もう痛みなんて欠片も残っていない大きな傷のある右半身。誰かに好奇の目で見られても気になんてしないけれど、同情の眼差しだけはいつも嫌いだった。 だから、右半身だけは服で隠した。左側はノースリーブだが右側はちゃんと手首まで袖があり、グローブもしている。スカートの下に着用しているソックスは右足のみで左足は素足。奇妙でも何でも、隠すことができればそれでよかった。自分でもその傷さえ目に映らなければ、虚勢であっても強くいられる気がしたから。
そして、ゆるぎなく。 あれはそう、十一、二歳の頃だったか。暗殺し損ねた相手に返り討ちに遭ってしまったことがあった。相手は裏社会とは何の関係もない平凡な家庭の主人で、銃なんて持ったこともないような男だった。そんな人間が、家で妻と子どもが待っているという理由それだけで暗殺屋を超えたのだ。言わばあれは執念の勝ち。“家族のため”という理由だけで、暗殺の天才とまで言われたあたしにこれだけの傷を残したのだから。 以降、あたしは自分の甘さへの戒めとして、傷を消さずに残している。けれど痕は右半身と広範なため、いつどこへ行くにも右半身だけは全て隠れるような服を着ている。 「らしくなかったなぁ…。家族のことを口走った相手に対して、引金を引くのを躊躇っちゃうなんて」 「…………」 「暗殺屋みたいな生きるか死ぬかの世界では、コンマ一秒が命取りになる。あたしはそれに負けたんだよ」 ティエリア・アーデはその大きな傷から目を逸らすことなく見ていた。なんとも言えないよう表情で、あたしの話を聞いているのかいないのかは分からないけれど、ずっと見ていた。間違いだっただろうかと、何の反応も返さない彼の様子を窺いながら後悔する。やはり話すべきではなかった。本当のことなんて話さず、これまでずっとして来たように嘘で誤魔化せば良かったのに、なんで事実を伝えてしまったのだろう。 確かに彼の目は強かった。「嘘は言わせない」とでもいうような目をした。それでも以前、ソレスタルビーイングに入ったばかりの時のあたしであれば、それすらかわせるはずだった。じゃあできなかったのはなぜだ。変わったのは何だ。環境のせいでも、周囲の人間のせいでもない。あたしたちだからだ。あまりにも真逆なあたしたちが互いが互いを見、矛盾を見つけ、そこへあの医師が介入したことによって変化は加速を遂げている。 「そんなに見て、気持ち悪いでしょ」 そうだと言って。そうだと頷いて。同情も哀れみも自分には要らない。蔑みでいい。自分のような人間には優しい言葉も慰めも、ましてや先生の言うような愛情なんて要らないのだ。いつものように冷たい言葉を吐いて、自分を決して赦さないで欲しい。他者に求めるものなど、それで十分だ。それこそが・という人間には相応しいのだ。自分に甘いのは先生だけで十分なのだから。けれど、そんな願いも虚しく、ティエリア・アーデは首を横へ二、三度振った。 「君だけが悪い訳ではない」 きっとそれは、真っ直ぐに出て来たのだと思う。迷いも躊躇いもない声だった。いつものような冷たさも突き放すような意図も含まない、彼の奥から出て来た言葉だった。 そうだ、いつも彼の言葉には嘘がない。どんな時でも有りのままの事実や感じたことを伝えていた。騙すこともはぐらかすこともせず、だからこそ時にそれは酷く残酷だった。今もまた望みとは反対の柔らかい温度で、頑なに守って来た鉄格子を溶かし、その中へ入って来ようとしている。荒らすわけでも踏みにじる訳でもなく、ただ真実を知るためだけに。 「俺たちは同罪だ。トレミーにいる者だけではなく、ソレスタルビーイングにいる者も全て」 「でも…!」 「直接手を下す実行部隊に罪悪の比重が傾くのは当然だろう。だが君にはそれでも続けられるだけの芯があるとは思っている」 「その科学的根拠は?」 「心理学も僅かに科学に入る」 屁理屈だ。思わず、ふと笑ってしまった。彼にとっては大真面目なのだろうが、あたしからすれば滅茶苦茶でしかない。すると機嫌を損ねたのか彼は眉根を寄せてあたしに詰め寄る。真っ直ぐに見下ろす二つの目は、そらすことをも許さない。