何かを愛したいならまず自分を愛しなさいと、その人は言った。そんなことができるはずがなかった。この世の何よりもあたしはあたしを愛することなど有り得ないから。そしてこの世の何も愛そうとは思わなかったから。それでもその老人は言った。 自分を大事にしなさい、自分を愛しなさい、と。
そして、ゆるぎなく。 ティエリア・アーデのお陰もあって、怪我の回復は言われたよりも早かった。まだ少しだけ違和感は感じるけれど、もう自力歩行も可能で、日常生活動作には何の支障も来さない。けれどガンダムに乗った時、Gに耐えられるかどうかはまだ少し心配が抜けない。あたしがぽつりとそう零せば、ティエリア・アーデは「それなら完治するまで待つだけだ」と言い、嫌いなはずの地上に二人で留まることを許してくれた。途中、刹那が交代すると言って来てくれたのだが、ティエリア・アーデはそれを頑ななまでに拒んだ。 そして今日は久しぶりに先生が往診に来てくれていたのだが、その回復の早さには先生も驚いていた。きっとあたしが無茶をすることを見越して完治予定を遅めに推測していたのだろう。診察が終わってティエリア・アーデを部屋に入れると、真っ直ぐにあたしの前まで来て診察の結果を聞いた。 「足の調子はどうだ」 「随分いいみたい!アーデのお陰だね!」 いつものように笑って言うと、彼は「当然だ」と抑揚のない声で短く返す。確かに一人で地上に残れと言われてもそれなりに心配なことはあるけれど、何週間も一緒にいてもティエリア・アーデの態度はほとんど変わらない。以前より少し干渉して来るようになったし会話も増えたけれど、相変わらず素っ気ないし愛想が悪い。きっとあたしが負傷しているから手を出して来ないだけで、常ならば確実に蹴りの一つや二つ入るだろう場面でも口で返されるだけだ。としては、少々手応えがない。 「あと五日もすれば大丈夫でしょう。もう戻っても大丈夫でしょうが、どうですか?」 「あたしは良いんだけど、アーデは?」 「自分のことくらい自分で決めたらどうだ」 「じゃあ明後日戻ろう!」 「分かった」 連絡を入れて来る、と、ティエリア・アーデは少し早足で部屋を出て行った。どうやら彼はとことん先生が苦手なようだ。軽い挨拶をしてから全く会話をしていない。雑談をするような必要もないからかも知れないが、あたしから見るとティエリア・アーデが避けているようにしか見えなかった。それは先生も感じ取っていたらしく、ティエリア・アーデが部屋を出て行ったのを確認すると、「随分嫌われてしまったようだね」と苦笑いした。 「あの人に好きな人なんていないと思うから気にしなくていいよ」 「でも前来た時とは違って見える」 「そうかなあ…」 「けれど、君はあまり変わっていない」 「んー…」 ベッドに腰掛け、足をぶらぶらさせながら曖昧な返事をする。先生にも椅子を勧めると、まだもう少し話して行くつもりなのだろう、彼は深く腰掛けた。 すぐに変わることができたら苦労はしない。幼い時からの性質なんて、意図的に変えるのは非常に難しい。そして変えようという気がなければそうそう変えられないだろう。あたしは自分を嫌ってこそいるけれど、そんな自分を変えようとはあまり思っていない。あたしを気に入らないなら排除すればいい。そのためのソレスタルビーイングへの参加だ。王留美はそこまであたしのことを見抜いていたかどうかは知らない。いや、そもそもヴェーダが自分を選んだと言うのだから、コンピューターも宛てにならない。 「けれど僅かに変化しかけている」 「しかけて、ね」 「は私が大事かな?」 「もちろんよ。おじいちゃん先生はあたしを助けてくれたもの。しかもソレスタルビーイングにまでついて来てくれた」 以前任務に失敗し、今回のように死に物狂いで逃げ回っていた所を助けてくれたのが、このおじいちゃん先生だ。その頃はまだあたしも殺気の塊のような人間で、甲斐甲斐しく世話をしてくれる先生を鬱陶しく思っていた。それでもしつこくあたしの世話を焼いてくれるのであたしが折れたのだ。 それ以来あたしがどんな考えを持ち、どんな性格で、どんな仕事をしていようと本当の孫のように可愛がってくれ、更にはソレスタルビーイングに入ると言い出した時も止めることをしなかった。寧ろ自分もついて行くと言い出したのだ。自分のことをよく知っている人物が組織内にいてくれるということは大変心強いことだったが、彼も若くはない。様々な制限もかけられると説得し、心配したが笑い飛ばし、こうして今ではソレスタルビーイング所属のドクターとなった。 「じゃあ彼は?」 「…ティエリア・アーデはあたしの駒だわ」 「でもどうやら彼はちょっと違う風に認識し始めたようだ」 「彼は彼、あたしはあたしでしょ?ねえ先生、先生が何を期待しているか知らないけど、やっぱりあたしはあたしを愛せない」 「それはまだ分からんさ。の人生はこれからだからね」 「先生は、ティエリア・アーデがきっかけになることを望んでいるの?」 先生はやけにあたしにティエリア・アーデのことを話させたがる。複雑な気持ちで眉根を寄せ、目の前の老人を見た。すると、彼は朗らかに笑って立ち上がり、皺の多い手であたしの頭を優しく撫でた。 「そうかも知れないねぇ。愛さない人生と言うのは寂しいものだ。私はにそんな生き方をして欲しくないんだよ」 「…ティエリア、アーデは…」 「他にもっとと親しい人間がいるならそれでいい。けれど、と彼は近いが遠い。