「その精神発達に応じて身体成長を引き起こす、それがCat Human Being――その最終例、即ちお前だよ」 「けれど私も失敗例」 「そう」 薬を飲んで意識を取り戻すと、をここへ連れて来た人物、リボンズ・アルマークは唐突に説明を始めた。 段々と記憶が鮮明になって来る。ここがどこだか知っているし、この人物のことも、自分自身のこともはっきりと思い出した。最初から自分はただの猫ではなかったのだ。半分は猫、半分は人間。猫でもなく、人間でもなく、けれど猫であり、人間である。そのどちらかになりきれない中途半端な生き物。それが、いや、CHBだ。 「けれど最も成功に近い。現に今、人間の姿のままでいることができる」 「薬さえあれば、猫に戻らない…」 「やはりお前は優秀だね。それが何を意味しているかも本当は分かっているんだろう?」 薬がなければ人間のままではいられない。 精神発達に応じて、ということは、その身体成長度に合った知能が必要ということだ。その身体よりも知能が上回っては身体が耐えきれず潰れてしまう。昨日までのはその通りに身体に合った知能を持っていた。けれど今は身体の大きさそのままであるにも関わらず、急に精神発達が促進されてしまった。そのため身体が機能を維持できず倒れてしまったのだ。薬を飲んだことでなんとか保てているが、その効果もじきに切れる。彼の目論見を汲み取ってみれば薬の量産は容易いことなのだろうが、そういう訳にはいかない。きっとをこの研究所に連れ戻した暁には、二度とティエリアに会わせない気だ。 「私にこの研究所に戻れって言いたいんだ」 「その通りだよ。君はもうあそこへは戻れない理由が二つになったからね」 「…………」 「迷うことなんてないだろう?身体の維持だってここでしかできないのだから」 それでも、あの人に二度と会えないのなら人間の姿など何の意味もない。それなら、想っていたことすら忘れるために、薬なんて飲まず猫に戻っていいとさえ思うのだ。この声はあの人と言葉を交わすために、この手はあの人に触れるために、この足はあの人の元へ駆けてゆくためにあるというのに、自分からあの人を遠ざけるのなら、どれも奪ってくれて構わない。 答えかねていると、リボンズ・アルマークは小さく笑った。 「自ずと答えは見えて来るだろうけどね」 そうして、静かに扉を閉めて出て行く。扉の向こうでは、オートロックのかかる音がした。病院のような白い一室。がらんとした広い部屋。彼が部屋を出て行った瞬間に押し寄せる孤独の波。それらは全て、あの人から遠く離れたことを再認識させる。呼べば来てくれるような場所に、もう自分はいない。この部屋一面のシミ一つない白は、孤独ではなく絶望を象徴しているかのように思えた。 * * * * * クリスとフェルトを家に招いて二人の話を聞き、要約するとこうだった。ティエリアがを発見した時には既にに意識はなく、男に抱きかかえられて車に連れ込まれようとしていた。慌てて声をかけたが、男は勝ち誇ったように言ったという。 『この子はもう、君の家には帰りたくないらしい。だから僕の手を取ったんだよ』 「そんな馬鹿な…が帰りたくない理由なんてどこにあるっていうんだい?」 「それが誰にも分からないの。昨夜ちゃんと部屋にいたのはティエリアだけど、ティエリアに心当たりはないっていうし…」 「そのってやつに手でも出したんじゃねーのか?慣れない酒でも飲んで潰れてたから覚えてないだけだろうよ」 沈む三人に口を挟むハレルヤ。すると「ハレルヤ!」と咎めるようにアレルヤが声を上げた。けれど有り得なくもない推測に、クリスとフェルトは益々真っ青になる。慌ててアレルヤも否定を入れるが、昨夜の条件を考えると無きにしも非ずであることは変わりない。まさかあのティエリアが、と思うが、アルコールが入れば人間何をするか分からない。そんな不安が加速し、とうとう二人は黙ってしまった。さすがに悪いと思ったのか、ハレルヤもフォローの言葉を口にした。 「まあ、あの会長様が黙ってるとも思えねぇけどな」 「え?」 「大人しくしてるようなヤツじゃねぇだろ。自力でなんとかするんじゃねーの?」 だといいけど、と呟いて、クリスは出されたお茶に口を付けた。 * * * * * 部屋に戻って少し考えた後、ティエリアは何事もなかったかのようにリビングでテレビを見ているリジェネを問い詰めた。 「知っていたのか」 「何のことかな」 「とぼけるな。あいつと知り合いなんだろう」 「でもを追い詰めたのは君だよ、ティエリア」 こっちを見ようともしない。ティエリアはいらついてリモコンを手に取り、テレビの電源を切った。あれほどと仲良くしていたというのに、まるで動じない。元々そういう性質だとは知っていたけれど、これだけスルーされると流石に憤慨を通り越して疑念を抱く。きっとが連れ去られたことの裏を、リジェネは知っている。いや、もしかしたら関わっているのかも知れない。そうすればこんなにもいつも通りであることにも頷ける。だとすると、リジェネはの居場所を知っている、もしくは連れ去ったあの男と知り合いか、だ。 「僕の仕事知ってる?」 「は?」 「知ってる?」 「製薬会社で新薬開発に関わってると…」 「そ。表向きはね」 テレビを消されたからか、次はテーブルの上の雑誌を手に取った。いつの間に買ったのかは知らないが、表紙からするにファッション雑誌だ。中身がちらっと見えたが、女物の服ばかりだった。けれどにはまだ着られそうにない、もう少し上の年代向けだ。ということはに買って来たわけではないのだろうか。ますます分からなかったが、ぱらぱらと数ページめくった後、リジェネも見るようなページがないらしく、再びテーブルに投げ出した。 「企業には裏ってものがあるのさ。僕の会社だってよく分からない研究や実験をしててね。僕は興味もないしあんまり関わらないようにしてるけれど、会社のトップが猫にご執心のようだよ」 「猫…?」 「感情が芽生えて育つ。それに応えるように猫は人間へ、そしてより人間らしく成長するんだとか」 「まさか、それが…?」 「でもそんなに簡単なものじゃないよね。だって不完全だから、ああやって倒れた」 さらりと言ってのけると、立ち上がってジャケットを羽織った。「じゃあ僕、仕事だから」と言って出て行こうとするリジェネに制止の声をかけるが、聞こうともしない。そしてそのまま、リジェネは仕事に向かった。 一人残され、立ち尽くすティエリア。そうだ、ここに来た時もこの部屋には自分一人だった。だから、今更二人がいなくなった所で前と同じ状況に戻っただけだ。それなのに今、物音一つしない静寂のこの部屋に違和感を覚える。自分以外の足音や声、気配がないことは非常に奇妙で、よく知るはずのこの部屋が知らない場所のようにすら思えて奇妙な感覚が纏わりつく。 その時、取り戻さなければ、と思った。どんな研究所かは知らないが、そんな重々しい場所がのいる場所ではないはずだ。少しずつ言葉を覚え、少しずつ表情が柔らかくなった。そんながもっと成長していく過程を、誰よりも近くで見ていたい。それが彼女を拾ったティエリアの責任だと思った。 芽 (2009/7/26) ← → |