おい総司!という子どもの声がして、私は石段を上る足を速めた。いつも通り子どもたちを迎えに来たはいいが、今日はどうやら総司さんが子どもの遊び相手をしてくれているらしい。彼だって忙しいはずなのに、これは早く子どもたちを連れて帰らなければ。 石段を登り切れば、予想通りそこには子どもたちに囲まれた総司さんがいた。私はまだ弾んでいる息を整えてからその集団に近付く。そして一人の子どもにそっと近付くと、軽く頭を小突いた。大して力も入れていないのに「いってー!何すんだよー!」と大袈裟に叫んで振り返った子どもは、私の姿を見るなり態度を一変、「姉ちゃんお帰り!」と言った。他の子どもたちもそれに倣って私に「おかえり」と口々に言う。ただいま、と短く返すと、最初に小突いた子どもに向き直る。 「こーら!年上の人を呼び捨てにしちゃいけないっていつも言ってるでしょ」 「でも総司、大人げないんだ!」 「関係ありません。ほら、総司お兄ちゃんって呼びなさい」 窘めてから改めて総司さんの方を向くと、彼も「おかえり、ちゃん」と笑って言ってくれた。さして彼は気にしていないようだが、この子たちの躾のためにも必要なことだ。だが、どこをどう間違えたのか、なかなか直らない。 「忙しいのにすみません。加えてこの子たちってば…」 「気にしなくていいよ。それより今日は遅かったんだね」 「はい、ちょっとご贔屓にしている先生捕まってしまって」 だいぶ日も傾きかけており、そろそろ月でも見えそうだ。仕事が長引いてしまったことを説明して、まだあちこちに散らばって遊んでいる子どもたちを呼んだ。 子どもたちは私を「お姉ちゃん」と呼ぶけれど血の繋がった妹や弟ではない(かといって私の子どもでもない)。いわゆる、孤児だ。祖父母に似て放っておけない性格をしている私は、ふらふらと彷徨っていた幼い子どもたちを引き取って養っている。 私自身、既に両親を亡くしているので親のいない寂しさはよく分かる。それでも私には祖父母がいてくれたから寂しさは極僅かなものだった。けれどこの子たちには誰もいない。これはもう私が育てるしかないと、我が家の経済状況もあまり考えずに、現在五人の子どもたちを養っている。だから、血は繋がっていなくてもこの子たちは私の妹・弟なのだ。 仕事は決して楽じゃないけれど、この子たちのためだと思えば苦でもない。それにこうして、総司さんのように気遣ってくれる人もいる。 「総司さんはお仕事は良いんですか?」 「今日は非番だからね。暗くなって来たらさすがにこの子たちだけじゃ心配だし、ちゃんが来るまではね」 「いつもありがとうございます。私、何もできないのに」 非番とはいえ、その貴重なお休みをこの子たちの相手で潰させてしまったことは申し訳ない。項垂れていると、後ろの方から高い泣き声が聞こえて来た。驚いて振り返ると、一番下の妹が転んで額をぶつけたようで泣いていた。慌てて駆け寄って額を見たが特に血も出ておらず、本当にぶつけただけのようだ。私は着物の袖で砂で汚れた額を拭ってあげ、泣きやまない妹を抱きあげた。 「子守りも楽じゃないね」 「慣れですよ」 ちゃんならいいお嫁さんになれるんじゃないかなあ、なんて冗談を言いながら総司さんは笑う。私も釣られて笑いながら、「もう大丈夫?」と妹に声をかけてそっと降ろすと、子どもと言うのは元気なもので、もう走り出して石段を降り始めた。私も追い掛けるように総司さんと石段を降り始める。 夕刻ともなれば風が少し冷たく、思わず小さなくしゃみをしてしまった。風邪を引いては仕事にもいけない。うちだって決して生活に余裕があるわけではないので、仕事は休むことにはいかないのだ。総司さんと分かれたら走って帰ろうか、などと考えていると、「あ」と総司さんが声を上げる。何かと思い彼の方を見た瞬間だった。 「きゃ…っ!」 妙な身体の浮遊感があったのは一瞬。なのに、とてつもなく長く感じる時間だった。その一瞬の間に、なぜあと二、三段という所で足を踏み外すのだろうかとか、このまま頭をぶつけたら死ぬだろうなとか、ぶつけたらやっぱり痛いのだろうかとか、そうしたらこの子たちは誰が養って行くのだろうかとか、様々なことが頭を駆け巡った。 