互いに興味があるんじゃないかと思ってね」 「ある意味、興味はあるけど…それじゃあ先生は愛する人がいるの?」 そう問いかけた瞬間、どこからか昼の十二時を告げる鐘が鳴った。この屋敷から少し歩いた所には時計台が建っているので、毎日定刻になると鐘が鳴る。 髪を撫でる手を離すと、大きな窓の向こうの空に目をやった。部屋に入り込んで来る日差しは暖かく気持ちがいい。トレミーは空調設備も整っていて快適だけれど、地球生まれ地球育ちのあたしには、やはり重力や日差しがあることが嬉しい。たとえ地球を好いてはいなくても、自分の行動しやすい環境であることには違いがないのだ。 目元に深く皺の刻まれた先生はたっぷり間をとると、ほんの少しだけ悲しそうに笑った。 「一人は、もうなくしてしまったねぇ…」 「一人“は”?」 「今の私にはがいるよ。私はをとても愛しく思う。血は繋がっていなくともは私の立派な孫だからね」 「あたしなんか…」 「、何かを愛したいならまず自分を愛しなさい。そうすれば自然と人を愛して行くことができる。それは愛されることにも繋がって行くはずだよ」 「あたしはそんなこと望んでいない」 この老人は自分を大きく変えた。けれどやはり今でも否定してしまうことがある。愛するとか、愛されるとか、そう言った観念的なことはよく分からない。よく分からないが、自分の領域ではないような気がする。自分の立ち入れない領域で、触れられない世界なのだ。人を陥れるだけでなくその命さえ奪ったこともある自分が、誰かを愛することは万に一つあったとして、愛されるなんてことがあっていいはずがない。自分に向けるくらいなら他の誰かに与えればいい。 「愛されることを望まない生き物なんているかな?」 「あたし」 「違う、はそれが怖いだけなんだよ」 「そんなことない!」 「、認めなさい。それがの欠けている所だよ」 いくら優しく諭されても譲らないあたしを、少しきつい口調で窘めた後、彼はぎゅっと抱き締めた。 「の本音を聞いたことがないね」 「あ、あたし、は…」 「うん」 「もっと、あいされ、たい、よぉ……」 「そうだね」 残酷なほど掘り返して行く本音。けれどそれは痛みでもなければ苦しさでもない。自分がもしも今死んでしまうとしたら――そう考えた時、思い浮かぶ顔があたしには無かった。滅多に泣かないというのに泣いてしまうほどの負の感情、それは寂しさだ。自分の中には誰もいない、空っぽだというその寂しさだった。誰も愛さないから誰も残らない。だから最期の瞬間に思い出す人もいない。 「ティエリア・アーデも、きっと、同じだ」 「うん」 「どうすれば、いいかな」 しゃくり上げながら老人に聞く。すると彼は、またくしゃりと笑って最初と同じ言葉をあたしに伝えた。まずは自分を愛しなさい、と。 * * * * * 医師が帰ってから、タイミングを見計らったかのようにティエリア・アーデはあたしの部屋に戻って来た。 「何を話していたんだ?」 「えっ?なになに、アーデってばあたしに興味あるの?やだなあ、」 「ある」 冗談のつもりで言ったというのに真面目に返されてしまった。いつもの調子が狂う。そんな真剣に見られると、ここで作り上げた“・”では対処できない。まさかティエリア・アーデとまともな会話をする日が来るとは思わなかったからだ。 レンズの向こう側に見える強い意思を宿した紅の双眸は揺れない。それに引き換えあたしは「えーと…」「あの…」などと迷いながら、ティエリア・アーデから視線を外した。 「あの医者の言うことは不可解極まりない。それに問題を解決しないまま放置するのは嫌いだ。彼は、この問題を解決する鍵は君だと言った。そこで・、俺は君のことをよく知る必要がある。けれど彼の口ぶりではヴェーダを使っても適切な情報を得られないと考えた。それなら君自身に協力してもらう必要がある」 「…ごめん、言ってることがよく分からないんだけど」 「分かれ、馬鹿か君は」 「あっ今の目いい!すっごく嫌そう!」 「貴様…っ、人が真剣に悩んでいると言うのに!!」 ティエリアも怒りやら何やらが積もりに積もっていたようで、とうとうあたしに掴みかかろうとした。けれどいつもなら簡単に捕まるはずのあたしは、その手をすり抜ける。「あはは!ごめんごめん!」と謝る気の全くない謝罪をとりあえず口にすると、いつものような笑顔ではなく、別人のように微笑んで口を開いた。 「いいよ、教えてあげる」 「なんだと?」 「でも、」 血生臭い話ばかりだよ。 そう続けようとした。けれど言わなかった。きっとティエリア・アーデにそんなことは関係ない。知りたいと言ったら何でも知りたがるだろうし、聞きたいと言えば何でも聞きたがるのだろう。 何かを言いかけて止めたあたしに眉を顰めるティエリア・アーデ。そんな彼に「ごめん、なんでもない」と頭を振る。その顔には、ティエリア・アーデも見たことのない表情が乗せられていた。微笑んでいるような、無表情のような、それでいて冷たくはない。凪いだ水面のように、あたしの声も、表情も、そして気持ちも穏やかだ。 (何から話せばいいんだろう…) 一瞬、そんな疑問が浮かんだが、話すよりも見せた方がきっと早い。少し緊張しながら服の裾をぐっと掴む。少し息を整えてから、あたしは一気に自ら服を脱ぎ捨てた。 「気持ち悪いでしょ?」 右肩から右の手背、そして大腿から外踝にかけては大きな傷跡がある。 (2010/1/3) ← → |