because of you

 連日の徹夜で眠さに目を擦りながら、私は白く光るパソコンのディスプレイと睨めっこをした。
 長かった論文もやっとのことで山場だ。このまま行けば今晩には終わるだろう。そう思いながら、小さなカップの残り少ないコーヒーを一気に流し込んだ。喉元を通りすぎる生温い液体に顔をしかめながら、目薬に手を伸ばす。コーヒーと言っても、甘党でない私はブラックは飲めないので、ミルクたっぷりだけれど。

「また徹夜明けか?」
「ティエリア…」

 隈ができている、と、ティエリアは自分の目の下を指差して言った。コンシーラーでも隠せなかったらしい。他の誰に見られようと、ティエリアにだけはいつもに増して不細工な顔を見られたくなくて、普段使わないような化粧品まで使ったというのに。
 普段から自覚のない私の疲労にまでティエリアは気付く。そういう時のティエリアは厳しくて、テスト前だろうと何だろうと「まずは休め」と鬼のような形相で私に迫るのだ。しかし今、ようやく終わりが見えて来た課題なのに、エンジンのかかった所でティエリアに止められてしまっては非常に困る。今日の内に終わらせて、明日はティエリアとゆっくり過ごしたいのだ。

「もう少しで終わるの。あとちょっとよ?今晩の内には終わるから、だからね、」
「分かったから落ち着け」

 捲し立てる私を宥めるように、少し強く頭を撫でられる。そう必死で訴えたからか、今日は作業を止められることはなかった。ティエリアは私のパソコン画面を覗き込み、けれど学部が違うから添削されることはない。そして再度私の頭を撫でると、額に触れるだけのキスをした。まるであやすようなキスに、子ども扱いされた気持ちになり、私は唇を尖らせる。すると私の反応がそんなにもおかしかったのか、口を押さえて笑いを堪えている。ますます機嫌を損ねてさっさとパソコンに向き直ると、「悪かった」と半分笑いながら誤り、次は頬に口付ける。

「君ががんばっていることは僕が一番知っている」
「ティエリア…」
「それで、もうすぐ終わるんだな?」
「う、うん」

 分かった、と短く返事をすると、ティエリアは踵を返してドアへと向かう。その後ろ姿を見て、私は考えるより先に「待って!」と言っていた。しかも椅子から立ち上がって。ティエリアが足を止め、振り向いてから言うことに困る。何か言わなければならないと思っただけで、言いたいことは思い浮かばないのだ。どうしようどうしようと、数回口ごもった後、恥ずかしくて前髪を押さえ、俯いたままティエリアに言った。

「すぐ、終わらせるから、だから、今日は、その…ティエリアと、寝たいなぁ…、て…」

 段々と声が小さくなり、俯いてしまう。
 何を言っているんだ私は、という話だが、別にやましい気持ちを含んでいた訳ではない。最近はこのとおり課題に追われていて、ティエリアとろくに話もしていない。疲れているし、今から何かと言うわけにもいかないけれど、せっかく論文も終わるのだ。ティエリアと同じ空間で傍にいたい。出来れば、がんばったとは言えなくても、寝不足に耐えて乗り切った私を認めて欲しい。久しぶりに甘えさせて欲しい。一晩中ぎゅっと抱き締めていて欲しいのだ。
 恐る恐る顔を挙げると、ティエリアは呆気にとられたような、驚いたような、何とも形容しがたい表情をしていた。

「ティエリア…?」
「あ、いや、君が人に甘えるのは珍しいからつい」

 そうして沈黙が流れる。しまった。なんだか気まずい。言わなければ良かっただろうか。
 後悔と恥ずかしさに駆られていると、ティエリアの方から口を開いた。

「待っている」

 ティエリアも何か気恥ずかしいのか、すぐに背を向けて出て行ってしまった。けれど静かに閉められたドアからは私を気遣ってくれていることがちゃんと伝わって来る。そんな優しさにじんわりと温かくなりながら、私はもう一度パソコン画面に向き直った。
 あと二時間。あと二時間で終わらせてみせる。そうすればティエリアは「お疲れさまだったな」と言って笑いかけてくれるに違いない。


(2010/2/9)