嫌いなものと同様に、私には苦手なものは山ほどある。同じく苦手な人間もいる。同じクラスの烏丸くんがそうだ。何を考えているか分からない彼と隣の席になってから、やたら話しかけられるものの、要領を得ないというか、脈絡がないと言うか、割と私は返答に困っている。寡黙な方かと思えば意外と喋ることにも驚いたが、その内容が訳分からなくて余計困惑している。 「さん、今朝テレビ見て来た?」 「み、たけど……」 「ふーん」 「か、烏丸くんは」 「俺も見た」 「そ、そっか」 これで終了だ。これが「どこまで予習してる?」だったらまだいい。クラスメートらしい会話だ。けれど「最近図書室行った?」とか、「購買行ったことある?」とか、「傘持ってきた?」となると最早分からない。別に私と烏丸くんは特別仲が良いわけではなく、中学も別だ。さっきの会話だって、結局そこから発展することは特にない。クラスメートとの円滑な関係を築こうと思えば、会話を拒否するわけにも行かないし、無視する理由もない。ただ、じっとこちらを見つめて来る目は何かを探ろうとしているようで、それが苦手なのだ。何を考えているか見ただけでは分からないから。実は結構おしゃべりで話し相手が欲しいだけなのか。 訝しげにその横顔をちらりと見る。黙っていればかなり格好いい部類の人間だ。事実、入学して以降既に結構女子から呼び出しを受けている。そのどれも断り続けているというのも知っている。ボーダー隊員で、バイトもしていてとなれば、女の子と付き合う暇なんてないのかも知れない。 だから、今日のこの会話の流れは予想だにしなかった。夢にも見なかったのだ。 「さんって」 「う、うん」 「付き合ってるやついる?」 「……いませんが」 「俺、さんが好きなんだけど」 「…………はい?」 「好きなんだけど」 「二回言わなくていい!!」 なんでこんな、教室の中で、休み時間に、クラスメートに聞かれているかも知れないのに、なんで。いや、そもそも烏丸くんに好かれるようなことをした覚えがない。休み時間の教室の喧噪が遠くに聞こえる。私の見つめる先には、私を見つめる烏丸くんがいて、けれどその表情はいつもと一ミリも変わらない。 「えーと……あの、罰ゲームかな?」 「なんの?」 「何かの」 「参加した覚えはないな…」 「あ、そう……」 「とりあえず考えといて」 何を!?―――そう叫ぶ声は予鈴に掻き消される。次の瞬間にはもう、烏丸くんの目はこっちを向いておらず、次の授業の準備を始めている。私も授業の準備をするけれど、授業の内容は一つも頭に入って来ない。朝からなんてことをしてくれたんだ。恋に夢見ているほどではないけれど、こんな告白の仕方、漫画でも読んだことがない。これが烏丸くんを好きな子だったら卒倒ものなのだろうが。 色々と考えている間にあっという間に昼休みになってしまった。今日半日、何の授業を受けたかすら分からない。ずっと烏丸くんに告白されてしまったことばかりが頭の中を占領する。まさか、これまでの脈絡のない会話や意味の分からない会話は、そういうことだったのだろうか。つまり、私が好きだったから、と。 「ごめん、の鈍感さにはほんと笑った」 「え!?」 「いつ気付くかとは思ってたんだけど、言われるまで気付かないとか」 「そんな自意識過剰な人間じゃないし!」 昼休みに時枝くんを捕まえて廊下に連れ出し、相談してみればこの通りだ。鈍感も何も、そのような素振り一切見せなかったではないか。毎日よく分からない会話を繰り返すばかりで、それで気付けと言う方が難しい。 「いや、だって好きでもない相手に毎日話しかけたりしないでしょ。みたいな異性に」 「そう、なのかな……」 「それより視線痛いから烏丸のとこ行ってあげなよ」 「やだなに喋ればいいの!?」 教室の中へ目をやってみれば、思いっ切りこっちを見ている烏丸くんと目が合った。さすがに気まずいのかすぐに目を逸らされてしまったが。 「別にいつも通りでいいんじゃない?」 「いつもどおり……」 ほら早く、と背中を押される。ぎこちなく自分の席に戻るが、当然烏丸くんの方を見られるわけもなく、話しかけることなんてもちろんできるはずがない。そもそも、いつも話しかけて来ていたのは烏丸くんの方だ。彼から話しかけられなければ会話することなんてない。けれど今朝のことがあった手前、喋っていなくてもとても気まずい。ここにだけどんよりとした空気が漂っているような気がした。告白された後って、こんなに暗い気持ちになるものだっただろうか。いや、暗いと言うか、訳が分からないと言うか。 確かに烏丸くんはかっこいいし、人気もある。それは分かるけれど、だからと言って全員がイコール恋愛感情に結びつくわけではない。まさにそれが私だった。