地上での滞在先は同じ王留美の別荘だったけれど、部屋も別だし特に心配するようなことはなかった。あたしがいつ外に出て帰っているかティエリア・アーデは知らない。彼はどうやら外に出る気配はないし、あたしはずっと出続けるつもりでいる。同じ屋根の下でしかも隣の部屋だと言うのに、互いの一日の行動を知らないのは変な感じだった。こんなにも話さないことは初めてだろうが、あの性格を演じるのは逆に気が抜けないので、素の自分でいられるこの期間はありがたいものだった。











そして、ゆるぎなく。


〜起き上がる揺らぎ〜











 地上に降りて二日目に訪れたそこは、裏社会に生きる人間ばかりの集まる裏路地の店。以前は毎日と言うほど訪れていたが、ソレスタルビーイングにスカウトされて以来めっきり顔を出していなかった。そんなあたしの突然の訪問に、殆ど顔見知りばかりの店内は一時静まり返った。


「久しぶりね」


 あたし自身で沈黙を破る。誰もが目を丸くする中、しばらくして奥の方から女の声が聞こえた。


「生きてたのね、!」


 死んだかと思ってたのよ!と、酒瓶を掲げてカウンター席の方から声を上げる。密度は低いながら、誰もが立ち上がってあたしを見ている中、店内で座っている彼女の姿は確認できない。声だけでも誰なのかは大体想像はついていたが、客たちが道を開けてくれたその先の姿をみとめ、確信を得る。彼女は、長く一緒に仕事をして来た相手だった。


「生きてるよ」
「こっちへいらっしゃいな。酒、飲めないなら話聞かせてもらうわよ」


 隣の席を指差す彼女に首を振り、あたしはその場に留まった。

 あたしより幾つも年上の彼女は、若いながらにこの辺りじゃ名の知れた暗殺屋だった。あたしと同じように、金を積まれれば幾らでも任務を請け負い、成功率は100パーセントに近い。幼くしてこの世界に飛び込んだあたしの世話もよく見てくれた姉のような存在だ。そして、あたしに銃を教えた先代その人。あたしのの名前は彼女に与えられたものなのだ。


「今日は、依頼に来たの」
「依頼?アンタがアタシに?」
「誰でも構わないわ。この中で政界の情報入手に最も長けてる人間、お願いしたいの」
「…報酬は?」
「その人の過去最高報酬を越えてみせる」


 言うねえ、と誰かが口笛を吹く。すると彼女は酒瓶の中身を一気に飲み干し、その空の瓶で店の端の方を指した。そこには、スーツを着、ぱっと見はただのサラリーマンのような男がいた。言われなければ気付かなかっただろう。言われなければ、気配すら感じなかった。


「今うちの任務指名率トップだよ」
「…どうも」


 男は立ち上がり、あたしに近付く。すっと手を差し出してにこりと笑った。二十代も後半と言ったところか。ここは相変わらず若い人材が多い。それもそのはず、ここにいるのは誰もが元孤児だ。幼い頃に家族を亡くすか、家族に捨てられたか、そのどちらかで生きて行く術を持たなかった子どもばかりを拾って育てるのだから、言わば殺しの英才教育。周りが中学に行く年にでもなれば、実際に武器を手に持ち仕事を請け負う。


「過去最高報酬は?」
「いえ、相場で構いませんよ」
「…他に望みが?」


 嫌な予感がする。


「分かっているでしょう」


 そう耳元で囁いた。つまり、そういうことだ。

 あたしは男を押し返し、睨んだ。一瞬躊躇ったのだ。情報を得ること、体を売ること、果たしてそれが同等であるか。いくら任務指名率が高くても失敗することはある。もし失敗でもされたらそこまで差し出した意味がない。どれだけ堕ちたあたしでも、軽々と誰にでも足を開くほど安い人間ではないつもりだ。それに、自分で言うのもなんだが十五そこらの未成年にそんなことを迫るなんて、どこか変な性癖持ちに決まっている。


「断るわ。邪魔したわね」


 結局断り、あたしは店を出ようとした。よくよく考えれば、そこまで高い金を積んでまで得ようと思うような情報だとは思えなくなって来たのだ。ここを訪れて再確認する。ここに比べればあの艦を落とすことなんてきっと容易い。暗殺の手練ればかりのこの店を潰そうと思えば相当な力が要るだろう。けれどトレミーはどうだ?MSなしじゃ何もできないような連中ばかりじゃないか。


「待ちなさい、
「何」
「タダで帰れると思っているの?」


 振り向くと、彼女があたしに銃を向けていた。








* * * * *








 なんとか逃げ延びたが、あちこち銃弾が掠ったり切りつけられたり、殴る蹴るの繰り返し。まさか集団リンチの被害者になる日が来るなんて、と自嘲気味に笑った。痛みと言うのは体験してみないと分からないものだが、ああそうか、これまで自分の行って来たことはこんな恐怖を与えていたのか、と初めて思う。レイプされなかったのが不幸中の幸いとでも言えようか。しかしあんなにも死を感じたことも初めてのような気がする。

