ゆらり揺れる不戦敗

 今日家に来れないか。
 そんな簡素なメッセージが届いたのは、放課後になってすぐのことだった。私も暇じゃないんですけど、と思いつつ、多忙な彼から連絡が来るだけで口の端が緩く持ち上がってしまう。大概現金な人間だと思う。
 けれど、もちろん大丈夫だとすぐに返事をするのは何だか癪で、部活抜けられないんだけど、と返事を送る。すると、打つのが面倒だったのか電話がかかってきた。いや、暇か。

「…部活だって言ったじゃん」
「まだあと二十分くらいあるじゃろ」
「なんで覚えてるの」
「覚えとるよ、の話したことなら全て」
「そ……っ!!」

 そんな恥ずかしいことよく言えるな!―――叫びそうになる口を押さえてげほごほと大袈裟に咳き込んだ。同時に電話の向こうからも何か派手な音が聞こえる。向こうの状況は分からないけれど、他の人がいるところでこんな電話をするのは本当に勘弁して欲しい。
 あまりストレートなのは困る、と訴えたことならある。けれど、いまいち改善される気配はない。

「それで、家に寄れるかえ」
「寄れるか、じゃなくて寄れってことでしょ」
は利口じゃな」
「そっ、そういうのいいから!」

 電話の相手はそう、朔間零だ。なぜ連絡を取り合っているのかと言うと、それはまあ、お付き合いしているからではあるのだけれど、付き合って短くないとはいえ、あまりにあまりだと私も平常心ではいられない。そんな私を面白がるかのように、いつも零くんは甘やかすような言葉ばかりをかけてくる。加えて、彼はいわゆる芸能人で、芝居の仕事もあるからそんな言葉がすらすら出てくるのだろうが、こっちは受け止めるだけで精一杯だ。

「言っとくけど、部活あるから遅くなるからね!」
「ほう、そういえば秋の展覧会の時期じゃったな」
「あ、あー…そう、そうなの、だからそろそろ出展する作品を仕上げないと」

 書道部に所属している私は、春と秋に大きな書道展に出展している。忙しい合間を縫って零くんもいつも見に来てくれるのだが、なんだか今年の春は忙しそうで声を掛け損ねていた。黙っていようと思っていたのに、ついうっかり口を滑らせてしまう。いつもはのんびりやっている書道部が忙しくなるのなんて、展覧会か文化祭前くらいなのに。時々びっくりするくらいの記憶力を発揮する零くんは、そういう私の些細なスケジュールまで覚えていてぎくりとすることさえある。時々、わざとすっとぼけて見せる癖に。

「忙しい時に悪いことをしたのう」
「いや、別に……大丈夫……」

 逆に謝られてしまい、言葉が尻すぼみになる。ばつが悪くなってしまって、じゃあ後で行くから、と強引に電話を終わらせて終話ボタンを押した。
 申し訳なさそうな声を何度も思い出してしまい、部活には集中できなかった。



***



 部活が終わって朔間家に寄ると、玄関を開けてくれたのはりっちゃんだった。私と同い年だが、りっちゃんは留年したせいで学年的には一つ下になる。零くんも零くんで留年しているため、本来零くんの一つ年下なのに同学年という不思議な現象が起こっている。兄弟揃って私学で何をしているんだと思ったが、まあ、なんだか色々あったらしい。

「なに、、兄者にでも呼ばれたの?」
「ご名答」
「まだ帰って来てないよ」
「なんで」
「俺に聞かれても」

 まさかの、人を呼び出しておきながら遅れてくるらしい。一瞬迷ったけれど、「中で待てば」とりっちゃんも言ってくれたので、お言葉に甘えてお邪魔することにした。勝手知ったる家ではあるけれど、何回来ても個人宅とは思えないお屋敷である。さすがに零くんのいない状況で中に入ることはあまりないため、なんだか落ち着かない。

「まさか忘れてたりしないよね」
呼びつけてさすがにそれはないでしょ〜。あ、お茶でも飲む?」
「ありがと」
 
 そうして慣れた手つきで入れられたお茶を飲み終わる頃、玄関の方から何やら騒がしい音がした。静かだった部屋に大きな足音が響いたと思うと、零くんが息を切らしながらリビングに入って来た。今更、そんなに急がなくても。

、すまん……!!」
「いや、別に怒っては」
「忘れてるんじゃないかって疑ってたよ、
……」
「ちっ、違!」

 面白がってニヤニヤしながら口を挟んでくるりっちゃん。慌てて否定するが、零くんはかなり落ち込んでいるようだ。はなから責めるつもりも怒るつもりもないのだけれど。
 だって、待つことには慣れている。一時間だろうと二時間だろうと、待たされた気分にはならないのは本当だ。あの頃―――日本と海外を行き来してほとんど連絡が取れなかった頃に比べれば、一時間なんてほんの一瞬だから。