眺めている分にはいいけれど、口を開けばああ言った感じなので好きに直結しなかったのだ。構われたからと言ってそこに恋愛感情が芽生えるとは限らない。 頭を抱える私に声をかけたのは、やっぱり烏丸くんだった。 「さん」 「……なんでしょう」 「時枝と仲良いのな」 「いや、別に特別仲良いわけじゃ…中学同じだったけど…」 「…………」 なんだろう、この沈黙。そっちから聞いておいてこれで会話終了だなんて、やっぱりよく分からない。冗談のつもりの告白ではないのだろうけど、いまいち実感もわかない。横目で烏丸くんを見る。いつもと変わった様子は本当にどこもない。男の子ってそんなものなのだろうか。 「…あんまり見られると」 「う、うん」 「緊張するんだけど」 申し訳ないけど、緊張しているようには見えなかった。 *** 午後から雲行きが怪しかったけれど、やっぱり雨が降って来てしまった。朝はあんなに晴れていたので当然傘なんて持っていない。小雨なんて可愛らしいものではない、待っていても止みそうにない雨だ。こういう日に限って折り畳み傘も鞄には入れていない私は、昇降口で足止めを食らっていた。 暗雲がまるで私の頭の中のように見える。気まずいどころではない空気の中、午後の授業をこなし、烏丸くんが帰るのを確認してから帰ろうと思ったのに、今日はなぜか教室で粘る。いつもはバイトだなんだで授業が終われば長居せずに帰ると言うのに。もう待っていられないと、私の方が折れた。いや、別に耐久戦していた訳ではないけれど、きりがないと思い、私が教室を出たのだ。もう追いかけられたらその時はその時で対応するしかない。烏丸くん相手にすり抜けるのは困難だと私の勘が訴えていた。 だが、この雨で走って帰るのは風邪を引く未来しか見えない。友人はみんな委員会やら部活やらでいない。図書室で時間を潰してもきっと雨はやまない。風邪を覚悟で飛び出すか。 「さん!」 「う……っ!」 もたもたしていると追いつかれてしまったらしい。今まさに飛び出そうとしたその時、名前を呼ばれると共に後ろに勢いよく引っ張られた。なかなかの衝撃だったため、足が滑って後ろに倒れ込みそうになる。けれど尻もちをつくことなどなく、とん、と背中が烏丸くんの身体にぶつかった。そのまま後ろから腕を回される。いや、支えられたことにはお礼を言わなければならないが、ここまでしなくてもいい。というか、そもそも倒れそうになったのは烏丸くんのせいである。私の口から出て来たのはそれをなんとか抑え込んだ言葉だった。 「…あのね、もうちょっと優しく…」 「ごめん」 「い、いや……」 それより、いつまでこの体勢なのだろうか。帰宅部生の下校ピークは過ぎたものの、誰も通らない訳ではない。もう自分の足で支えられるし、密着した身体と手を掴まれている意味が分からない。自分の髪に烏丸くんの髪が重なる感覚がして、かあっと顔が熱くなる。何の感情もなくても、さすがに今朝の一件があってこんな体勢にもなれば意識もするし恥ずかしくもなる。「もう大丈夫だから!」と腕を振ってみても離してくれる気配がない。すると、どういうことか私の髪に烏丸くんが顔を近付けてる。鼻先が当たるのが分かった。 「なっなななななな」 「さんって何のシャンプー使ってる?」 「それ今聞くことかな!?」 「いい匂いするから」 「やめてよ汗かいてるんだから!」 暴れても離してくれない。これはもう嫌がらせの域だ。時枝くんでも誰でもいいから助けて欲しい。私の意思に反して、烏丸くんは一層私を抱き締める。これは狡いと思う、私はあの告白に返事も何もしていないのに、先に手を出すのは反則じゃないのか。ここまでされて何も感じないとでも思っているのか。もしくは、わざとやっているのか。その線が濃厚だ。だとしたら余りにも意地が悪い。 「さん、好きです」 「け、今朝聞いた…」 「もう一回言っておこうと思って」 「三回目だよ!」 「言わないとさん逃げるから」 「逃げない、逃げないから離して一回!」 すると、ようやく身体が離れる。雨のせいで少し肌寒かったはずなのに、一気に熱くなってしまった。顔が赤いのは鏡を見なくても分かり切ったことなので、烏丸くんの方を振り返ることができない。今なら雨の中突っ走って帰っても丁度いいくらいかも知れない。烏丸くんを振り切る意味を込めても。ああでも、また明日学校に来たら隣の席には烏丸くんがいるんだ。そう思うと、今逃げてもどうにもならない気がした。その前についさっき逃げないと言ってしまったばかりでもある。 大体、烏丸くんなら女の子なんて選びたい放題だろうに、なんで私だったのだろう。平凡を絵に描いたような私が、なんで。もっと可愛い子はいる、もっと気の利く子や優しい子もいる。ろくに会話を続かせることもできない私が、なぜ告白されるような展開になっているのだろう。 