死んでも良いと思った。きっと戦い全てが終わったとして、あたしとアーデが穏やかに寄り添える未来など来ないことを私は知っていたから。厳しい戦いの最中に冗談を言ったり、アーデを困らせたり、あの日々の方がもしかすると幸せだったのかも知れない。だから、死んでも良いと思った。結局あたしはソレスタルビーイングの一員としての使命を全うできなかったのだ。戦争根絶を果たすまで死ねないという気持ちよりも、十分幸せを味わった、短かったけれどアーデと生きられたことは幸せだった、だからもう死んでも良い―――そんな気持ちが勝ってしまった。

 目が覚めるとそこは当たり前のように無機質な白い天井で、まずはアーデに朝の特攻を仕掛け、怒られ、追いかけ回され、ロックオンやアレルヤが仲介し、刹那は興味なさげにこっちを見ている。それがいつしか、あたしたちの“当たり前の毎日”になっていた。戦争のど真ん中で生きていながら、変わらない日常があると言うのは不思議な話だった。もうあと一時間後はどうであるか分からないような状況ですら、誰かが死ぬことなんて考えられなかったのだから。


(でも、ロックオンは死んだ。クリスも、リヒティも死んだ……)


 刹那も、アレルヤもどうなったか分からない。アーデは何だかんだ生きていそうだけど、もしそうだとすれば、これから誰と生きて行くのだろう。あたしにしてくれたのと同じように、あたしに掛けてくれたのと同じ言葉を、同じ声で囁くのだろうか。あたしの手を引いてくれたように、誰かの手を引いて行くのだろうか。あたし以外の女性を。

 嫌だなあ。ぽつりと呟いた。声になっていなかったかも知れないけれど、唇は確かにそう動いた。誰よりも傍に居て欲しいと願った人、誰よりも知りたいと思った人。離れたくないと言葉でも伝えたのに、簡単に離れることになってしまった。こんなあたしを、アーデは怒るだろうか。「何を考えている」、「君は馬鹿か」と、大きなため息をつきながら呆れた顔をして言ってくれるのだろうか。それとも、もうあたしなんて見限って、きれいさっぱり忘れてしまっているだろうか。どちらが幸せなのだろう。…いや、きっとどっちを選んでも辛いことに変わりはない。


「それならいっそ、死にたかった…」
…」
「アーデのために生きられないなら、先生、あたしは死んでしまいたかった……っ」


 奇跡的に助かった命。けれど目を覚ましたあたしに植えつけられたのは、自覚のない空への恐怖。もうガンダムに乗ることはできない。そうなればアーデの傍に居る理由がないのだ。彼にとってはソレスタルビーイングが最も優先されるべきことで、そこへあたしが邪魔をしてはいけない。だから今も、ソレスタルビーイングにはあたしが生きているという連絡を入れられずにいる。再び先生の元へ来て一年。世界はまだ、密かにソレスタルビーイングの行方を追っている。











そして、ゆるぎなく。


〜世界が見捨てた希望の果てでもう一度〜











姉ちゃんありがと!」
「もう怪我しないようにね」


 先生は小さな町の小さな診療所を開いている。連邦軍がソレスタルビーイングに勝利して数カ月後から、落ち着いたあたしはこうして診療所のお手伝いをするようになった。何もしていないと気が滅入って仕方がないし、ソレスタルビーイングの皆のことばかり考えてしまう。何か他に集中できるものが欲しかった。だから、診療所のお手伝いは自ら申し出たのだ。もちろん、医師の免許は持っていないから、あたしの仕事は専ら雑務だ。それでも先生は喜んで受け入れてくれた。今では診療所にやって来る人たちともすっかり顔なじみになり、これまで生きて来た中で最も平穏な日々を送っていた。時折、軍人が来てはどきりとすることもあるけれど、顔の割れていないあたしは捕まる訳がなく、ただ患者として訪れるだけだ。それでも見覚えのある軍服や聞いたことのある軍人の名を見れば、一瞬ひやりとするが。

 恐ろしいほどに平和だ。一年前まで生きるか死ぬかのやり取りをしていたとは思えないほど、緩やかに、穏やかに時間は流れていた。けれど何か足りないと思う時がある。それはあの戦場に戻りたいと言う訳ではなく、ただ一人があたしの生活の中から消え去った虚無感だった。


