『熱が出た!?』 通信機の向こうでスメラギは叫んだ。 今朝、なかなかネリーが起きて来ないのでティエリア部屋を訪ねてみると、あろうことか彼女は高熱にうなされていた。きっと昨夜の怪我から来ているのだろう。命に関わるほど重篤な怪我はないが、歩く際にも痛みを訴えていたのでそれぞれ傷は深いようだ。これでは今トレミーに戻ったとして、彼女は足手まといでしかない。彼女だけでも地上での滞在期間を延ばしてもらうべく、ティエリアはスメラギに連絡を入れたのだった。 『…大体の事情は分かったわ。すぐにそちらに医者を寄越すから、ネリーがよくなるまでティエリアも地上で待機して頂戴』 「待って下さい。俺はそっちへ戻る、」 『普段は笑っていてもあの子にだって怖いものはあるの。ついていてあげて』 「そんなの他の人間でもいいだろう」 『私がネリーならティエリア、あなたを選ぶわ』 こうして、ティエリアの地上滞在期間まで延びてしまった。彼女が目覚めたら文句の一つでも言ってやらないことには気が済まない。お陰で巻き添えを喰らってしまった、と。
そして、ゆるぎなく。 医師だという老人男性が到着したのは、スメラギに連絡を入れて二時間ほど経った時だった。もう七十は超えているであろうその医者は、ネリーがCBに来て以来彼女の主治医をしているらしい。何か彼女の事情も知っているようで、内診中は部屋の外へ出されてしまった。程なくして入室を許可されたが、次に見たネリーには点滴のルートが繋がれていた。 「脱水ですね」 「脱水?」 「昨晩寝てから何も口にしていないのでは?」 「彼女も何も要らないと言った」 「考えてもみなさい。誰だって長時間、水も飲まずに炎天下の中で活動することはできないでしょう」 「…………」 正論を言われてしまい、何も言えなくなる。しかし頭の隅では苛立っていた。なぜこのような面倒事に巻き込まれなくてはならない、なぜ自分が説教されなくてはならない、それもこれも彼女の地上滞在に付き合わされたせいだ。昨夜だって風呂に入れたり怪我の手当てをしてやったり、挙げ句「寝付くまでここにいて欲しい」などと言い出す始末。自分などがいた所で怪我が良くなる訳でもないのに、その理由が分からない。なので、悪化するといけないから監視だ、などと尤もらしい理由付けられて、言われたとおり彼女が寝付くまでベッドサイドにいてやった。 「でも怪我の処置は完璧ですね。今のところ感染も起こしてない」 「そうか」 「ただ、右足を捻挫しているようだ」 ティエリアは顔をしかめた。いつ出撃しなければならないかも分からないのに捻挫だなんて、迷惑にも程がある。これではしばらくの間ネリーを戦闘に出すことは難しいだろう。しかしあれだけの怪我で戻って来ていたのだ、骨折とまでは行かなくてもヒビくらい一ヶ所や二ヶ所あると思っていたので、捻挫程度で済んだのは不幸中の幸いと言った所か。今朝より少しだけその顔から苦痛の消えたネリーを見て、ティエリアは小さく息を吐いた。 その後もティエリアは、医師から薬や日常生活の説明をネリーの代わりに受けた。これ以上悪化されても困るので、結局とうぶんはネリーの世話をすることを引き受けなければならない。生理食塩水の他に鎮痛剤も注入されているネリーは、まだ起きる気配はない。今朝よりは少し表情も穏やかになったように見えるが、まだ頬も紅潮している。 「果物でも何でもいいから食べさせて、薬を飲ませて下さい。それから、治るまでは右足に負荷をかけないように」 「分かった」 「それじゃあ私は帰ります。お大事に」 「ああ」 医者が帰るのを見送らなければと思い、彼に合わせてティエリアも立ち上がる。しかし、「結構ですよ」と制止をかけられた。玄関まで送るのが客人に対する礼儀だとは思うのだが、それを拒むとは変わっている。