花倉さんと知り合ったのは、嵐山さんの紹介だった。嵐山さんの幼馴染だという彼女は、俺が玉狛支部に異動になるのとほぼ入れ違いで本部のオペレーターになった。本部で被った時期はほんの二カ月ほどだったと思うが、酷い人見知りだという花倉さんは、最初は酷いものだった。いや、人見知りと言うか男性が苦手と言うか。オペレーターは女性ばかりだから問題ないらしいが、ラウンジ辺りに出て来るとその挙動不審さは目立っていた。嵐山さんはさすが、生まれた時からの付き合いで兄妹みたいなものらしく何の問題もなく関わっている。「どこまでが許容範囲なんですか」と聞けば、「小学生までと高齢者…と、准…」と目も合わせず言われたことがある。花倉さんに一目惚れした身としては、あまりに刺さる言葉だった。 その時既に中学生だった俺は、もう許容範囲外である。しかし、男性と対峙する度に真っ赤になる花倉さんは見ていられない。男と言うのは単純な生き物で、あんな反応をされればきっと勘違いする男は山ほどいる。が、それがほとんどいなかったのは嵐山さんという保護者代わりがいたからだ。けれど嵐山さんだって花倉さんがボーダーにいる間中、傍にいてやれるわけではない。それを考えると俺ははらはらして仕方なかった。そこへ玉狛への異動の話が出て、更に花倉さんは大学へ進学。唯一の救いは、彼女の進学先が女子大だったことだろうか。 俺は、もうとっくに花倉さんが好きだった。 ![]() 嵐山さんに紹介されたその日に流れで連絡先を交換していた俺と花倉さんは、時々メールで連絡を取っていた。そのメールひとつもなかなかに返事が遅く、携帯の向こうで必死に文面を考えているのかと思うと少し面白い。会って話すよりは余程スムーズではあるが、やはり電話は駄目なようで、結構話にならなかった。花倉さんの苦手を克服するべく手近な所で俺を紹介したらしかったが、俺と知り合ってからも花倉さんは全く苦手を克服できていないようだ。 そして、メールと言えば花倉さんの方から連絡が来たことは一度もない。だから、花倉さんも今頃昼休みだろうか、なんて考えていた時に彼女からメールが来て俺は驚くしかなかった。 ―――明日、玉狛へ用事があるので行きます。 至って簡素な業務連絡だ。それでも珍しいことに変わりはないので、携帯の画面を凝視してしまった。きっと玉狛に用事があると言えば、同じオペレーターの宇佐美先輩になのだろうが、俺にも事前に連絡をくれたことには嬉しさを感じずにはいられない。 気が付けば好きな相手のことを考えてしまうのは仕方ないことだと思う。ただ、相手はあの手強い花倉さんで、なかなかに望みは薄い。中学生ですら「最近の子は背も高いし大人びてるしだめ…」なんて言ったのだ。どうしたものか。嵐山さんとは話そうが触られようが何ともないのに、これは、大分妬ける。かと言って俺が嵐山さんになれるわけでもなければ、嵐山さんの代わりすら勤まらない。…いや、やっぱり兄妹のような関係は嫌だな。 なんで、高校生から大学生になると急に変わってしまうのだろうか。制服を卒業しただけで一気に大人になってしまったようだ。それ以前から遠かった花倉さんが益々遠くなってしまった気がした。大学出できた友人の影響でメイクも覚え、髪を染めた。私服でボーダーに現れるが、これは贔屓目を抜きにしても可愛い。男性が苦手というのがなければあっという間に彼氏もできていただろう。そこだけはほっとしている。けれど同時に自分にもチャンスは期待できないと思うと喜んでばかりもいられない。 溜め息をついていると、また花倉さんからメールが届く。 ―――あと、一人で行くの怖いので烏丸くんに一緒に来て欲しいです。 言っていることは分かる。花倉さんと同い年の迅さんでさえパニック寸前になるのに、玉狛を訪問して出て来たのがもしもレイジさんだったら卒倒してしまうかも知れない。