昨夜、「必ず僕の元へ戻って来る」などと自信たっぷりに言い切った目の前の男に聞いた。その根拠は、と。すると、脇の机の引き出しから小瓶を取り出す。その中には、さっきのカプセル剤と同じものが瓶いっぱいに詰められていた。 『彼女はこれがないと駄目なのさ』 |
ものすごく走ったかも知れない。でもそんなに走ってなかったかも知れない。はっと気付いて立ち止まった時には、もう見覚えのない場所にいたのだ。 そういえばまだ猫だった頃も、いつの間にかあの場所にいた。気が付いたら雨の降る中、段ボールに入れられて捨てられていた。それ以前のことは覚えていない。だから、の記憶の始まりというのは雨であり、拾ってくれたティエリアだ。猫からいきなり人間になった自分を(半ばリジェネにいいように使われたからとはいえ)住まわせてくれ、何もできないの世話をあれこれしてくれる。お金を稼げる訳でもないし、万能ではないから家事の一つもできなかった。それが申し訳なくて、歯痒くて、は夢の中でもう一度強く願った。もっと大きくして下さい、と。するとまたあの神さまが現れて「お前は欲張りだね」と言いつつ、大きくしてくれた。そう、中身だけ。 (容姿は変わらない…これじゃ、全然意味がない…) 起きたらいろんなことが分かった。文字も読めたし、書けた。難しい言葉が理解でき、箸も上手く使え、料理だってなんだってできた。そしてもう一つ気付いたことがある。 『の気に障ることをしたなら、言えばいい。悪いのならちゃんと謝る』 ティエリアのことを思い出すと、きゅうっと胸が苦しくなった。普段から彼に話しかける時は緊張したが、それどころではない。顔を見ることすらままならなかったのだ。昨夜の一件のせいだけではない。これまでの生活の些細な出来事の一つ一つが積み重なって溢れたのだろう。 (だとしたら私は随分前、ううん、拾われたあの時からずっと…) 小さかった。幼かった。見た目以上に中身はもっと子どもだった。だから自分の気持ちにさえ気付けなかった。愛しい恋しいと思う気持ちは全て、感謝に含まれるものだと思っていた。けれど違う。それは全て感謝とは切り離された、独立した気持ちだ。何も分からなかった自分を恨みたい気持ちになったが、それよりもこんな事実に気付かなければよかったと思う。これは欲張った罰なのだろうか。あの何も知らないままのなら、何もできなくても今までどおりあの部屋で暮らせたかも知れないのに。 「私はもう、戻れない…っ」 だって、戻るにはこの気持ちは邪魔すぎる。 大粒の涙が両目から溢れて流れた。けれど小さくうずくまるのことなど誰も気に留めず、人々は足早に過ぎ去って行く。ぽたりぽたりと涙がアスファルトに染みをつくっても、誰も手を差し伸べてくれはしない。あの雨の日のように、ティエリアは優しく抱き上げて連れて帰ってはくれない。 ここには彼は来ない、いないのに、心のどこかで期待をしてしまう。もしかしたら来てくれるのではないかと。息を切らしてまで探してくれて、自分を叱った後で小さく小突き、手を引っ張って連れて帰ってくれるのではないかと。そうして孤独にますます涙が止まらなくなっていると、すっと目の前に述べられた白い手。その手には弾かれたようにぱっと顔を上げた。 「じゃあ僕と来るかい?」 * * * * * 「え?が?…うん、うん、分かった」 アレルヤは通話を切ると、携帯だけ持って部屋を出た。そしてリビングにいるハレルヤに声をかける。 「ハレルヤ、ちょっと出かけて来るよ」 「は?」 「ティエリアの預かってる子がいきなり出て行ったらしいんだ。探すの手伝って来るから」 何か後ろから制止の声が聞こえたような気がしたが、構っている暇はない。と言えばあまり外出しないらしいし、外に飛び出した所で迷うだけだ。あの小さな体で遠くまで行くことは考えられないが、最近は物騒だから誘拐される可能性がないわけではない。とは数えるほどしか会ったことがなく、行き先など見当もつかないが、動かないよりはましだ。とりあえずティエリアの住んでいるマンションの周囲を探してみることにした。そうして走ってマンションの近くまで来ると、丁度マンションからはクリスとフェルトが出て来た。声をかけようとしたのだが、二人もアレルヤに気付き、近づいて来た。 「もしかしてアレルヤもちゃんを捜しに?」 「ああ。でもあの子の行動範囲なんて僕には分からなくて…」 「そ、そのことなんだけどね…」 クリスとフェルトは顔を見合わせて深刻そうな顔をする。どうやら二人は何か事情を知っているらしい。問い詰めるがなかなかそれを話してくれず、それどころかクリスは段々と青褪めて行く。一体何があったというのだろう。口をぱくぱくさせているが、混乱しているのか言い出しにくいのか、二人とも言葉にならないようだ。対応に困っていると、息を切らしたティエリアが反対方向から歩いて来た。その表情は、クリスとフェルト以上に暗い。 「ティエリア、どうしたんだい?」 「どうしたもこうしたも…」 遅かったんだ。 ぼそりとそれだけ言うと、ふらふらと一人でマンションへ入って行ってしまう。アレルヤはいよいよクリスとフェルトから事情を聞くしかなくなった。 * * * * * あり得ないと分かりつつも、ティエリアと同じように白い手を差し出されて、一瞬だけ希望を持ってしまった。現実はそんな上手く行くはずがないのに。 「…あなたは…昨日、町で会った…」 「いいや、違うよ」 「え?」 そんなはずがない。目の前に人物は、昨日転んだ時に助けてくれた明るい緑の髪の彼と全く同じ顔をしている。目の色も、湛える笑みも、声も、全てが記憶と一致する。もしや双子か何かなのだろうか。ティエリアとリジェネもあれだけ似ているのだから、そうだとしてもおかしくはない。 「僕は君のことを知っているよ。昨日もそうだね、夢で会った」 「夢で?」 「だからよく知っている。お前が本当はとても欲張りなことも」 「っあなた…!!」 神さま、だ。 「僕と行こうか、」 「い、嫌だ!」 「でももうお前に帰る家はないだろう?」 「それ、は…」 「それに、そのままじゃお前の体は 「え…?」 ゆっくりと立ち上がったその瞬間、突如激しい頭痛がを襲った。そして再びアスファルトに膝をつく。しかし地面がぐらぐらと揺れているように感じ、すぐにしゃがんでいることすら辛くなって来た。 「ほら、言っただろう?」 が最後に見たのは、夢の中では“神さま”だった人物の唇を三日月に歪めた表情。ふっと意識を手放し、はその場に倒れ込んだ。 芽 (2009/6/26) ← → |