そしてその目の奥には、以前とは違う僅かな温度を感じる。 最初は本当に嫌悪しかなかった。反りが合わず、互いが互いを否定していた。けれど自分はティエリア・アーデを利用するためだけに近付いた。どこに向ければ良いのか分からない怒りや絶望を撒き散らすには、ソレスタルビーイングは恰好の獲物だったのだ。そんな自分の勝手のために作り上げたここでの“・”は偽物。なのにそんな偽物に気を許し始めたティエリア・アーデに罪悪の気持ちも何も浮かばなかったのは、暗殺屋の“・”が共存しているから。 きっと自分は、いつからか恐れていた。暗殺屋の自分を知った表の人間たちは、それまでの関係など何もなかったかのように離れていくから。明るく振る舞ったのも、別人を装ったのも、全ては虚勢だった。 「君が何を思ってここにいるのかは知らない。だが居続けるなら組織のために戦闘に身を投じる覚悟をしろ。・、君が君の意志で以てだ」 「あたしの、意志…」 「抜けるのは自由だ。君が外部へ機密情報を売るような人間でないことくらい承知している」 そう言うとティエリア・アーデは自分が着ていたカーディガンを脱ぎ、それであたしの体を包んだ。 (もしかして、気遣われている?) 見るに堪えない、というわけではなさそうだ。傷跡の残る体をこれ以上晒す必要はないと、そういう意味だろうか。彼の行動の意味を理解しかねて恐る恐る顔を上げると、やはり何を考えているのか読めない表情をしていた。それでも探ろうとしばらくその赤い宝石みたいな目を見ていると、すっと目を細める。 あたしは返す言葉が見つからず、また俯く。すると、唐突にティエリアが言った。 「君のいつもの振る舞いが嘘だと見抜けない俺だと思っていたか」 「え…?」 「罵られたいだの何だの、それがわざとやっていることだと気付いていないとでも思っていたのか」 「おもって、いた…」 「なら、本当に馬鹿だな」 言ってる意味が分からない。それなら何だ、ティエリア・アーデは最初から全部知っていたと言うのか。ソレスタルビーイングにいる自分の人格は作ったものだと言うことも、利用するための振る舞いだったことも全て。 何もかも無駄だったのだと思い知り、途端に体から力が抜ける。見抜かれているのなら、自分がティエリア・アーデを利用することなんてできない。恰好のターゲットにした相手は自分の上を行っていたのだ。結局、自分がこの組織に入った理由は全て消えてしまった。戦争根絶のために命を懸けることなどできず、世界平和を死ぬほど願っている訳でもなく、ただ自分の破壊衝動のままに参加した組織。けれどそれすらも消えてしまった。今、・がこの組織に身を置く理由など何もない。戦う理由も何もない。じゃあ、これまで自分がして来たことは一体なんだったのか。 ぎり、と唇が切れるほど噛み締める。何もなかったあたしにとっては、この組織を壊滅させることこそがあたしが生きる上で課せられたことなのだと信じていた。それまでは血で血を洗うような世界で明日を食い繋ぐために息を顰めて生きる、そんな生活の連続で、人生の転機など有りもしない。そんな中でソレスタルビーイングにスカウトされたことは、自分の人生において最初で最後の大きな仕事だと思っていた。逆にいえば、それくらいしかなかった。生きがいなんて感じたことのない自分が、ようやく見つけたことなのだと思い込んでいた。だけどそれも終わった。上手く行った試しなど暗殺以外では一度もないが、それでも順調だとは思っていた。順調にこの組織に馴染んで行って、そして最後は自分が終わらせてやるのだと信じ切っていた。 「…どうせ馬鹿だよ」 「?」 「これまでだって人を殺した金で食って来たんだから学も何もない!どうせ浅知恵だよ!殺人しか能がない暗殺屋だったんだから!」 「、そういう意味じゃない」 「じゃあ何よ!あたしには何もなかった、この組織にいるのだって、食い繋ぐためで、っあたしを見捨てている世界なんてどうでもいいんだあたしは!」 すると突如、乾いた音と共に左頬に痛みが走る。ティエリア・アーデに引っ叩かれていた。