だが、こんな風に言われると余計にぐっと来るものがある。勘違いなんてものはしないが、頼られているという事実に内心舞い上がる。きっとこうしてこんな事を頼むのだって、本当は花倉さんにとっては勇気の要ることだろうに。 分かりました、とだけ打って返信すると、今度は「烏丸くんの授業が終わる頃にそっちに行きます」―――そっち、とは、ここのことだろうか。いや、卒業生だから勝手知ったる場所だし、待ち合わせるには都合もいいが、校門の前で待つと言うのがどういうことか分かっているのだろうか。タイミングが悪ければ米屋先輩や出水先輩にからかわれるぞ。花倉さんが男性が苦手だというのは、その界隈では結構有名なのだ。嵐山さんと面識のある人間なら、きっと大概知っている。佐鳥なんかはその筆頭だが、花倉さんに目を合わせてもらえず真面目に落ち込んでいるのは佐鳥くらいだ。 ―――授業終わったらすぐ行くんで、先輩たちに見つからないようにしてて下さい。 もうこれしか忠告することができない。けれど、本心は花倉さんのためだけではない。あの男性を前にして真っ赤になる顔を、俺以外の前に晒さないで欲しい。簡単にからかわれるような隙を作らないで欲しいとも思う。苦手な癖に、三輪先輩に冷たくされてショックを受けるのもやめて欲しい。こういう時、重症だなと思う。別に、花倉さんは俺のものでも何でもないのに。 *** 「か……からすまくん……!」 翌日の放課後、本当に校門の前に花倉さんはいた。隠れてて下さい、と念を押した。あの後ももう一度メールを送ったのに、なぜ校門を出てすぐそこにいるのだ。お陰で、予想通り米屋先輩と出水先輩に絡まれている。涙目になりながらこっちに助けを乞うて来るが、半分自業自得だな、と思った。俺を見付けた出水先輩が「なんだ、京介待ちか」と残念そうな素振りを見せる。わざとらしく。 「玉狛に用があるみたいです」 「本部行くなら俺らも花倉さんと一緒に行こうと思ったんだけどなー」 「ややややややめてください」 「相変わらずだけど花倉さんのソレ傷付くわ」 「米屋先輩、全然傷付いた顔してないすけど」 その後は特にしつこく絡むこともなく二人は去って行く。本部でも会う度に未だああやってからかわれているのだろうか。作戦室からあまり出なさそうであるが、だからこそどこかで遭遇した時にちょっかいかけられるのだ。 面白くないと思う。本人にとっては死活問題かも知れない。けれどああやって自分以外の男に隙を作ったりからかわれたり、あまつさえ涙目で真っ赤な顔を見せたのだと思うと、いつだって心臓が焼けるような思いだ。多分嵐山さんの次に関わっているであろう俺でさえ、未だちゃんと顔を見てもらえたことはない。これが嵐山さんだと何ともないというのが、それはそれでまた面白くないのだった。 もし、花倉さんの幼馴染が俺だったら今の嵐山さんのポジションに俺はいられたのだろうか。顔を見てくれたり、触ってくれたりしたのだろうか。業務連絡以外のメールのやり取りができたのだろうか。好きだと告げて、受け入れてもらえることはあったのだろうか。 そんな、もしものことを考えたって仕方ない。諦めるしかないものを、未練がましく握り締めている現状は女々しい以外言いようがない。俺の少し後ろをついて来る花倉さんはずっと俯いていて、このまま俺が急に止まったら俺にぶつかるんだろうな、なんてことを考えた。それで花倉さんが転びかけたりしたら、その身体を支えるために腕を引くくらいはできるだろうか。…そんな都合のいい話があるわけがない。けれど、まるで克服する気のないようにも思える花倉さんは、一体なぜ俺が玉狛に異動した後も頼って来るのだろうか。幼馴染の嵐山さんが頼んだことだから今更もういいだなんて言いにくいのだろうか。自ら苦手を克服しようと思ったならば、もうちょっと自分から変わろうとするものではないのか。 