「ふへへへへー」 「動くな。じっとしてろ」 「了解了解!」 部屋の真ん中にビニールシートを敷き、彼女、ネリー・コラールは嬉しそうに笑った。対するティエリアは染髪剤の容器を持つと、彼女の頭を掴んで固定する。もう一度説明書に目を通し、しゃかしゃかと容器を振りながら彼女の髪に手を通してみた。するとネリーは「ひゃう!!」などと叫びながらティエリアの触れた個所をがばっと手で押さえた。 「な、な、何かなっ!?」 「何でもない」 「あわわわわ、びっくりしたよー」 「そうか。前を向け」 「え、すっごくスルー?」 まあいいけどさー、と言いつつティエリアの言葉に従って素直に前を向く。少し髪に触れただけであのオーバーリアクションだなんて、今この容器に入っている液体を髪全体につけるというのに、一体どうなるのだろう。つん、と独特の薬品臭のする液体を押し出す。 「ひー!冷たいっ!」 「静かにしろ。床に飛ぶ」 「だだだって!」 「これくらい我慢できないのか君は」 ネリーを黙らせて順調に染髪剤を髪に馴染ませて行く。全て使い切ると、空になった容器を入っていた箱に詰め込んだ。説明書に書いてあった通り、そして言われた通りやったのだから、ちゃんと染まっているだろう。あとは20分だか30分だか待つだけだ。 女というのは面倒だとつくづく思う。髪を染めるのは女だけではないが、化粧だの香水だの服だの、地上での買い物量は異常なまでに多いと思う時さえある。いや、あれはクリスティナ・シエラくらいだろうか。ネリーが大量に買い物をしている所は見たことがないし、そういえばこの女から不快な化粧品や香水のにおいなどはしたことがない。香りのきついシャンプーなどを使っている様子もない。 「…君は化粧品に興味はないのか」 「え!?ティエリアあるの!?」 「顔面からシャワーを浴びせられたくなかったら真面目に答えるんだな」 「うっひゃあ強烈!化粧品ねえ…ない訳じゃないけど、今のあたしには必要ないでしょ?あたし、ファンデなんて使ってないよ」 確かにファンデーションなどつけなくても十分肌は白い。これ以上白くなったらまるで病人だ。 「化粧品って高いしね。それならあたしは周辺機器とか買う方がいいな!」 「それには同意する」 「え?やっぱりティエリアも化粧品…」 「その口塞いでやろうか」 「えっやだアーデ…!」 「…………」 「あっすみませんごめんなさい痛い痛い痛い痛い!!」 まだゴム手袋を装着したままだったので、何を想像したのか顔を赤らめるネリーの頭を思いっきり掴んでやった。 この女は本当に懲りないと思う。コンピューターに関してはかなりの知識があるというのに、性格がこれなので残念でならない。それでも趣味が似通っているので、他のものより周辺機器、という気持ちは理解できた。費用だって無限ではない。ならばできる限り無駄を省き、優先順位の高いものから手に入れて行くのが賢いやり方だ。 けれどふと思った。もしこの女がCBにスカウトされず、今も地球で過ごしていたらどうなっていたのだろう、と。それこそ平凡な高校生や大学生をしていたかも知れない。守秘義務で年齢などは分からないが、彼女くらいの頭脳なら飛び級くらい軽いものだっただろう。なのになぜCBに来たのだろうか。スカウトされたとは言っても、断ることだってできたはずだ。沿う疑問に思い、直接聞いてみた。 「君はなぜマイスターになった」 「あれ?アーデお得意の守秘義務は?」 「意思を聞いただけだろう」 「過去があってこその意思なのにー」 「…言いたくないならいい」 ふーん、と気のない返事をして急に立ち上がり、ふらふらっと彼女はシャワールームへ入って行った。染髪剤を流しに行ったのだろう。どうやらもう20分経ったらしい。 結局何も聞けなかったが、これ以上この部屋に居座る理由もないのでティエリアは出て行こうとした。するとシャワールームから腕だけ出して彼女が手招きしている。何かと思ってそろそろと中を覗くと。 「何、帰ろうとしてんですか。あたし、シャワー固定しないと洗えないから、髪洗うまでが仕事なんだよ!」 なんでこんな変な所で不器用なんだこの女は。 大袈裟に溜め息をつくと、逆に彼女が嬉しそうにまた頬を緩めた。それでもまあ手間は増えたがここにいる理由はできたというもの。シャワーを手に取ると、浴槽の淵に手をついて頭を垂れているネリーの髪にお湯をかけた。 換気扇はつけているが、それでもこの艦は密室だ。なかなか空気の入れ替えが追い付かず、浴室までもが染髪剤臭で充満してしまった。これがあることを分かっていながら、なぜ彼女はいつもトレミーで髪を染めるのだ。