これまでだって何度もこういうことはあったけれど、今日は特別痛い。さほど力は入れて叩かれてはいないはずなのに、めちゃくちゃに痛い。は左頬を押さえてその場にへたり込んだ。ティエリア・アーデもしゃがんであたしの顔を覗き込み、顎を掴んで正面向かせる。 「泣きながら言われても説得力がない」 「泣いてなんか…!」 「人に構われたくて仕方ないのだろう」 「は…」 「そうやって自分を卑下して、本当は自分に気付いて欲しかったんじゃないのか?」 自分でも気付かないような気持ちの奥底を見透かす目。自分が引っ叩いた癖にその箇所にそっと触れる手。誘導するように紡がれる声と言葉。じわじわと内側に侵入して来るそれらこそ、本当はもうずっと望んでいたのかも知れない。優しい何かをずっと欲していたのかも知れない。あれやこれやと馬鹿みたいな言い訳をして、狂った振りをして、本当は違ったのかも知れない。あの医師やティエリア・アーデに言われてようやく気付く。本当の自分は、酷く単純だ。 確かにティエリア・アーデの言うとおりなのだろう。誰かに構って欲しくて、誰かに気付いて欲しくて、誰かに一緒に歩いて欲しかった。暗殺なんて好んでするはずがない。ただ、あの時はあれしか生きる方法がなかった。同じ年頃の女の子たちを街中で見かける度に羨望と道警に苛まれたりもしたけれど、気付いた時にはもう遅くて、“普通の女の子”には戻れなかった。気付けば、愛せる自分なんてどこにもいなかった。 「やめてよ、そうやって中途半端に、人に干渉すんの」 「中途半端?」 「興味と好奇心で聞いておいて、結局何も変わらないんだから放っておいてよ、やめてよぉ…」 ぱしん、とティエリア・アーデの手を振り払う。その振動で今度こそ涙がぱたぱたっと床にこぼれ落ちた。 情けない、こんなことで泣くなんて。初めて人を殺した時だって、任務が上手く行かなかった時だって、この右半身の傷を負った時だって泣かなかったのに、なんでこんなことくいらいで泣かなければならない。ましてや今は命の危険にさらされている訳でもないのに。悔しくて、悔しくて、そう思うとまた涙が流れて来た。 「残念だが、放っておくつもりもこのままにしておくつもりもない」 「だからそういうのが、」 「・、俺から離れるな」 「何、言って…」 「戦争根絶の意志がないなら、今は俺を理由にしろ。だから組織を離れるな」 「何それ、さっきと言ってることが違う」 「気が変わった」 平然とそんなことを言うと、涙でぐしゃぐしゃになった顔のあたしを抱き寄せる。そして今度は耳のすぐ傍で言う。「手離す気がなくなった」と。 暫く言われていることの意味が分からなかったが、数回瞬きをしてその言葉を噛み砕く。つまり、意志も理由もなくてもこの組織にいろということか。いや、今ティエリア・アーデは自分を理由にしろと言った。そんなこと言いそうもない人物だ。ヴェーダが絶対で、戦争根絶は世界のためと言うより責任だとか義務のように行っているような人物がだ。完璧主義の彼が、そんな甘いことを言うなんて考えられない。 けれどどうせ組織を抜けた所で、地上にあたしの居場所なんてない。このまま地上に残っても暗殺屋には戻れないし、それこそのたれ死ぬだけだ。それなら甘えても良いのだろうか。世界のために闘うなんてできないし、そのために命を削ることだってできない。まだ、それだけの価値があるものだとは思えない。けれどいいだろうか。トレミーにいたいとほんの少し傾きかけた心のために、そして自分を理由にしろと言ってくれたティエリア・アーデのために、組織に残ってもいいだろうか。 「じゃあ、離さないで」 「言われなくてもそうするつもりだ」 当然だ、とも言いたげな声でティエリア・アーデは言った。それが余りにもらしくて、少しだけ笑った。そしてあたしは抱き締められるがまま体を預ける。伝わる体温に安堵しながらゆっくりと瞼を閉じると、涙は最後の一筋が流れた。 自分を愛することはまだできない。けれどもしそれができたとしたら、まず最初にこの人に愛されたいと、なんとなくそう思ってしまった。 (2010/3/24) ← → |