けれど、ぎゅっと目を瞑ったその先に、考えていたような衝撃も痛みも何もない。もしかしてもう死んだ後なのだろうか、思った以上に呆気ないものだ、と思いながらそっと目を開けたが、目の前は暗い。どういうことだと半身を起こすと、私は誰か人を下敷きにしていた。長い前髪の奥の目と視線がぶつかる。もしやこの人は三途の川の番人か何かなのだろうか。 そんな勝手な憶測を張り巡らせ、けれど訳が分からずそのまま硬直していると、後ろから「ちゃん大丈夫?」という総司さんの声がした。ということは、私はどうやら無事生きているらしい。しかし見知らぬ相手の下敷きになってくれるなど、下手をすれば巻き込まれると言うのに一体誰なのだろうか。しばらくその人と見つめ合ってしまっていると、その人が先に口を開いた。 「怪我がないならいい加減退いてくれないか」 「…あ、すみま、せん」 その冷やかな目に怯んで思わず途切れ途切れに返してしまうと、すぐに後ろからひょいっと腕を引かれ、私は今度は後ろに身体が傾く。 「そ、総司さん…」 「ああ、ごめんごめん。心配したのに無視されちゃったから仕返し」 「すみません、大丈夫です、怪我もないですし、…っ!」 言った傍から左足にズキンと痛みが走る。どうやら挫いてしまったようだ。歩けないほどではないだろうが厄介だ。けれどこれ以上心配をかけるわけにも行かない。「どうしたの?」と顔を覗き込んで来る総司さんに、私は何でもない振りをして「何でもないですよ」と頭を横に振った。まだ疑っているような顔をしていたが、そこはそれ、私も大丈夫だと押し通す。 そして今度は下敷きになってくれた人を振り返ると、彼は無言のまま着物についた砂埃を払っていた。再び申し訳ない気持ちになって「あの、」と声をかけたが、それは彼自身の声によって遮られる。 「いつまで遊び歩いている、と土方さんがご立腹だ」 「山崎君がいないならあの人もたまには自分で来たらどうだろう」 「あ、」 「土方さんも忙しい方だから仕方ない」 「の!」 「どうしたの、ちゃん?」 どうも仲間外れにされているような気がしてならず、とうとう私は総司さんを引っ張ると、まるで今思い出したとでも言うように私の方を見た。二人分の視線を受けるとそれはそれで話しづらく、「あの…」「えっと…」などと口篭ってしまう。そしておずおずと「お二人はお知り合いですか?」と聞くと、総司さんはきょとんとした顔をして、それから「あれ…?」と零した。 どうも総司さんと知り合いらしい彼を見たが、やはり表情一つ変えず立っているだけで、何の説明もしてくれそうにない。それ以前に、離れてから私と一度も視線が合わない。それはまるで意図的にそうしているかのように、私がいないものと扱うかのように。下敷きにしてしまったことを根に持たれているのだろうか。 会って間もない人にそんな心配をしながら、助けを請うようにもう一度総司さんを見る。 「ちゃん、会ったことなかったっけ」 「ええ、初めてお会いしましたけど…」 「そっか、ごめんね。彼、斎藤君ね」 「斎藤、さん」 ちらっと彼を見たが、一瞬合ったかと思われた視線はすぐにふいっと外されてしまう。それでもお礼は言うべきだと、「ありがとうございます、斎藤さん」と頭を下げると、「いや…」とだけ低い声で言う。 確かに下敷きにするなど、私は決して軽い人間ではないから大変なことだ。けれどここまで嫌われてしまうとなると、何か私の雰囲気自体がこの人の気に食わないのだろう。元々のそういった好き嫌いであれば努力しても挽回するのは難しい。その事実に少し落ち込みながら、けれどそうも気にしていられないので、丁度総司さんに迎えも来たことだしもうここで彼らとは別れることにした。 総司さんは勘が良いので私の足を気にしているようだったが、それには気付かない振りをする。そして別れを告げて彼らを通り過ぎた。その瞬間、またほんの少し斎藤さんと目が合ったけれど、やっぱり何を考えているのか読めない。 その目を少し、苦手だと思ってしまった。 (2010/3/31) ◇ → |