に会いたくて呼んだこちらが待たせてしまうなんて……」
「実の弟の前でそういうのいいから」
「うっ……、でも帰ったら凛月とが出迎えてくれるのは幸せじゃのう……」
「正確には出迎えてはないんだけど」

 相変わらず兄に厳しい弟だ。それでも、最近は以前のような険悪さはないけれど。
 気が済むまでひとしきり兄をあしらうと、りっちゃんは自室に帰って行った。あれで一応、私が人様の家で一人で待たなくていいように気を遣ってくれていたらしい。

「凛月とはどんな話を?」

 キッチンで紅茶をいれる零くんについて行くと、まずはそんなことを聞かれた。お湯の量を見るに、私に二杯目の紅茶もご馳走してくれるらしい。

「大学どこ行くのって聞かれた」
「大学か」
「うん、一人暮らし羨ましがられちゃった」

 ガコン、と派手な音を立てて茶葉の入った缶を落とす零くん。

「ひ、ひと、ひとりぐらし?」
「えっと…言ってなかったっけ……」
「き、聞いておらんぞ……」
「ご、ごめん?」

 そういえば、進路の話なんて零くんとまともにしていなかった気がする。零くんは夢ノ咲を卒業後もアイドルを続けるのだろうな、となんとなく思っていたけれど、私が深く聞いていい話ではないだろうから触れずにいた。そうしたら、自然と私の進路についても話す機会がなかったのだ。
 茶葉をティースプーンで掬う零くんの手が震えている。さすがに動揺し過ぎではないか。

「あの、別に遠くへ行くわけじゃないんだけど……」
「そ、そうかの」

 むしろ、そんなに動揺されるとは思ってもいなかった。一人暮らしをしたからと言って、会えなくなるわけでもなければ、零くんの家に来なくなるわけでもない。確かに、大学進学すれば今よりもすれ違う時間は増えるかも知れないけれど、離れる気なんてないのに。これではまるで、全く会えなくなることを想像しているみたいではないか。

「…家を出るからって、そんなに零くんとの関係変わる?」

 つい、不満げな言葉が口を突いて出る。制服のブレザーの裾をぎゅっと掴むと、「ごめん」と言って零くんは私の手をそっと包む。

「知らない内にが大きな決断をしていて、ちょっと寂しくなってしまっての」
「どの口が言うのよ」
「そうじゃな」

 もう一度、零くんはごめん、と言った。責めたいわけじゃないのに、謝って欲しいわけでもないのに。零くんは私に大層甘い。
 大丈夫、こっちこそごめん、そう言って零くんに凭れると、大きな手が頭を撫でてくれる。放課後、連絡が来た時からちくちくとささくれ立っていたいた心が治って行く。天邪鬼な自覚はあって、連絡が来たことも、電話をしてくれたことも、急いで帰って来てくれたことも、全部嬉しいのに伝えることができない。
 そんな私のことを見透かすような目で、零くんはいつも私と視線を合わせる。俯いてしまっても私の顔を覗き込んで、目を合わせようとしてくれる。分かっている、とでも言いたげな表情で。
 零くんの顔が近付き、唇が触れそうになったその時、制止をかけた。

「零くん」
「な、なんじゃ?」
「紅茶、渋くなるよ」
「…………そうじゃな」

 分かりやすく肩を落としてティーポットに向き直る零くん。
別に、よかったんだけど、あのままいつもみたいに流されても。けれど、いつまでも甘えてばかりではいけないと思うから、だから、手を伸ばしてその背中に抱き着いた。

「あ、危ないぞ…!いや嬉しいけども!」
「……なんで今日、家に呼んでくれたの?」
「なんで、とは」
「ね、なんで?」

 抱き着いてる私の腕をそっとほどくと、私を振り向いて正面からぎゅっと抱き締められる。

「ただに会いたかったから、では駄目かの?」
「……駄目じゃないかも」

 せっかく思い切ってみても、結局それ以上を返されてしまう。零くんに敵う日なんて一生来ないのかも知れない。たまに、零くんを驚かせてみたいと思うけれど、今日みたいに落ち込ませたいわけではない。だから、驚かせられるならなんでもいいわけじゃないのだけれど、零くんが私のことで動揺することなんてあるのだろうか。今日みたいなのはなしとして。
 そっと零くんの背中に手を回す。すると、答えるように更にぎゅっと強い力で抱き締められた。

「それはよかった」

 零くんの向こうから、いれかけの紅茶の香りが漂ってくる。結局渋くなっちゃうな、と頭の後ろの方で考えながら、私はそっと目を閉じたのだった。