苦しいんです。
 目の前の少女は言った。


「リジェネさんは、何ともないんです。でも、でも、」
「ティエリア?」


 言うと、たちまち真っ赤になる少女。クリスティナとフェルトは顔を見合せて小さく笑った。名前を呼ぶことすら苦しくて苦しくて堪らないという、まだその気持ちが何なのか分からない少女が可愛くて、クリスティナは力いっぱい抱き締めた。














 三人が帰って、またこの部屋には二人きりになった。彼女もようやく年相応の女の子らしい格好になって、雰囲気も随分違って見える。そんな少女に、今度はティエリアの方が戸惑ってしまう。まず、帰って来たばかりの少女を見た時、一瞬誰だか分らなかったのだ。クリスティナに任せたのは正解だったようで、少女も心なしか満足そうな顔をしていた。
 少女はテレビが気に入っているようで、よく意味もなく電源を入れてはリモコンをいじっている。今もまた、手持無沙汰なのか適当にチャンネルを変えながら視聴している(と思われる)。相変わらずソファには猫の時と同じ座り方で、足を前に出すのは慣れないらしい。


「……」


 なんと呼びかけていいか分からない。名前を呼ぶこともできない。名前がない、それだけで。
 名前の持つ意味なら、分かっているつもりだった。けれど、分かっていなかったのかも知れない。名前を持たない不安定さを、本当は理解していなかったのかも知れない。

 後ろから近寄って、少女の隣に腰掛ける。するとびっくりしたのか、弾けたようにこっちを向く。久しぶりに合った目線。ほぼ同じ高さの目と目。長いまつげに縁取られた丸い瞳も、僅かに紅潮したその頬も、なんとなく、訳もなく、いとしいという気持ちが浮かんだ。
 すっと手を伸ばして手背で頬を撫でてやると、くすぐったそうに眼を閉じる。こんな風に触れ合うのも、猫だった数日前以来初めてだ。ちゃんと人の体温を持つ肌に、ふと頬が緩んだ。その瞬間、少女はますます目を丸くして顔を真っ赤にする。


「決めた」
「え?」
「名前だ。今、思いついた」
「で、でも、」
「一つ言っておくが、困っていた訳でもなんでもない。ちょっと戸惑っていただけだ」
「とまどって…?」


 言葉の意味が分からないのか、きょとんとして見せる。けれどここでいちいち噛み砕いて言い直すのも違う気がして、ティエリアは続けた。



?」
「お前の名前だ」
…」
「気に入らなかったら考え直すが…」
「ちっ違います!とても気に入りました!」


 体ごとティエリアの方を向き、興奮したように話す。


「すごく、かわいい名前です!ありがとうございます!あ、あ、アーデさん!」
「アーデ…」
「違いましたか?」
「いや、違っては…」


 思わず苗字呼びにこけそうになったがなんとか堪える。名前を呼んでもらうには、まだ時間がかかりそうだ。






レイニーデイ


(2009/3/5 ようやく晴れたみたいです)


(じゃあ、苗字からっていうのはどう?)
(苗字ですか?)
(それなら余り緊張しないでしょ?)
(れ、練習してみます、クリスさん)
(うん!がんばって!)




入れ知恵はここでした。まだ上手く舌が回らないのも理由です。