 ずるずると体を引きずって借りているの部屋まで行くと、ドアの前にはティエリア・アーデが立っていた。「なんで…」と思わず声に出してしまうと、あたしの姿に気付いたのかこちらを見る。それと共に、あたしの状態を見て目を剥き、すぐさま駆け寄って来た。その瞬間、足から力が抜けてしまう。けれど崩れ落ちる途中でティエリア・アーデが支えてくれ、床に倒れ込むことはなかった。


「…とりあえず部屋に入るぞ」


 冷静にそう言ってあたしを横抱きにすると、彼の部屋の方に入れられた。体中汚れていると言うのに、彼は躊躇いもなくあたしをベッドの上に下ろす。そしてあたしを離そうとしたのだろう。けれど、離れなかった。あたしの手が、彼を離さなかった。無意識の内に彼の服の袖を掴んだまま、離せなかった。


?」
「あ、あれ…あはは…」

「あは、どうしたんだろ、あはは、はは…」


 手の、いや、体の震えが止まらない。今頃になってさっき以上の恐怖がこみ上げて来る。それと共に、今更大粒の涙がぼろぼろと零れて来る。

 恐かった。死ぬかと思った。そればかりが頭の中で行き交う。体中あちこちが痛いけれど、それ以上に恐かった。このまま惨めに死んで行くのか、そう思った。これまで幾度も危険な任務やミッションに当たって来たけれど、ここまで死にそうだと思うことはなかった。心のどこかで、それでも生きられる、なんて思っていた。けれど今回はそうは行かなかった。恐かったのだ。


、手当てをしないと、」
「アーデ、ごめ、もうちょっと、このまま…っ」
「…ならば仕方ない」


 またあたしは横抱きにされて、連れて行かれたのは部屋の外。しかも浴場。あたしを浴槽の淵に座らせて何かと思えば、あたしの服をはぎ取った。何をするのかと抵抗しようとしたけれど、手足どころかあちこち痛くて暴れるどころか自由が利かない。よくこんな体で帰って来れたものだと思った。無我夢中で逃げて来たから、体がこんなことになってるだなんて思いもしなかった。

 そしてティエリア・アーデは、自分が濡れるのも構わずにあたしに思いっきりシャワーをかけて来た。


「い…っ!?」
「銃弾か」


 血の止まらない足を掴んで表情を変えずに言う。


「痛、い…っ!」
「掠っただけみたいだな。弾は埋まっていない」
「いた、ちょ…っ」
「これは切り傷?刺し傷か?」
「多分、切り傷、…い、痛…っ」


 言いながら傷口の汚れを洗い流しながら、その状態を観察する。切り傷にしても深いようで、シャワーの湯が傷口にかかる度に激痛が走る。こんなの荒療治じゃないか。

 あたしは余りの痛みにティエリアにしがみ付くと、次は背部に触れた。


「打撲、いや、蹴られたか」
「顔は殴られたりも、したけど…!痛いってば!」
「我慢しろ。傷口を流さないことには手当てができない」
「放っておいてよ!」
「それは自分で何とかできるようになってから言え。実際、歩くこともままならないだろう」


 そう言うと、無理矢理あたしを引き剥がしていきなり顔面にシャワーをぶっかけて来た。


「な、なななななな…っ!!」
「いつまでも変な顔をしているな。貴様らしくない」


 そう言ってシャワーを持ったままあたしを抱き締めた。

 あたしらしい?あたしらしいって何なのだろう。どれがあたしなのだろう。少なくとも、いつもこの人の前にいるあたしは作られたあたしであって、本当のあたしなんかではない。なのに、それがあたしらしいとでも言うのだろうか。分かっていない。この人は分かっていない。そんな風に優しく声をかけた所で、抱き締めた所で、今更あたしは引き返せないと言うのに。もうずっとこれから、ここではあたしを作ったまま生きて行くしかないのに。


「アーデの馬鹿」
「馬鹿はどっちだ」


 居場所なんて最初から求めていなかった。あたしは最初から諦めていた。どこにもあたしを受け入れられる場所なんてなくて、結局最後には裏社会に戻るしかなくて、頼る場所はそこしかなかった。抜け出せる、そう思ってももう遅くて、抜け出せなくてもがいたこともあった。けれどもがけばもがくほど空と言うのは遠くなって、望むほどに堕ちて行った。願うほどこの手は汚れて行った。あたしのような仕事をしていた人間が帰る場所なんて望んじゃいけなかったのに、期待をしてしまった。

 そうだ、馬鹿だったのだ。この人の言うとおりあたしは馬鹿だったのだ。一番望んではいけないものを望んだが故に、こんな恐怖を味わうことになってしまった。そして、再認識させられるのだ。どこにも留まってはいけないと。場所なんて求めてはいけないと。

 けれど、あたしは馬鹿だから繰り返してしまう。また場所を求めてしまう。どこか、受け入れてくれる場所を探してしまう。こんな風に優しくしてくれる誰かがいるから、その人のいる場所を壊してしまいたいと思う自分に疑問を抱いてしまう。あたしは、揺らぐ。
















(2009/11/8)