、そろそろ休憩にしようか」
「今行く!今日はあたしがコーヒーを入れるね」


 患者の足も途絶えた頃、あたしと先生はいつも中庭でお茶をする。あたしも先生も、ミルクをたっぷり入れた甘いコーヒーを飲むのだ。


がコーヒーの入れ方を覚えて帰って来るとは思いもしなかったよ」
「失礼だなあ…人間、やればできるんだから」
「そうだねえ。それはが体現してくれた」
「でしょう?」


 熱いコーヒーの香りを風が運んで行く。温かくなったコーヒーは、気持ちまで満たしてくれるようだ。深く悩んでしまっても、こうして落ち着いた時間をとればまたすぐに浮上できる―――人間とは思いの外、強かな生き物なのかも知れない。

 先生はあたしがソレスタルビーイングにいた頃のことを何も聞かない。それが先生の優しさであり、それに救われている部分はある。けれど同時に、これだけお世話になっているのに、先生が気にならないはずがない、話した方が良いのでは、と思うこともまた、たくさんあるのだ。だけどいざ何か話そうとすると何を話せばいいか分からなくなり、言葉が詰まってしまう。どこからどこまで何を―――あの頃のことを思い返すだけで精一杯のあたしは、まだ何も先生に伝えられずにいた。アーデと最後までいたかったこと、離れたくないのだと互いに思い合ったこと、アーデが生きているのかどうかも分からないこと、本当は今も会えるものなら会いたいと言うこと。あたしの頭の中は、今でもアーデのことでいっぱいなのだ。


「…例えばの話だが、
「なに?」
「ティエリア・アーデが生きていたとしたらはどうしたいかね」


 ここへ来て以来、先生の口からは一度として出なかった名前。あたしは思わずカップを落としそうになる。先生の意図が分からずその表情を窺ってみれば、いつもと同じ穏やかで人の良い笑みを浮かべていた。その目は遠く、空の向こうを見つめているようだ。先生の見つめる先には誰が居るのだろうか。亡くなった奥さん、友人、きょうだい―――思えば、あたしもあまり先生のことを知らないのだと気付く。先生にもまた、口に出すには苦しい過去があるのだろう。


「アーデが、生きていたら…」
「私が最後に見た彼は、覚悟をしていたよ」
「……それは、あたしが足を怪我して地上に滞在していた時?」
「そうだよ。迷いながらも覚悟していた。組織のために生きたい、けどを一人にはできない、そう言っているように見えた」


 そんなこと、あたしは一つも気付けなかった。気付けばアーデはあたしを好きでいてくれて、気付けば傍に居てくれた。すぐ隣で泣くことも笑うことも許してくれた。誰かに自分の行為を許されることは、こんなにも心が安らぐものなのかと、アーデが教えてくれたのだ。

 あたしの顔は一つではない。暗殺業をしている内に、自分の中にたくさんの性格を作って来た。時には残虐で、冷徹で、優しく、無邪気。最早その内のどれが本物のあたしかなんて、自分でも分からない。今、こうして先生に見せているあたしだって、偽物なのではないかと思う。けれどたった一人、思いが通じてからはアーデの前でだけ、なぜか自分で居られた気がする。あたしの中の自然の言葉で以て会話もできたし、表情を作るようなこともなかった。最後にアーデに伝えた言葉も本心だ。


「私に遠慮することはない。ティエリア・アーデと生きたいのなら、そうしなさい」
「でも彼は…」
「僕がどうした」


 静かな庭に、凛とした声が響く。気持ちの奥底に直接響いて来るような、真っ直ぐな声。何度も何度も欲した声。後悔をより膨らませた声。失いたくなくて、離れたくなくて、それでも離れてしまった人。…震える手をぎゅっと握り締めて、ゆっくりゆっくり、椅子に座ったまま身体を後ろ向ける。


「ティエリア…アーデ……」
「一年間、君を必死で探した」
「なんで……」
、君が僕にとって大切であり、必要であるからだ」


 その言葉が欲しかった。この一年間、アーデのいない生活を過ごし、何よりも、誰よりも、彼に必要とされたかった。あたしもアーデを必要とするように、アーデも同じくらいあたしを必要としていて欲しいと思っていた。必要と大切は違うのだと、先生は言った。そしてアーデも。けれど、大切であればおのずと必要となって来るのではないか。必要であれば大切になって来るのではないか。あたしはそう思う。

 差し出された手を取りたい―――今度こそもう二度と離れないように、手の届く位置に居られるように。また、先のことなんて何も分からない生活が始まるのかも知れないけれど、それでも良いと思えるほどに、あたしの心はアーデを呼んでいる。だから。


、行きなさい」


 背中を押されるがまま、あたしはアーデの腕に飛び込んだ。















(2011/12/6)