ティエリアが不思議そうに医者を見ていると、彼はネリーに目をやった。そしてすっと目を細める。眩しいのか、小さく笑っているのかはよく分からない。 「この子の傍にいてやって下さい」 「…スメラギ・李・ノリエガにも言われたが、なぜその必要がある?」 「調子が悪くなると心細くなるものなのですよ。ネリーは特に不安がるからね」 「そうだろうか」 ああ、そうだとも。 今度こそ笑って彼は言った。ネリーの主治医と言うだけあって彼女のことはよく分かっているのだろう。反対に自分は彼女について何も知らない。今は知る必要もないと思っている。ティエリアならヴェーダにアクセスして彼女の情報を引き出すことくらい容易なことだが、ネリーの個人情報が要るような事態にはこれまで遭遇していない。任務に差し支えなければそれでいいのだから、アクセスしようとも思わなかった。 ネリーはよくティエリアに付きまとってティエリアの情報を少しでも手に入れようとしているようだが、自分には同じように彼女にそうする理由もない。それに、普段の彼女の行為を止めさせられるような弱みが、ヴェーダの中の情報にあるとは思えない。 「分からないなら尚更ネリーの傍にいて下さい。この子にも欠けているものがある。なら、二人で探してみるといい」 「欠けている、だと?」 「欠けた所のない 「俺がネリー・コラールを必要とする日が来るとは思えない」 「それは分かりませんよ」 床に置いていた鞄を持ち、彼はティエリアに向き直った。老年らしい目尻の皺は、これまで彼がよく笑って生きて来たことを示している。温厚そうな人柄が表情によく出ていた。娘か孫でも見るような目でネリーを見、話す。 「ネリーといてやって下さい。それはきっと君にとってもマイナスではないはずです」 「プラスには?」 「それはネリーと君次第だ。それにねぇ…」 最後に彼はネリーの髪を数回撫で、一層笑みを深くする。そして言葉を続けた。人間関係に見返りを求め過ぎては損をする、愛されたいなら愛しなさい、と。 言われたことの意味が分からず、思わず黙り込む。愛されたいなどと自分がいつ言ったのだろう。自分はそんなもの求めていないし、必要がない。戦いの中にあってそんなものを求める意味などあるのだろうか。他を奪う存在である自分たちが、他からそのようなものを与えられることが赦されるはずがない。この医者だってCBの構成員の一人であるはずなのに、何を言っているのか不可解だ。 「必要なものだけが大切なものじゃありませんよ。例えば、私に君は必要ないが大切じゃない訳じゃあない」 「…実行部隊がいなければ組織が成り立たないからか」 「私情を捨てた構成員として採点するなら、その答えは満点です」 「違うのか」 「今日、私の話したことの意味が分からない部分は、全てネリーが鍵となってくれるでしょう」 その言葉を置いて、医者は帰って行った。それからティエリアは言われたとおりネリーに付き添い、ベッドサイドで過ごした。けれど、どれだけ彼女の寝顔を観察していた所で見えて来るものは何もない。あの医師に言われたことも何一つ理解できず、胸中はもやもやしたまま、心地よい部屋の暖かさにうとうとする。思えば昨晩もこうやって付きっきりで、夜中にも氷枕を変えたりなど、あまり睡眠をとっていない。普段から彼女には迷惑をかけられっぱなしだが、このような面倒は金輪際ごめんだと思った。 * * * * * 「んー…?」 薄く目を開けると、あまり馴染みのない天井が目に映った。ぼんやりしていた思考がゆっくりと回復して来ると、徐々に自分の身に起こったことを理解し始めた。そうだ、自分はかつての仲間に集団リンチに遇い、命からがら逃げ延び、ここに帰って来た。そして、確かティエリア・アーデが身の回りの世話を全てしてくれたのだ。 