確証もなしに信じ込んでいた。当たり前のものなど何一つないことは、日々死と隣り合わせであれば分かっていたはずだ。 (いや、だからこそか) 願うほど遠退く。求めるほど遠退く。それはこれまで数え切れないほど他者を斬って来た報いなのか。けれどそれでも、唯一つ初めて願ったものだったというのに。 「ちゃんは最後まで悩んでたよ。弟たちの幸せと自分の気持ちを秤にかけて」 「…だろうな」 「僕はちゃんが良いならそれでいいけど、一君は納得してないんじゃない?」 「…………」 「一君、ちゃんはずっと一君が好きだったよ。もちろん今もね」 それに気付くのも、俺は遅過ぎた。照れた時は前髪を押さえて俯く癖も、俺と話す時に両手を胸の前で握り締める癖も、目を丸くして驚く様子も、控え目に笑う様子も、遠慮がちに俺を呼ぶ柔らかい声音も、今思えばそれらは全て特別だった。何もかもが今更だ。弟たちのためというなら自分の気持ちなんて押し殺す、はそういう人間なのだ。それでもまだ、何かの間違いであって欲しいと思った。 (2010/4/23) ← ◇ → |