花倉さんが俺にぶつからない程度にゆっくり立ち止まって、振り向かないまま俺は口を開いた。 「花倉さん」 「な、なに、かな…!」 「ソレ、直す気あります?」 「え……?」 「俺ももう本部所属じゃないし、俺以外の人を嵐山さんに紹介してもらった方がいいと思うんすけど」 後ろから返って来る言葉はない。ただでさえ男が苦手だと言うのに、突然こんなことを言ったら混乱するだろうか。けれど、俺だってそろそろ限界ではあった。絶対に振り向いてもらえないような相手にメールを送り続けたり、こうして何かあれば頼られたり、そんなことが続けばそれ以上、と欲が出るのは当然だった。花倉さんに近くにいられればいられるほど、つくはずの諦めもつかない。 あの、と言いながら振り返ると、花倉さんはその場で声も出さずに涙を流していた。はらはらと、まるで自覚がないかのように溢れ出ている。 「花倉、」 「あっ、ご、ごめ…」 「いや、あの、」 「ごめん、烏丸く、あ、も、もう、いいから…迷惑かけ、…ごめ…っ」 なんで花倉さんが泣く必要があるのだ。きつく言ったつもりはなかったが、少しいらついていたせいで冷たくは聞こえたかも知れない。それでも、泣くほどのことだろうか。当然のことを言っただけではないか。このまま俺とメールのやり取りを続けて、ボーダーの用事がある時だけ呼び出されて、それで何の意味があるというのだろう。 考えても考えても分からなくて、走り去って行く花倉さんの背中を、茫然と見つめるしかできなかった。 嵐山さんから電話があったのは、その日の夜だ。まだ本部にいるらしく、その後ろからはがやがやと人の声が入って来ていた。俺もまだ玉狛からの帰りだったのだが、どうも今日花倉さんが玉狛に来なければならない用事はなかったと聞かされ、更に茫然とするしかなかった。そう言えば、花倉さんは玉狛に用がある時は必ず支部に連絡を入れる。今日に限って忘れたとも思えない。何が何だかもう分からない上に嵐山さんからの電話だ。花倉さん絡みのことだろうと思えば、案の定そうだった。 『悪い、季帆が迷惑かけたみたいだな』 「嵐山さんが謝るようなことじゃないです」 嵐山さんが悪いわけではないのに、花倉さんはやはり嵐山さんに話したのかと思うと、その謝罪にすらいらっとしてしまう。声に出したつもりはないのだが、それを察したらしい嵐山さんが気まずそうに「あー…季帆からは口止めされてるんだけどさ」と切り出す。 『お前の異動が決まった時に、俺ももう断るかって言ったんだ。でもそれはやめてくれって言ったの季帆の方なんだ』 「……ちょっと訳が分からないんですけど」 『“烏丸くんとの接点がなくなっちゃう”、てらしくもなく焦り出してさ、…まあ、つまりそういうことだ』 「…………」 『でもまあ確かに、ずるずるさせてた俺も悪かった。ごめんな』 そういうことだ、と言われても。そういうことは本来、嵐山さんの口から聞くようなことではないのではないか。花倉さん本人が言うべきことなのではないか。通話の終了した携帯を見つめる。きっと電話は出ないだろうから、花倉さん宛にメールを送る。今から家に行くんで外に出てて下さい、と。それだけ送って、花倉さんの家まで走った。 これまで言いたいことを我慢していたのは何だったのだ。嵐山さんの言ったことが俺の想像したとおりだったとしたら、もっと早くにこの状況を抜け出すことはできたかも知れないのに。今日、要らないことで花倉さんを泣かせることだってなかったかも知れないのに。 花倉さんの家の前に着く頃には息が切れていた。もしかしたらメールも無視をされるのではと思っていたが、それは見てくれたらしい。家の門の前に一人でぽつんと立っている花倉さんがいた。ぼんやりと光る携帯の画面が彼女の横顔を照らしていた。その表情は決して明るくはない。 