まだ上手く回りきらず、軽い痛みさえ感じる頭を押さえながら起き上がると、ベッドサイドではティエリア・アーデが椅子に座ったまま居眠りしていた。腕組みは普段からだが、いつも隙のないような彼がこんな無防備な表情もするものなのかと驚いた。 「アーデ…?」 恐る恐る声をかけるが起きる気配はない。せめて眼鏡だけでもとってやるべきだろうか。こんな不安定な体勢では、いつ眼鏡が落ちるか分からない。けれど身を乗り出して両手をそっと伸ばそうとすると、不意にティエリア・アーデは目を開いた。 「何だ」 「いやあ…眼鏡とった方がいいかなあ…て」 「必要ない」 そう短く返事をすると、眼鏡のブリッジをくいっと上げてじとりとあたしを見た。彼が鋭い眼光をこちらに向けるのはいつものことだ。慣れているし、いちいち自分のかけたちょっかいに大袈裟なまでにアクションを返して来るのだが、昨晩かけた世話のこともあり今日ばかりはらしくない罪悪感を感じてしまう。 そんなティエリア・アーデからどんな小言が飛んで来るやら、思わず身構える。しかし彼の次の行動はネリーが想像だにしないものだった。 「熱は引いたか」 あたしの額に自身の掌を当てて体温を確かめた。これまで叩く蹴るなどなかなかにバイオレンスな対応をされたことこそあるが、こんな風に触れられたことはない。しかも、まるで壊れものでも扱うかのように恐る恐るそっと額に触れて来たのだ。それで、徐々にはっきりして来た頭で把握する。この人は、他者に触れることに慣れていない。 「ん、引いた」 「医者から何か食べさせるように言われた。食欲がなくても食べろ。いいな」 「もしかして、おじいちゃん先生来てたの?」 「ああ」 もう少し早く目覚めればよかった、と口を尖らせて零したが、それについてはティエリア・アーデは何も触れなかった。難しそうな、いや、複雑そうな、かつ嫌そうな表情を一瞬しただけだ。あたしの主治医である“おじいちゃん先生”は非常に温厚で穏和な性格の医者だが、何かティエリアが気を悪くするようなことでも言ったのだろうか。CBに来て以来診てもらっているが、とてもじゃないけれど人の気を損ねるような人物ではないはずだ。 黙ってしまったティエリア・アーデを見つめていると、はっとしたように「それで?」とあたしに聞いて来た。 「…果物なら」 「林檎がある」 「うさぎさんにしてくれる?」 「何だその注文は」 「可愛いでしょ?」 「回復には関係ない。却下だ」 「意地悪ぅー」 ティエリア・アーデは私の文句には「…では善処する」とだけ返して立ち上がる。きっとキッチンへ行くのだろう。小さく息を吐き出すと、彼はドアへ向かう足を止めて振り返った。そしてあたしを足の先から頭の上まで見た後、何かを言おうと数回口を開閉させた。けれど結局何も言わず、ベッドサイドへ戻って来る。 「ついて来るか」 「は?」 「キッチンの場所が分からない訳じゃない!目を離した隙に何かあったら俺の責任にされるからだ!」 「は、はあ…行きます…」 何を必死に弁解することがあるのか、いつもあたしがちょっかいをかけた時の反応のようにティエリア・アーデは叫んだ。その勢いに気圧されて思わず頷く。 これは、先生に何かを言われたに違いない。昨日までとの彼の態度の違いに少し混乱しつつ、あの先生ならティエリア・アーデを変えるだけのことを言えそうだと納得した。けれどそれをティエリア・アーデに確認した所で、彼のことだ、全力で否定する。だから言わないことにした。先生はあたしのことでさえ、何も言わずとも見透かしている。それならこれは、ティエリア・アーデを通して自分に「変わりなさい」と言っているのかも知れないと、そう思ったから。 (2009/12/22) ← → |