死にたくないと思っていたのは、それまでは死そのものへの恐怖からだった。けれど今は違う。トレミーに仲間がいる、地上に会いたい人がいる。そう思うと、死ぬのが惜しくなった。思えば思うほど、ぎゅうっと胸が痛くなった。そこで初めて分かる、先生の言葉の意味。「自分を大事にしなさい」と言った意味が、少しだけ分かった気がする。 例えば、あたしが怪我を負ったとしよう。すると必ず心配してくれる人がいる。自分が怪我をした訳でもないのに、まるで自分が怪我したかのように辛そうな顔をする。…あたしは、そんな顔を見るのは苦しい。だったら、あたしが怪我をしなければ良いだけの話だ。それに、同じように誰かが怪我を負ったとしたら、あたしは辛い。それと同じなのだと、ようやく分かる。 あたしの欠けていたものが、やっと分かって来た。
そして、ゆるぎなく。 風のように、時間は過ぎて行く。ティエリア・アーデに告白をされてから、早いものでもう一か月。世間一般の恋人同士のようには行かないけれど、あたしたちなりにふたりの時間というものを大事にしているつもりだ。少しずつ分かって来た“自分を大切にすること”と“他者を大切にすること”。そうして徐々にあたしは、トレミーの他の仲間たちへの気持ちも変わって来た。戦闘に対しても、勿論。 「、最近変わったよね」 「ん?そう?」 けれど、意図して態度を変えた訳でもないのに、アレルヤに気付かれたのには驚いた。気持ちが変わっただけで、そんなにも変わるものだろうか。何やらにこにこと笑いながら言われる所を見ると、別段、悪い方向へ変わった訳ではないようだ。相変わらず人前でティエリア・アーデを煽るようなことはしているし、今まで通り真面目とは言い難い態度ではあるのだけれど。 「ティエリアとも最近は上手くやってるみたいだし、よかったよ」 「よかった…のかなあ?あんまり変わりないと思うんだけど…」 「雰囲気が良くなったって言うのかな。を見るティエリアの目も、前ほど鋭くない気がする」 それは分かるかも知れない。これまでは完全に敵意しか含んでいないような視線しか送られて来なかった。それは最近というよりも、あたしが怪我をして地上に滞在している時くらいからだ。あの時にいろいろと、そう、本当にいろいろとあったから当然と言えば当然。あれがきっかけだったのだ。きっかけであり、始まり。 そして、驚くほど気持ちが落ち着いていることに気付く。それまでは気を張ってここにいた。二十四時間、一秒だって気を抜けなかった。気を抜けば暗殺屋の・が出てしまう。あの時はまだ、世界への復讐を望んでいたから、飽くまでソレスタルビーイングの・でいなければならなかったのだ。とあるスナイパーのように、家族の仇ならまだ綺麗なものだと思う。その根底には家族への愛があるのだから。けれどあたしは違う。全てが全て、憎悪でできていた。あたしが醜かったのはそのせいだ。そんな汚染された気持ちを洗い流したのは、他でもないティエリア・アーデ。 「俺がなんだ」 「アーデ!」 「アレルヤ、スメラギ・李・ノリエガが呼んでいる。次のミッションについてだ」 「ああ、分かったよ」 そうしてアレルヤが去り、ティエリア・アーデと二人になった。まだ、二人でいる、ということに緊張がとれた訳ではない。けれど、戦況の芳しくない中、あたしが唯一気を張らなくていい相手は彼だけだ。彼からすれば、逆にいつ何度気も気を抜けないのだろうけど。どうすれば少しでも彼が気を張らなくていいのだろう。ほんの一分だけでもいい、常に気を張っていると言うのは大きな疲労を伴うことなのだ。暗殺屋をやっていたからその疲労感はよく分かる。いつ何時狙われるか分からない、正体がばれるか分からない、そんな緊張感の中、平気で過ごせるのは、命を賭けてでもそれをしなければならないか、暗殺が楽しくて楽しくて仕方がないか、そのどちらか。