その花の名前

 近付いて来たヒールの音に顔を上げた。それはよく見知った顔で、けれど今日待ち合わせをしていた訳ではない女性だ。

「社長さんがこんな所で一人酒?」
「…いや、人を待っている」

 今日もRevelで集まるはずだったのだが、に見つかってしまった。人を待っているというのに、何の断りもなく俺の隣に腰を下ろす。更には店員を呼んでカクテルを注文までしてしまった。自由奔放な振る舞いに頭痛がするような気がした。

「そっちこそいいのか、仮にもモデルが一人酒なんて」
「大丈夫、たった今一人じゃなくなったわ」
「屁理屈だな」
「亜貴ちゃんにもよく言われる」

 寧ろ俺といる方が問題なのではないだろうか。は、神楽の展開するブランドでも度々イメージモデルをしている。今度、彼女専属のラインが展開されるとも聞いていた。神楽が無条件で称賛を贈る通りに、モデルとしての彼女は素晴らしい。けれど、一度オフになるとあまりにも無防備な所が見えることがある。写真で見るモデルの顔をしている彼女は、どうにも別人に思えて仕方ない。ああ言えばこう言う女性ではあるが、気を遣わずそういう口を利く彼女を、少なからず好ましく思っていた。

「忙しそうだな」
「桧山さんほどじゃないわ。今年一番大きなショーは終わったしね」
「ああ…神楽から映像をもらった。最後に着ていたブルーのドレスがとても似合っていたな」
「あら、桧山さんに褒めてもらえるなんて」

 亜貴ちゃんたちに自慢しちゃおう、と嬉しそうに笑う。作られた笑顔ではない素の表情に、柄にもなくどきりとしてしまった。初めて会った時も、その愛嬌のある可愛らしい笑顔でいとも簡単に距離を詰めて来た。当然、とは神楽の紹介で会ったわけだが、それよりも以前に写真だけを見せられた時には、かなりクールな印象だった。こんなにも人懐こい人物だとはまさか思わなかったのだ。
 運ばれて来たブルーのカクテル、そのグラスを掲げて形だけ乾杯をする。そのままグラスを口元に運ぶまでの仕草は、それすら美しい。黙っていれば頭の先から爪先まで、指先の動き一つすら売り物になるようだ。そういう仕事をしているからと言われれば当然なのだが、いくら発言が自由でも、動作と言うものは体に染みついているらしい。どれほど無防備でも、どれだけ発言が自由でも。そのちぐはぐさがおかしくて、愛おしい。俺がそう思っていることを弄ぶかのように、が俺と会っている時にから出て来る名前は「亜貴ちゃん」か「慶ちゃん」ばかりだ。偶然にも今日はその二人と待ち合わせをしているのだが。

「ところで、待ち合わせって女性?」
「いや、違う」
「桧山さんのそういう噂聞かないものね。ある意味女性泣かせだわ」
「それは……」

 お前もか、と言いかけてやめる。当然、そんなはずがないからだ。期待するだけ無駄な相手だ。彼女は今、何より仕事を大切にしている。他のことに現を抜かしている場合ではないと、以前も言っていた。
 からん、とグラスの中で溶けた氷が動く音がする。早めに来たつもりではあるが、グラスを半分以上空けてなお、二人とも現れる気配がない。まさか彼女とグルではないだろうな、と疑いの目を向けるも、視線がぶつかるとにこりと何の裏もなさそうに笑う。うっかり騙されてしまいそうな笑みだ。
悪い女というのは、こういうのを言うんだろうなと思う。思惑めいたものが微かに見え隠れしつつ、それを全て白に戻すような表情や言動をする。駆け引きがしにくく、策略が通用しにくい女性だ。

「慶ちゃんも全然女性の影がないのよ」
「槙も忙しいのだろう。そういうのは縁だから周りが気を揉んでも仕方ない」
「亜貴ちゃんは女性に囲まれていても噂にはならないし」
は二人に恋人ができて欲しいのか?」
「いいえ?類は友を呼ぶってこういうことかしらって思っただけ」

 小首をかしげて何の曇りもない目でそんなことを言う。寧ろ、の存在が二人からスキャンダラスな話題を遠ざけていることに気付いていないのだろうか。彼女と二人は幼馴染だが、特に神楽とはビジネスパートナーの面もあり、恐らく“そういう噂”というものが立ったこともあると聞いたことがある。本人たちが上手に受け流している内に消えてしまっただけで。

にも男の影がないようだが」
「そうかしら」
「…………」
「今日、その影を作りに来た、って言ったら?」

 頬杖をつき、こちらを向く。細められた目と、弧を描いた色も形も良い唇。そんな顔で見つめられて、勘違いしない男がいるだろうか。ぐらりと理性が傾いていくのを感じる。に限ってそんなはずがない、いつもの奔放な冗談だと言い聞かせ、深く溜め息をついた。

「本当に罪な女性だな」
「そうかしら」
の口から出て来るのはいつも、神楽か槙の名前だ」
「あなただって私の名を呼んでくれたことはないでしょう、貴臣さん?」

 不意打ちで呼ばれた名前に面食らった。そんな俺とは逆に、は一層、愉快そうに笑みを深める。俺らしくもない、すっかり彼女のペースだ。さして強い酒を飲んでいる訳でもないのに参った、頭が回らない。思えば、彼女がここに現れた時点から、掌の上で転がされていたのかも知れない。自分の思い通りに動かせてしまう、まるで女王様だ。ただ困ったことに、そんな今の状況を楽しんでいる自分がいる。彼女になら揶揄われても転がされても悪くはない。どうせ彼女には敵わないのだ。何を言おうと、どうしようと、彼女はいつも先手を打って行く。先回り上手なこの女性を驚かせることなんて、一生無理なことだろう。

「そして困った人でもある」
「あなたを困らせる女性なんているのね」
「ああ、目の前にな」
「ふふ、それは恐縮だわ」

 美しく笑う人だ。そして聡い。長いまつ毛に縁どられた双眸は、何もかもを見透かしているかのよう。次に俺が何を言おうとしているのかすら、もう分かっているのではないだろうか。こちらからは、の考えなど微塵も分からないと言うのに。
 ねえ、と言って彼女は自身の片手を俺の片手にそっと重ねる。まるで時計を隠すかのように。まずい、と頭の奥で警鐘が鳴り響く。

「亜貴ちゃんたちに遅刻してくれるように頼んだって言ったら、桧山さんどうします?」

 の頼んだカクテルはほとんど減っていない。そもそも度数もそれほど高くない上に、彼女はお酒に強い。酔ってこんなことを言っているとは思えない。しかし、槙だけでなく神楽まで買収してしまうとは、いっそ恐ろしさすら感じる。さあ、どうしてくれよう。
 、と世界一美しい名前を口に乗せれば、彼女は花が綻ぶように笑った。