長い長い夏休みの幕開け、前期最終日に私は研究室に寄った。斎藤教授は変わらずデスクに向かって忙しそうにしている。しかし私は嬉しさを抑え切れずに叫ぶ。 「斎藤教授!夏休みです!」 「学会だ」 「…………」 一刀両断されて肩を落とした。 そう、学生が休みだからと言って教授まで休みとは限らないのだ。しかも今年は何やら大事な学会があるらしく、ここの所パソコンや本の山と睨めっこをしている。私もこの間まで試験期間だったため、講義以外ではなかなか顔を合わせられなかったのだが。 落ち込む私をちらりと見るだけで、また視線はパソコンへ。そうやって真剣な顔の教授も好きだから、ついどきっとしてしまう。ここで駄々をこねたり拗ねたりするほど聞き分けのない人間ではない。寧ろ仕事中の斎藤教授を見られるなんて、と思うくらいだ。 (我ながら現金だなあ…) 適当な席に荷物を置き、椅子を引いて座る。 「…何をしている」 「ちょっとだけ課題をして行こうと思って…」 「良い心掛けだな」 ふ、と笑ってそんなことを言う。だから堪らなくなる。この人を好きなことをやめられない。落としておきながらそれ以上に上げて来るのだ。さっき以上にどきどきしながら鞄から課題を取り出して、恨めしげに教授を見た。 パソコンのキーボードを打つ音、本のページを捲る音、ボールペンが紙の上を滑る音。秒針のない壁時計は一分毎に長針の動く音を鳴らす。暫くすると、「すぐ戻る」と言って斎藤教授は出て行った。ドアが閉まるまで見守って、また課題に向かう。それから結構時間が経ってからようやく斎藤教授は戻って来た。なかなか帰って来ないな、学生に捕まっているのかな、などと思い始めた頃だった。 「遅かったですね」 「すまない、これを」 手渡されたのはキャンパス内のコンビニの袋。中を見てみると、ストレートティーに、炭酸に、リンゴジュースに、麦茶に、水に、様々な飲み物が入っている。 「どうしたんですか、これ」 「どれが良いか分からなかったから、とりあえず買って来た」 「いやあの…」 「温かい方もある」 片手に握られていたのはホットココア。 私の今の気分なんて分からないから迷ったんだろうなあ、冷房がきいているから温かいのも選んでくれたんだろうなあ、それで時間がかかっていたのなら何だかおかしくて笑いが込み上げて来た。けれどそんな教授が愛しくて愛しくて、私は立ち上がると背伸びをして斎藤教授の頬にキスをする。 「お礼です」 「どこで覚えた、そんなこと…」 「課題がんばったらいつも斎藤教授がしてくれ、」 「あ、あああもういい分かった喋るな!」 よくできている、と言いながら頭を撫でてくれたり、キスをされたり、あれは無意識だったのか。斎藤教授、恐ろしい。しかしいざ指摘されるとかなり恥ずかしいらしく、真っ赤になって私から目を逸らしてしまった。 「教授」 「なんだ」 「私、夏休みに実家に帰るんです」 「そうか、離れていては親御さんも心配だろう。ゆっくりして来るといい」 「そうじゃなくて!」 今度は私が吠えた。 「教授も一緒に来ませんか、ていう、お誘いです」 「…………」 「教授?」 「それは、本気か?」 まるで究極の選択を迫られているかのような神妙な面持ちで私の肩を掴む。逆に私の方が緊張して恐る恐る頷いた。すると、私の肩に手を置いたまま深い溜め息をついて項垂れる。何かまずいことでも言っただろうか。一度うちに来たことがあるとは言え、あの時は家の外で少し会っただけですぐに帰ってしまった。つまり、私の親には会っていない。今回は親に紹介するつもりで誘ったのだ、流石にそれはまだ駄目らしい。ごめんなさい、と言おうとすると、先に斎藤教授が私を抱き締めた。 「良いのか」 「へ?」 「の両親に会えるだけの男なのか、俺は」 斎藤教授の好きな所。時々不意に、弱い部分を見せる所。ごく稀に甘えるようなことを言う所。私よりずっと大人なのに、同じくらいの葛藤を抱えている所。そんな、情けない所も含めて全部好きだ。 「斎藤教授以上の人なんていません」 斎藤教授も緊張しているけれど、彼を両親に紹介するのが初めての私も、かなり緊張する。緊張しますね、とそのまま言葉にすれば、「言うな、余計緊張する」と硬い声が返って来て私は笑ってしまった。 大切な人がいます。大好きな人がいます。訳あって関係を公にできない相手だけど、私を大事にしてくれる人です。今年は彼をつれて家に帰ります―――その夜、そんな文面のメールをお母さんに送った。お母さんからは「待ってるわよ」の後にハートマークのついたメールを受信して、安心して帰れそうだと思った。お父さんはどうか、まだ分からないけれど。 |