近付いて来る足音がいつもと違うので身構えていると、扉が開いてみればよく見知った人物だった。「やっと見付けた」と言って安心したように笑うと、に早足で近付いて来てぎゅっと抱き締めてくれた。リジェネ――がティエリアの部屋に住めるようになったのは彼のお陰だ。そんなに長い間会っていない訳でもないというのに、もう何年も会っていないような気分になる。はぐずぐずと泣きながらリジェネにしがみついた。


「大人しくしてるだなんて、囚われのお姫様にでもなったつもりかい?」
「違…っ」
「さあ、でも言い訳してる時間はないよ。君にはこれからの人生を選択してもらうからね」


 そっとを離し、ベッドに座らせる。すると白衣のポケットからシロップの入った小瓶を取り出した。それをの目の前に翳してみせる。真っ赤になった目を丸くさせてその小瓶を眺めた後、は不安そうな表情でリジェネを見た。そして、ようやくドアの付近に立っていたリボンズと同じ髪の色をした少女がいることに気づく。だがリジェネは「はい、注目」と言っての頭を掴んでリジェネの方へ向けさせた。


「一つは、ここにいてリボンズから薬を与えてもらい、今の姿を維持すること」


 そうしてこのままあの薬を飲んでいれば、いつか身体の成長が精神年齢に追いつく。そうすれば今のように頭痛や目眩が起こることも、倒れることもないのだ。けれど、そのためにはこの棟にいることが必須条件。更に、身体と精神のバランスを保つため、ずっと薬を飲み続けなければならない。


「もう一つは、このシロップを飲むこと」
「…どうなるの?」
の望んだままに」
「え…?」
「ただし勘違いしちゃいけないよ。このシロップだって万能じゃないからね」


 小瓶を揺らしてみせる。透明な液体は、リジェネが小瓶を振るのと共に容器内で揺れた。
 ちらりとドアの方へ視線をやれば、リボンズ似の少女の顔はだんだんと曇って行く。もしかして、リジェネは自分のために何かとんでもないことをしているのではないだろうか。例えばそう、彼女を脅したりして――、


「このシロップはね」


 が、リジェネのよく通る声でよそ事など吹き飛ばされてしまう。はっとしてまたリジェネに視線を戻した。いつものように口元に笑みを浮かべながら、さらさらと説明をして行くリジェネ。けれどその目の奥にはどこか焦りのようなものが見えて、彼らしくないと思った。
 は速くなる心臓を抑えながら、次のリジェネの言葉を待った。


を大人にも子どもにもしてくれる」
「大人にも、子どもにも…」
「ただし心か身体、どちらか一つだ。君がその姿のままでいたいなら、知能と精神年齢を元に戻してくれる。けれど、身体成長を促進させたいなら、中身に合った年齢へと外見も変えてくれるだろう」


 それはつまり、ティエリアと同じくらいの年齢になることが可能ということだ。きっと今の中身はおよそティエリアと変わらない。ティエリアと釣り合うような女の子になれるかも知れない。こんな子どもでなく、ちゃんと同じ高さの目線で。
 けれど、とシロップに伸ばしかけた手をは引っ込めた。
 それは飽くまでの気持ちだ。ティエリアはどうかなんて分からない。ティエリアはのことを保護者として預かってくれているのに、いきなり成長したら、きっとまた扱いに困る。同じ部屋に住むなんてこと、不可能なのだ。自分はどうしたいのだろう。ティエリアに女の子として見られたい?恋愛対象になりたい?それとも、子どものままでいいから一番近くにいたい?


「私がいなくなったら、リジェネはあの部屋を出て行くの?」
「んー、まあ、大きな理由はなくなるしね。でも僕のことなんてどうでもいいよ。それに、僕を言い訳にいちゃいけない」
「うん、分かってる…分かってるよ」
「そう、は賢い子だね。でも、だから我慢をしてしまうんだね」