本来ならこういうことは地上にいる時にするものだろう。もしも今、出撃命令が出たらこの女はどうするつもりなのだろう。きっと何も考えていないのだろう。 とうのネリーはというと、人に髪を洗われるのが不快なのか何なのか、「うー」だの「あー」だの訳の分からない言葉ばかり発している。いや、しかしこれまでも刹那・F・セイエイに染めてもらっていたというのだから、不快ではないのだろう。 「アーデさーん」 「なんだ」 「あたしねー戦災孤児だったのー」 「何…?」 「ん゛ぁあ゛ーーーー!!!鼻に水入ったああああああ!!」 「水ではない、お湯だ。我慢しろ」 「さっきから我慢しろばっか!ムリムリきちくううぅぁぁああ…!」 * * * * * 髪を洗い終えてシャワールームから出ると、ネリーは目を真っ赤にしていた。 「うっ、ううう…今日は一段とハードだね…」 「気持ち悪い言い方をするな」 「うああ…嬉しいけど鼻の奥が痛いよおお…」 じたばたしながらまだ文句を言う。せっかくそんなネリーに代わって髪を拭いてやっているのに、こうも暴れられては拭きにくくて仕方がない。それでも鼻に水の入るようなシャワーのかけ方をしてしまったのは自分なので、僅かに罪悪感を感じつつ、黙って髪を拭き続けた。拭きながら、彼女から出た「戦災孤児だった」という言葉を思い返していた。 CBには暗い過去を抱えている者も多いが、毎日馬鹿みたいに笑っている彼女にもそんな影の部分があるだなんて想像もできない。当たり前のように笑い、当たり前のように自分を追いかけ回して来る毎日。まるで、地球にいる一般人のような振る舞いをすることの方が多い。 今だってそうだ。戦いの中心にいながら、髪を染めるなど呑気なことをしている。それにこの小さな体だ。自分の腕にすっぽりと収まってしまうほどの華奢な体で、よく戦い抜いて来られたものだと、やはり少し感心する。そういえば弱音の一つも吐いたことがない。それでこそマイスターではあるが。 「ねえねえ」 「まだ文句があるか」 「ドライヤーもやって、って言ったら怒る?」 「別に」 「うわわわわ、ありがとう!ふへへー」 「何がそんなに楽しい?」 「うん?楽しいって言うより嬉しいな。だってその分、アーデと一緒にいられるでしょ?」 まだ痛むのか、鼻をつまみながらではあるがさらりとそんなことを言ってのけた。自分も遠慮なく発言する方ではあるが、ネリーの発言内容というはまた異なる。少々面食らいながら、ティエリアはドライヤーのスイッチを入れて彼女の髪に手を通し始めた。まだ染髪剤のにおいがかすかに残っているが、染めている最中ほどは気にならない。初めてにしては綺麗に染まったのでやや満足しながら髪を乾かして行く。 すると、シャワーにドライヤーにと体温が上がったのか、マイペースな彼女はうとうとと船を漕ぎ始めている。頭頂部を叩いてやると飛び起きたが、何度も繰り返すためとうとう諦めた。 水を吸って普段より少し長くなっていた髪が、段々と元に戻って行く。もういいだろう、と思って何度目か分からないが叩き起こすと、「眠ーい」などと言いながらそのまま後ろにもたれかかって来た。「邪魔だ、退け」と言ったものの、駄々をこねて動かない。寝ぼけ半分になってしまっているので動かすのも困難で、このままでは結局起きるまで付き合うことになってしまいそうな予感さえする。 この女は一体どこまでマイペースなのだろう。彼女にだってやらなければならないことがあるはずなのに、呑気にもほどがあるだろう。 「おい」 「んんー…」 「ネリー・コラール、起きろ」 「やだ…やっと寝れる…」 「寝ていないのか」 「んー…」 「健康管理くらい自分でしろ」 「もー何年もだよー…」 何年も?一般に横になってから二時間以上寝付けなければ睡眠障害が疑われ、若年者の場合はおよそ精神的問題が原因である。大概それは長期化する者が多いが、まさか彼女もそうだというのか。至って健康そうに見えるこの女が。人間というのは本当に分からない。体調が悪いなら悪いと言えばいいのだ。むしろ万全でないまま戦いに臨んでミスをされる方がこちらには迷惑だというのに。わざわざそれをひた隠しにする必要など、どこにある。 そうイライラしながら、もう殆ど寝かけている体勢の不安定な彼女をぐっと引き寄せた。いや、これは起きた時にきっと首が痛いだろう、という予想にそぐった配慮だ。他意はない。誰にともなくそう弁解すると、ティエリアも後ろの壁にもたれた。 鼻を突くような染髪剤のにおいが多少不快ではあるが、まあ、人の体温が近いということはあまり不快ではない。そんなことを思いながら目を閉じた。
もっと冷たく囁いて! |