この緊張感をスリルととってしまえば、恐らく後者。でもティエリアは違う。前者であるということは火を見るよりも明らかだ。 それなのに、余裕のない中で彼はあたしに気持ちをくれた。泣いた時にも、不調の時にも、あたしのすぐ傍にいてくれた。そんなこと、得意じゃない癖に心を砕いてあたしにくれたんだ。だからあたしは応えた。彼の気持ちを受け取りたいと思った。多分これが、“好き”っていう気持ちなんじゃないかと、最近、そう思う。 「あ、ねえねえ、これあげる」 「…キャンドル?」 「アロマキャンドルだよ。疲れた時には柑橘系の香りがいいんだって」 不思議そうに黄色の小さなキャンドルを見つめる。もしかして要らぬお節介だっただろうか。自分の身体の心配なんて何一つせずに、睡眠時間を削ってでもミッションの考察やら世界の状況把握をしたがる彼だ、「休息なんて必要ない」と簡単に言われてしまいそう。人の心配は呆れるくらいする癖に。 けれど、そんなあたしの予想を裏切り、ティエリア・アーデは小さく笑うとあたしの肩を抱き寄せた。なんだなんだ、とどきどきしていると、軽く額に口づけられる。これは一体どうしたことか。あたしの行動とティエリア・アーデの行動が結びつかず、全くもってこの状況が理解できないでいると、「ありがとう」と彼は小さな声で感謝を口にする。…それならそうと、先に言って欲しい。何度言ったか分からないが、こういうことには不慣れなのだ、あたしは。 ああ、でも悪くはないか。そんな風に思いながら、あたしもティエリアの肩に頭を乗せる。きっと、あたしがこれから生きて行く中で、こんな風に穏やかな気持ちでいられるのはほんの僅かしかない。争いは多く、ミッションはいつだって命の危険を伴う。いつ死んでもおかしくない。一週間後かも知れない、明日かも知れない、いや、一時間後には死んでいるかも知れない。今やそれほどまでに戦況は悪い。 「アーデ」 「なんだ」 「離れたくないね」 「…そういう訳にはいかない」 彼は少々口うるさいけど、あたしを甘やかすことはしない。だから、自分の本音を殺して事実を述べることだってある。きっと今だってそうだ。「そういう訳にはいかない」と言いつつ、あたしの肩を抱く腕には先程よりも力がこもる。彼も離れたくないと思っていてくれているのだと分かり、少し嬉しくなる。 「よし、じゃあブリッジに戻りますか!」 「…」 「なにー?」 「落ち着いたら一度、伝えたいことがある」 「あ、改まって何を…今じゃダメなの?」 「駄目だ」 「ふうん」 ティエリア・アーデが何を言いたいのかなんてあたしには想像もつかない。良いことなのか、悪いことなのかさえ。とりあえず、ソレスタルビーイングが武力介入を開始して以来の苦戦を強いられているこの状況、これさえ打開すれば気になるその続きが聞けるということだ。これでまた、死ねない理由が一つ増えた。 楽しみにしておくね、と返せば、ああ、と短い返事。にっこりと笑えば、ふいっと目を逸らす。腕に抱きつけば、頭を押し返される。そんな、なんでもないひと時がじんわりと温かい。この温かさがしあわせなのだろう。任務成功率ほぼ100パーセントと裏社会でその名を轟かせた時より、遊んで暮らせるほどの収入を得た時より、これまで生きて来た時間の中で、どの場面よりも笑っていられる。 そのどれが本当のあたしなのかなんて、やっぱり分からない。だから、今ティエリア・アーデの目に映っているあたしは、ひょっとしてまた演じているだけなのではないだろうかと、怖くなる。演じることは、騙すことだ。こんなにもあたしを想ってくれている人を騙すことには、もう罪悪感を感じずにはいられない。だから、願う。今、このあたしが本物であるようにと。 (2010/9/20) ← → |