雨は止みそうにない。烏丸くんも黙ってしまって、激しい雨の音だけが響いている。それと、校舎のどこからか聞こえる生徒の楽しそうな声。 「突然で驚かせたと思うけど、さんのことは結構前から好きだったから」 「は、はあ……」 「時枝と仲良いし」 「それも二回目だし…」 「さんのこと可愛いって言ってるやつ、他にもいるし」 「げ、幻聴じゃないかな…?」 何かの間違いのような気がする。そんなの聞いたことがない。けれど、烏丸くんは大真面目なようで、少しきつい口調で「さん」と呼んで来る。 「焦ってるんだけど、俺」 「それで、あんな毎日話しかけて来るの」 「迷惑?」 「そういうのじゃなくて……何がしたいか分からなかったし…」 「理由なら今日もう三回言った」 「うん……」 「さんがちょっと嫌がってるのも分かってたし」 「嫌がってる訳では…」 「でも面白いし」 「おもしろ…っ!?」 流石に聞き捨てならなくて思い切り振り返る。そこには、表情をひとつも崩していないいつもの烏丸くんがいる。私に見られて「緊張する」と言った烏丸くんも、私に好きだと言った烏丸くんも、憎らしいほど全くそんな表情も様子もなくて、けれどどれも嘘とは思えない。 今日言われた「考えといて」というのは、付き合う付き合わないの話なのだと思う。そりゃあ、高校生にもなればそういうことに興味がない訳ではない。けれど今、私は烏丸くんを好きではないし、それまでにそういう素振りなんてなかったのに突然告白されて、考えといてなんて言われても考えられる訳がない。 それなのに、なんでだろう。振り返った先にいた烏丸くんに、ほんの一瞬だけ見惚れた。鋭くはないものの、射止めるような目で私を見ている。それが何より、私を好きだと言ったことが嘘でも冗談でもないことを証明していた。時計の針がひとつ動いたみたいに、私の心臓も一度だけ大きく鳴る。停滞していたものが、するりと流れ出したような気がした。 「私、あんまり付き合うとかよく分からないんだけど」 「俺も」 「え、」 「まあとりあえず」 何がとりあえずなのか分からないが、烏丸くんは昇降口の扉に立てかけていたビニール傘を手に取ってみせる。 「帰るか」 「……うん」 別に、何か具体的な答えが欲しかったわけではないけれど、気が抜けてしまった。これが烏丸くんのいつものペースなのだろうか。これについて行けるようにならないと烏丸くんと付き合うと言うのは大変のような気がして来た。慣れるものなのだろうか、と思いながら、ぱん、と音を立ててビニール傘を開く烏丸くんの背中をぼうっと見つめる。 停滞させていたのは、躊躇いと戸惑いだ。恋愛に興味がない訳ではないし、これまで好きな人がいなかった訳でもない。けれど、良い返事をもらったことのない私は、どうしても「私なんかがなぜ」という疑問しか残らない。私がここれ烏丸くんに応えたとして、それから先、やっぱり私にがっかりされることだって可能性としては十分有り得る。起こってもない未来に先回りして不安になる。それが全て解消された訳ではない、すっきり解決した訳でもないけれど、何かがゆっくり流れ始める。目が合った瞬間、これが始まりかな、と何かを予感した。ただの直感で。 そんな風に考えていたのはほんの数秒。傘を開いた烏丸くんが私を振り返るまでの、僅かな瞬間。傘を片手に烏丸くんは私を呼ぶ。 「な、なに……」 「さん、傘持ってないだろ」 「…持ってない」 「入って行けばいいと思う」 「う、うん?」 「傘に」 「あ、ああ…」 なんでそんな、分かりにくい言い方をするのだろうか。私の理解力が足りないだけなのか。 言われるがまま、烏丸くんと同じ傘に入る。普通は一人で入るための傘は、二人で入ってみる思った以上に狭い。傘ってこんなに小さかったっけ、とどうでもいいことが頭を過る。そうでもしないと今更緊張して仕方なかった。気が気でないとでも言えば良いのか。それでも烏丸くんは平然とした顔でいるのだろう。私がどんな気持ちでいるかなんて知らずに。こっちは色んなことを一気に言われて情報処理が追いつかないと言うのに。恨めしく思っていると、「拗ねてんの」なんて言われる。 「そんなんじゃない」 「…………」 「ああもう、なに!」 「いや、可愛いなと思って」 「は、えっ、いや、なんなの!?」 「言う?四回目の好」 「いい!いい!言わないで!」 顔を覗き込んで来る烏丸くんに、顔を隠しながら思いっ切り拒否する。すると、ようやく表情がちょっとだけ変わった。頬を緩めて「慣れてもらわないと困る」なんて言う。何か恐ろしい宣告をされたような気がしたが、初めて見る表情に固まりながらも体温が急上昇して、やっぱり何を言われたか理解なんて到底できなかった。 |