ためらい

 かたん、と小さな音がして目が覚めた。寝室のドアの隙間から明かりが漏れて、真っ暗な部屋にわずかに光が入る。来客を知らせるそれらは、けれど遠慮しているのかこちらに入って来る気配はない。
 深夜の訪問客が誰なのか見当はついている。この部屋の合鍵を渡しているのはただ一人だからだ。しかし、こんな時間にやって来ることは珍しかった。大概、自分の方が帰って来るのが遅くなるからだ。今日、彼女がここに来る約束はしていなかったけれど、なんとなく今日は来るような気がしていた。そうして、らしくもなく待つ内に眠ってしまったのだが、いつもこんな気持ちで自分の帰りを待っていたのかと初めて知る。

(待ちくたびれた、と言う資格もないが……)

 何を躊躇っているのか、未だ一向に入って来ないことに焦れて、眠りへと足を突っ込んでいた重い体を起こす。そっと扉に近付いて、開かれない扉をこちらから開けた。

「わ、わわっ!」
「何を遠慮しているのです、
「えっと……いざ来てみたら気が引けて……」
「そんな仲じゃないでしょう」

 目を逸らすの頬に手を当てると、さっと頬が赤くなる。触れられるのはこれが初めてではないというのに、いつまで経っても初めてのような反応を見せる。だからつい揶揄いたくなってしまうのだが、それは言ったら怒りそうなので言わずにいる。

「用もないのに来ちゃったから、どうしようって」
「…用がなくても来てもらうために鍵を渡したのですよ」
「そうだったの?」
「なんだと思ったのです」
「緊急事態用とか……」
「面白い発想ですがはずれですね」

 髪を梳くとくすぐったそうにする。
 の言葉に、少し傷付いた自分がいる。何の口実もなくして、容易にに会うことは叶わないのかと。明確に自分たちの関係に名前をつけなくしているのは自分だ。だから、傷付く資格があるのはだけなのに、ちくりと針に刺された気がした。用もなくここに立ち寄ることを躊躇わせているのも、眠っているからと寝室のドアを開けることを遠慮させているのも、全て自分だ。この部屋の鍵を開けた時、電気がついておらず、誰もいない方がほっとしているのかと思うと、なんとも言えない気持ちになる。寂しい思いしかさせていない、甲斐性のない自分に。

、今日はこのまま泊まって行くのでしょう」
「そのつもり、だったんだけど」
「だけど?」
「ひめるくんがいると思わなくて」
「帰るつもりですか、こんな時間に」
「同じマンションじゃない……!」

 それはそうなのだが。
なんとかして必死でを引き留めようとしている自分が滑稽だ。

「泊まって行ってください、

 抱き寄せて、腕の中に閉じ込める。彼女をこうして抱き締める度に、どこかに置いて来た体温が戻って来るような気さえする。それと同時に、じんわりと伝わってくる自分以外の温度に、卑怯な自分を許してもらおうとしている。ずるい、と何度も言われたことがあるが、なんの言い訳もできない。こうすればが頷いてくれることを自分は知っているから。

「自分がいない夜にここで過ごしても意味がないでしょう」

 明確な言葉を言ってしまえばいいのだ。自分の元に繋ぎ留めたいのであれば、自分たちの関係に名前を付ければいい。それができないのは、自分が臆病で卑怯な所為。

「…ひめるくんが、そう言うなら」

 いつだって折れてくれるに甘えている。分かっているのかいないのか、黙ってしまった自分を見上げるの目はまっすぐにこちらを射抜いている。丸い目をぱちぱちとさせて、どうしたの、と首を傾げる。なんでもないですよ、と答えて彼女の頬に手を滑らせた。
 いつか、全部まとめて謝罪をしなければならない日が来る。その時、どんな言葉をに投げかけられようと、甘んじて受けようと決めているのだ。