ソレスタルビーイングで自分に与えられた名前は“”。元の名前なんて忘れてしまったように思う。ここには、人には言えない過去や傷を持った人間ばかりだ。愛想よく笑っていても、きっと根底には何か暗い過去があって、だからこそここにいる。そう、自分も同じ。本当の自分をひた隠して息をひそめ、生きている。




(本当のあたし…?)




 目眩がする。本当の自分なんて、一体どれだというのだろう。











そして、ゆるぎなく。


〜易易たる事〜











 書類を叩きつけ、部屋を出て行くティエリア。おまけに部屋の電気まで消された。それを拾い上げ、壁にもたれるとずるずるとその場にへたり込んだ。ここに来て一週間、唯一ティエリアとだけは未だに打ち解けられない。聞けば誰もがそうらしいが、一応は同じ目的を持って行動しているのだ、もう少し人間らしい付き合いをしたっていいのではないか。

 だがそれすら彼には通用しないらしく、他人とは必要最低限の接触しかとらないでいる。そこにはコミュニケーションの欠片もない。彼がただ一つ拠り所としているのは、最初に王留美からソレスタルビーイングの核だと紹介されたヴェーダのみ。ヴェーダなどただのシステムに過ぎない。機械など、いざという時は人間を見捨てる。いや、人間が見捨てるのか。どちらにしろそのようなものに頼っていてばかりでは生活などできっこない。

 それに加えて彼の言葉はきついものばかりだ。だってアンダーグラウンドな世界で生きていたことがあるが、それとはまた別だ。全面否定の棘がぐさりぐさりと突き刺さる。ほんの少しの努力だって認めようとはしない。今日だって、目が真っ赤になるほど徹夜してやり遂げた課題プログラムにも、さらさらっと目を通しただけでこれだ。


「あーあ…コンピュータ苦手だけど頑張ったのになあ」


 手を抜いた所があることはある。それは認める。けれどそれは、大体の人の許容範囲での手抜きだ。けれどそこをくどくどと攻め立て、問い詰め、やがてのやる気は削げる。あそこまで一方的に攻撃されては、いくらでもへこむ。大体、裏社会の仕事と言っても仲間からは割と可愛がられていたし、あれほどまでに冷たくあしらわれることなんて滅多になかった。裏の人間との大きな違いは何なのだろう。そう考えた時、一つの答えにたどり着く。


「…対等に、なれない」


 彼は、ティエリアは余りにも完璧だ。それゆえ穴だらけのが口を挟む隙間などどこにもない。


?」


 名前を呼ばれると共に電気をつけられた。その眩しさに腕で影をしながら見上げると、心配そうにこちらを見るロックオンがいた。ロックオンはよりもずっと先にソレスタルビーイングに入ったらしく、まだ入ったばかりのの世話をあれこれ焼いてくれる。愛想も良く一番まともにコミュニケーションのとれそうな相手ではあるが、射撃の腕はマイスターの中で比べる相手がいないほどいい。主に地上での仕事は銃で行っていたですら敵わないほどだ。


「おい、大丈夫か?」
「だいじょぶ、です…その、久しぶりで、ちょっと、」
「何がだ?」
「冷たくあしらわれるの…」


 膝に顔を埋める。徹夜による睡眠不足が祟って、しゃべっていながら今にも寝てしまいそうだ。トレミーは空調も至適温度・湿度が保たれているため、このまま寝てしまっても問題はなさそうにも思える。


「まあ、アレだ。慣れればなんてことないさ」
「慣れれば…」
「それにまた何か言われたら相談しろよ。聞いてやることくらいはできるからな」


 そう言うと、くしゃっとの髪を撫でて出て行った。そういえば彼は今からシミュレーションがあるとか言っていただろうか。


(慣れれば…)


 再度、心の中で彼の言葉を反芻する。そうだ、慣れてしまえば問題ない。向こうがこちらに合わせる気もないなら、自分があちらに合わせて行けばいいだけの話だ。演じるのは、の十八番。伊達に手を汚して来たわけではない。

 叩きつけられた課題プログラムをぐしゃりと握り潰し、は立ち上がった。そしてぱんぱんっと両頬を軽く叩き、気合を入れる。電気を消して、向かう先は自室。課題の手を抜いた部分までもう一度やり直し、今度こそ頷かせて見せる。こんな所で躓いていては、自分の目的を達成することなど不可能だ。そう、信用したと見せかけて、この組織を内から崩す。トレミーのクルーたちはみんないい人だが、そんなこと関係ない。自分にはもう、良心などないのだから。


「懐いてやる」


 まずはティエリア・アーデからだ。システムなんかに固執している彼なら、付け入ることなど簡単。「は危険だ」と忠告するような人間が近くにいない。それならいくらでもの好きにできるし、ティエリアに近付くことも容易だ。まだ一週間しか経っていないから、これまで大人しくしていたのは緊張のせいだと誰もが思うだろう。やるなら、今しかない。

 世界?そんなもの知らない。あたしはいつだってあたしのために生きるだけ。その時満足できればそれで十分。今のあたしは、ソレスタルビーイングを崩すために生きているのだから。
















(2009/8/12)