「花倉さん、遅くなりました」 「か、からすまくん……」 「嵐山さんから電話もらいました」 「……ごめんなさい」 花倉さんはまた項垂れる。謝らせたいわけでも、そんな顔をさせたいわけでもない。 俺は、いつだって花倉さんと普通に会話ができる嵐山さんが羨ましかった。彼女が笑顔を向ける唯一の男が嵐山さんで、その現場を目撃する度にどれだけ歯痒い思いをしたか、花倉さんは知らないのだ。きっと言えば距離を取られるだろうと思っていたから、それならこのままでいいと思っていたのも事実だった。今日の件は、悪いことが重なり過ぎた。八つ当たりがまざっていたのだ。 「最初は、ほんとにこんな私、直したくて、でも烏丸くんは優しくて、気付いたら好きになってて…でも、好きだって思うと余計、どんな風に話せばいいか分からないし、私なんかに好かれても、烏丸くん、迷惑だと思って…」 ぽつりぽつりと花倉さんは話し始める。これだけ話す花倉さんは初めて見た。焦っているような、困惑しているような複雑な表情で、慎重に言葉を選んでいるようだった。 「迷惑なんかじゃないです」 「え?」 「俺も気付いたら好きでした、花倉さん」 一歩、距離を詰める。何か言おうとするも、言葉が見つからない花倉さんは、左右に視線を彷徨わせるばかり。 最初はなんだっただろうか。面倒臭いとは思わなかったけれど、俺が選ばれた理由も分からなかった。けれど、こんな花倉さんと過ごせば過ごすほど、放っておけなくなって、欠点すら可愛いと思えるほどになっていた。このままずっと、男が苦手だったらいいと思ったこともあった。そうすれば、俺はずっと花倉さんについていられるし、花倉さんが気を許すのは嵐山さんだけだからだ。けれどそういう訳にはいかないと良心は苛まれ、それならいっそ自分の手の届く所にいる人でなくなればいいと思い、今日の夕方のような言葉が出た。 「私、こんななのに?」 「だから良かったのかも知れません」 「なんで」 「さあ、なんででしょう」 暗くても分かるほど、気付けば花倉さんは顔が真っ赤になっていた。いつものように耳まで真っ赤な顔を晒す。なるべく俯かないように努力はしているのだろうが、目だけはひとつも合わない。手を伸ばせば届くような距離にまで近付く頃、とうとういつもの癖で花倉さんは俯いてしまった。きっとその前髪で隠れた表情は泣きそうになっているのだろう。今あの涙目で見上げられても堪らないので、今だけは俯いていてくれて良かったと思った。そして、ずっと言いたかったことを言う。 「花倉さん、触っていいですか」 「へ、へ、えっ!?」 「手ですよ、手」 「あ、あああの、あの、私、」 「手、触るだけで良いですから」 まともに話すこともままならない彼女には、随分酷なことを言ったと思う。けれど、好きだったとまで言われて、手に触れることさえできないなんて、それこそ残酷だ。 意外にも、彼女の方からおずおずと差し出された右手。小さなその手を、両手でそっと包んだ。真っ赤な顔の割にひんやりした手が、どれだけ緊張しているかを表しているようだった。そして触れた瞬間、彼女の肩はびくりと跳ね、呼吸を止めるのが分かった。呼吸を止めると言うか、息が止まったと言うか。 「花倉さん、息して下さい。死んじゃいます」 「息、してる、から……」 「…結構、先が思いやられますね」 「う、うん……」 「肯定しないで下さいよ、季帆さん」 「ひぇっ!?」 名前で呼んで見れば、裏返った叫び声を上げる。よく真っ赤になる花倉さんだが、今日はいつもに増して赤いのは見間違いじゃないと思う。ただもう、花倉さんの気持ちが分かった今、それすら可愛いとしか思えない。ますます、他の男の前に出したくなくなる。やっぱり、いずれ克服してもらわなければ、と思った。そうして、いつかはそんな顔を俺だけに見せてくれるようになればいいと。俺にだけはいつまでも慣れなくていいと、そんなことを思った。 (2016/05/02) |