適切な距離感

 ESビルの中には、関係者だけが利用できるカフェが入っている。低層階フロアの一角にあるカフェスペースは、天井も高く窓も大きい。開放感のあるこの場所で、打ち合わせをしているES関係者も多い。席数もそこそこ確保されているのは、丸テーブルに椅子を置いただけのフードコートのようなつくりだからだろう。
 りっちゃんや真緒とはなかなかゆっくり会うことができなくても、何か話すことがあれば、ここで会うのが手っ取り早い。ESビル関係者という周りの眼もあるので、堂々と二人でお茶をしていても打ち合わせか何かだと思われるのだ。
 今日は珍しく真緒の方から呼び出されたのだけれど、開口一番言われたのがこの一言である。
 
「凛月と何かあっただろ」

 じとりとした目でそんなことを言う幼馴染みの一人、真緒。りっちゃんと私のことで一番振り回されているのは、多分この人だ。りっちゃんからも私からも長らく色々聞かされてきているだろうが、丸く収まって以降もそれは変わらない。
 いや、私に関してだけ言えば、事あるごとに、というような事態は減った。いくらなんでも、幼少期からの幼馴染みに言えないようなことも増えたからだ。けれど、逐一報告しなくても見ていれば察することは容易らしい。十数年も付き合いがあると。

「あったと言えばあったし、なかったと言えばないかな……」
「奥歯にもの詰まった言い方だな」
「だって喧嘩とかじゃないし……」

 それこそ、幼馴染みだからこそ言えないようなことだ。なぜか説教されているような気持になる。いやだから、その、えっとね、ともごもご行っている間にも、目の前に置いてあるアイスティーはどんどん氷が解けて薄まっていっている。

「衣更くんに、、珍しい組み合わせじゃな」
「れ、零くん」
「いやあ、朔間先輩が見ないだけで時々会ってますよ」
「我輩も一緒していいかのう」
「いや、まっ、」
「どうぞどうぞ」

 急に三者面談になり、冷や汗しか出ない。真緒としては先輩を邪険に扱うことはできなかっただろうし仕方ないのかも知れないが、自然と針の筵に座っているような気分になった。
 いっそ、「それでは後は二人でどうぞ」とでも言って逃げてしまいたい。りっちゃんと私の問題なんて、真緒以上に零くんに知られたくない。だって、彼の実の兄に彼とのことで相談する彼女がどこにいるというのだ。

「…して、凛月と何かあったのかえ?」

 地獄耳か。

「だから何も……」
「何もないのに凛月があんな死んだ顔するわけないだろー。もうすぐ付き合って最初の誕生日なんだから仲直りしとけよ」
「えっ衣更くん今なんて!?」
「いや、だから凛月が死んだ顔…」
「その後じゃ!」
「付き合って最初の…」
「誰と!? 誰が!?」

 てん、てん、てん、と、絵に描いたような沈黙が流れた。そういえば、零くんてなりゆきを知らなかったのだったか。
 ようやくアイスティーのグラスに手を伸ばしたところを、真緒に凝視される。そして、零くん、私、零くん、と、何度か顔ごと動かして交互に見る。最後にまた私をじとりと睨んだ。その目は「自分で言えよ」と強く訴えている。

「あのね、零くん、」
「ねえ、俺だけ仲間外れって酷くない?」

 意を決して報告しようとしたところ、まさに話題に上がっていた張本人が現れた。しかもやや不機嫌そうな様子で。「三人揃ってなんの作戦会議?」と言いながら、何の断りもなく私と真緒の間の空いていた椅子に座る。

さあ、最近は忙しい、仕事がある、急用が入った、って全部俺の連絡突っ撥ねてたのに、ま~くんや兄者とは会うんだねえ」
「いや、ちが……」
「り、凛月、」
「兄者は黙ってて」

 頬杖をついてにこにことした笑みを浮かべながら、零くんをちらりとも見ずぴしゃりと言った。氷点下の嵐が吹き抜け、零くんは固まってしまった。ちくちくと小言を浴びせられた私も心臓が痛い。
 突っ撥ねていたと言われても仕方ないけれど、ここ最近、会うのを避けていたのは否定できない。

「さあ朔間先輩、あとは二人の問題なんで俺たちは行きましょう」
「えっ待って衣更くん、我輩まだ二人の口からちゃんと聞いてない」
「そこは俺が説明しますんで!」
「凛月、~!」

 真緒に力いっぱい引きずられて零くんは退場してしまった。
 周りの目があるから変なことは言えないとはいえ、こうして対峙するのは随分久し振りな気がして、私の中で緊張が高まる。りっちゃんは相変わらずにこにこしているけれど、その実、怒っているのは明白だった。何を考えているのか分からないほど私も馬鹿ではない。ただ、釈明の余地もなかった。りっちゃんと会うのは断って、こうして真緒と会う算段をつけていたのは紛れもない事実だからだ。

「さすがに避けられてるのに気付かないほど鈍くないつもりなんだよね」
「……ごめん」
「なんでが避けてるかくらい分からないほど馬鹿でもないし」
「…………」

 私は我儘なんだと思う。りっちゃんにスキャンダルが出た時、これでアイドルを辞めればいいのにって思っちゃうくらい好きなのに、いざ付き合うと、難しいことばかりが起こる。これまで十何年も幼馴染みとしてやってきていると、それ以上の距離感に不慣れな私は反射で拒絶をしたのだ。考えるより先に押し返した、その先にあったりっちゃんの驚いた顔を忘れることができない。

「俺、に嫌われるのが一番嫌なんだけど」

 さっきまで浮かべていた笑みを一切消して、落ち込んだ声でぽつりとこぼす。
 心臓を握りつぶされたようだった。勝手に気まずくしていたのは私だ。「のものになるよ」と言った言葉通り、りっちゃんは私の嫌がることはしなかったし、私を責めるようなことも言わなかった。逃げ出したのも、私だ。
 嫌ってない、というだけで精いっぱいだった。もしここがどこであったとしても、それ以上は応えることは今の私にはできない。
 けれど、りっちゃんは私の言葉を聞いてほっとしたように表情を緩める。

「それならいいや」
「い、いいの……」
「嫌われてないなら、こういうのは慣れだと思うし」
「慣れ」
「これまでも長かったんだし、ちょっとずつ距離を縮めるしかないよね」
「距離」
「そ」

 膝の上で握っていた両手に、りっちゃんがそっと手を重ねて来る。驚いて振り払おうとしたけれど、それ以上の力で握られてしまった。

「大丈夫、俺、気は長い方だから」

 多分、大丈夫じゃないのは私の方だ。覚悟がないのも私の方。私ばかりがりっちゃんを好きで、ともすれば簡単にりっちゃんの方が離れて行くものだと思っていた。醜い本音を出した時も、これで嫌われてしまえばそれでいいとさえ思った。多分、私の想像しているりっちゃんと、実際のりっちゃんには乖離がある。こんなにも長く一緒にいるのに、まだ知らないりっちゃんがいる。
 ね、と言って、にっこり笑うりっちゃんは、逃がすものかと言っているようだった。