と初めて話した日―――の笑った顔を初めて見た日、胸の中に何かが落ちて来る感覚がした。気のせいかと思ったけれど、以降、それはずっと胸の奥に留まり続けている。と話す度に疼くそれは存在を主張するかのように膨らんで行った。 のことが知りたくて、にもっと近付きたくて、が放っておけなくなった。どれだけ柔らかく拒絶されても、一度気付いた自分の気持ちに目を背けることなんてできず、のその手を掴もうとした。そうしてやっと、が振り向いてくれたのだ。 「おはよう、」 「お、おは、ようござい、ます…」 と初めてキスをした次の朝、昇降口で会った彼女は随分ぎこちない返事をして来た。しかも、いつもならこっちを向いて言ってくれるのに、一瞬俺の方を見るとまたすぐに視線を逸らされてしまった。俯くの顔は、やや赤い。 「何照れてんの」 「て、照れてなんかないし…!」 「おい京介ー、朝から彼女といちゃついてんじゃねえぞー」 「かの…っ!?」 「やめて下さい、普通に喋っていただけです」 通りすがりの出水先輩の言葉を聞いて、は裏返った声を出しながら鞄を落とした。開いていなかったから中身が散らばることはなかったが、器用なことに足の上に落としたらしく、声にならない叫びを上げて蹲った。大丈夫かと顔を覗き込むが、「だいじょうぶ…」と消えそうな声で言って俺の肩を弱く押して来る。上からは「米屋辺りに言いふらしておくかなー」なんて声が聞こえて、やめて下さいと言おうにも既に出水先輩は教室に向かうべく背中を向けた所だった。 「あ、あの、今のってこの間烏丸くんと教室に来た出水先輩じゃ…」 「よく覚えてるな」 「人の顔も覚えるから…」 「ああ、それで…」 「米屋って人もボーダーの?」 「あー………うん」 「そっか…」 の頬は依然赤いまま、そこから動こうとしない。ちらっとこっちを見たので、「なに」と言うが、「なんでもない」と言ってまた目を逸らされる。確かにこのままでは他のクラスメートの邪魔になる。の腕を引っ張って立ち上がると、鞄に振り回されたはよろけた。けれど一人支えるくらい何ともないもので、後ろに倒れかけたの腰を引き寄せてなんとか転倒を阻止すると、泣きそうな顔をしていた。さすがにこれは焦る。 「、ごめん」 「烏丸くんが、謝ることじゃ…」 「出水先輩にはちゃんと言っておくから」 「そうじゃない、そうじゃないの…うん…」 ちゃんと自分の足で立つと、は抱えている鞄をぎゅっと抱き締めた。相変わらず視線は自身の足元に落とされていて、その目に俺の姿が映ることはない。昨日まであんなに真っ直ぐ見てくれていた目が、たった一晩で遠くなってしまった気分だ。確かに昨日、は嫌がらなかったはずだが、後悔しているだろうか。授業を抜けた上に、いきなりキスなんてしたりして。昨日のことはまさか夢ではないが、昨日確かに触れたはずのの手も唇も、もうこんなにも足りないとさえ思う。ただ、が同じ気持ちでなければここから先はないのだ。 「、」 「私は烏丸くんが好きだったけど、烏丸くんは、どうなんだろうって…昨日のあれは、雰囲気とか流されただけだったら、どうしようって」 「俺が流れであんなことすると思うのか?」 「わ、わからなくて」 「……分かった」 授業が始まるまではまだ時間がある。何やら少しおかしい誤解というか、勘違いをしているの手を引いて、昨日の空き教室へ向かった。後ろから俺を呼んだり制止したりする彼女の声が聞こえるが、知らないふりだ。きっとも知らないふり、気付かないふりをしている。試すなんて大層なことができるような性格ではないけれど、「もしかして、いや違う」と自分の中で繰り返していたのだろう。昨日からずっと。 頭に来ると言うよりは、もういっそ呆れた。これまでのの過ごして来た環境を思えば疑いたくなるのも分かるが、に教科書を借りて以来、一番に近かったはずだ。それなのに何となく流れでにキスをするような人間だと思われていたことには、ショックを受けても仕方ないと思う。 「昨日と別人だぞ」 「そ、そりゃあ、あんなことがあったんだし」 「あんなことって」 「烏丸くんと、キスした…」 「嫌じゃなかったんだな」 「だから、烏丸くんが好きだったって、んっ」 言いかけるの口を塞いだ。これで二回目だ。二人分の鞄が、ほぼ同時にどさりと床に落ちる音がした。 「…うそ」 「第一声がそれって」 「だって」 「には俺が好きでもない相手とこんなことするようなやつに見えてたのか?」 「み、見えてない!…けど、私だったし…」 「だからなんだけど」 は口元を両手で押さえて真っ赤になっている。信じられない、とでも言いたげに。記憶力が良くて、文章だけでなく人の顔や名前も記憶してしまうなら、昨日のことだってちゃんと覚えているはずだ。昨日話した内容も、手を重ねたことも、唇の感覚も、全部の記憶の中に入っているはずだ。ずば抜けた記憶力なんてない俺だって、こんなにも全てを鮮明に覚えているのに、覚えていないとは言わせない。 片方の手を取って、そっと指を絡める。昨日と同じ手の大きさ、手の温度だ。何一つ変わっていない。ただ一つ違うのは、昨日までのようにが俺をちゃんと見てくれないことだけだ。 「私の記憶違いじゃない?」 「記憶力が良いのがだろ」 「全部覚えていて、恥ずかしい…」 「俺も覚えているから同じだな」 「嘘、恥ずかしいなんて思ってない癖に」 「これでも緊張してんだけど。ああ、でも言ってなかったな、好きだって」 ぎゅっと手に力を入れれば、恐る恐ると言った様子で顔を上げる。ようやく、と目が合う。その目が全てを覚えるなら、これからのことも全部覚えて行けばいい。俺と話すこと、俺と見るもの、俺が忘れてしまうようなことまで全部。もし俺が間違って記憶してしまっていたなら、正してくれればいい。その代わり、またいつかがその記憶力を疎むようなことがあれば、がそうでなければ俺はと話すこともなかったことや、惹かれなかったことをいくらでも話してやろう。俺たちの間に生まれたのは磁力だと言ったのはだったということも。一度引かれてようやく、繋がったのだ。そう簡単に離れてはやらないと思った。 「あのね、烏丸くん」 「なに」 「その…ありがとう」 「何のこと」 「好きって、初めて言われた」 「俺も初めて言った」 「うそ」 「ほんと」 |