 一度引っ込んだはずの涙が、またぼろぼろと零れる。頬を伝って、膝の上で丸めた拳の上に落ちて弾けた。その片方にリジェネは手を重ね、もう一方の手で優しく頭を撫でる。


「自分の心に素直になっていいんだよ。、君の一番の望みはなんだい?」


 そうだ、ティエリアだけではない。リジェネも、クリスも、フェルトも、アレルヤも、こうして撫でてくれた。あの日、一人雨に打たれていた自分を拾ってくれたティエリアのお陰で、ともすれば恨みそうだった人間の優しさに触れ、笑って生きていられた。誰も恨まず、誰も憎まず、幸せというものを抱きしめて生活して来ることができたのだ。そんな場所を、自分一人のせいで崩したくない。ティエリアも、リジェネも、クリスも、フェルトも、アレルヤも、はその皆が欲しい。その皆に愛されていたい。そのためにははこれまでのでいなければならない。人間として目覚めたあの時のでいなければ、あそこには戻れない。元の形ですっぽりと収まるには、はまだ大人になってはいけないのだ。


「私は、私の望み、は…」
「うん」
「あの部屋に、戻りたい。アーデさんと、リジェネと、私と、三人で、前みたいに、三人で…っ」
「そうだね、僕もだよ」


 ごしごしと目元を拭って、リジェネの握っているシロップの小瓶に手を伸ばす。蓋を回して開けると、ふわりとぶどうの香りがした。の好きな香りだ。まさか、そこまで考えてこの薬を作ってくれたのだろうか。はっとしてリジェネを見ると、今までに見たことないくらい優しく笑ってくれていた。も自然と表情が和らぎ、そのシロップに口をつけようとした。しかしその時、


「待つんだ!」


 半開きだった扉から入って来たのは、誰かともめた後のようにぼろぼろになっているティエリアだった。殴られたのか、頬が赤く腫れている。
 ここに連れて来られてからずっと会いたいと願って来た人。精神発達が起こってから、想って想って止まなかった人。その名前を呼ぼうと口を開きかけた時、急にティエリアの身体は崩れた。は急いでティエリアに駆け寄り、身体を起こすのを手伝う。どこの会社も警備は厳しい。ここだってそうだろう。それなのに、それをむりやり突破したためにティエリアはこんなになってしまったのだ。罪悪感がちくりとの胸を突いた。


、戻って来て欲しい」
「…え?」
「あの部屋に、僕と、と、…仕方ないからリジェネも、もう一度三人で、だから、こんな所には…」


 そう言うとティエリアは意識を失った。は慌てたが、リジェネは寄って来て「心配ないよ」という。安心して気が抜けたんじゃない、と笑うリジェネに、も苦笑いを返した。自分の膝の上で眠るティエリアの見て、やはり元のに戻らなければ、と思った。そうして再度、小瓶の蓋を回す。


「リジェネ、私がいきなりこんなになっちゃった理由、知ってる?」
「いや、知らないよ」
「…あの日、アーデさんてばお酒飲んでたでしょう。酔って、私、キスされたんですよ」
「ええぇ!?」


 叫び声をあげたのは、リジェネよりもいくつも高い女の声、リボンズ似の少女だった。思わぬ所からの驚愕の声に、不謹慎だと思いながらも思わずは噴き出す。少女はまだ大きく目を見開いてティエリアとを交互に見ていたが、の視線はティエリアに戻った。綺麗な紫の髪を撫で、その容姿にはおよそ似合わない大人のような笑みを浮かべる。


「ティエリアに言わなくていいの!?」
「いいんです。私は、これまでの関係がいい。今はまだ、私の保護者でいて欲しいって思うんです」
「分からないわ。それがアンタにとって、ティエリアの一番になるってことなの?」
「どうしてそれを?私、話してない…」
「馬鹿ね!見てれば分かるわよ!私だって女なんだからね、恋する女の子の一人や二人分かるっていうの」
「君が女だなんて初耳だよ」
「なんですって!?」


 言い争いを始めたリジェネと少女に小さく笑い、何度目だろうか、小瓶を見、ティエリアを見る。そして、二人が余所を見ている隙に、は一瞬だけティエリアにキスをした。仕返し、などと思いながら、ほんの一瞬だけ。少女の方は口論に必死になっているようだったからどうかは分からないが、リジェネなら或いはのその行為に気付いていたかも知れない。けれどもう気にせず、ぶどうの香りのシロップを一気に飲み干す。味も本物のぶどうにそっくりで、そんな所からもリジェネの優しさに触れたよう気がした。









(2009/8/14)