元クラスメートのと再会したのは、野球部の練習が終わり、自宅へ帰る途中だった。元、というのはこの三月末で彼女が退学したからだ。共に三年生になることなく、突然は青道高校から姿を消した。理由も分からないまま消えたクラスメート。様々な憶測や耳を覆いたくなるような噂が飛び交っていたが、結局は何もかもが分からずじまい。
 そんな彼女と偶然再会できたことに、結城は少なからず喜んだ。向こうも驚いた顔をして、そして以前と同じように笑って見せた。

「久し振りだね」
「ああ」
「練習の帰り?」
「そうだ。…、は」
「ちょっとお母さんにお遣い頼まれちゃって」

 ほら、と片手に下げたエコバッグを掲げて見せる。すぐ近所のスーパーとは言え、もう外は暗い。送る、と言うと素直に「ありがとう」と返って来る。
 話を振って来るのはからばかりだった。「野球はどう?」、「学校は楽しい?」、「もうすぐ定期テスト?」など、質問攻めと言って良いくらい様々な事を聞かれた。はどうだ、と聞けばいいものを、何となく聞けない雰囲気だった。

 とは、一年の時に同じクラスだった。入学して最初に隣の席だったのがで、そこからよく話すようになった。女子からは敬遠されがちだったが、だけは平然と結城に話しかけ、家が近所であることが発覚すると時々登校時に出会うこともあった。別段目立つような生徒ではなく、成績がずば抜けて良い訳でも、何か部活で活躍している訳でもない。至って平凡な女子生徒だった。ただ、その気さくさと裏の無い笑顔に助けられたことはある。これが友人と言えるのかどうかは分からないが、結城にとっては少なからずただのクラスメートではなかった。だが友人と言うほどのことを知っている訳でもない。
 そんな関係に悩みに悩み続け、二年に上がると残念なことにクラスは別になってしまった。とはいえ、すぐ隣だったためよく結城のクラスに彼女は足を運んでいた。大した用がなくとも、「なんか結城と話したい気分で」とか何とか訳の分からないことを言い、昼休みに居座ったことがある。
 そして今度こそ、最終学年。同じクラスになれるといい、程度に思っていたのに、まさかの退学の知らせ。しかも本人から直接聞いたのではなく、二年の時の担任に結城が呼び出され、その知らせを受けたのだ。公にしなくて良いから、結城には伝えて欲しいと最後には言ったらしい。
 別れの言葉の一つも言えないまま、もう二度と会えないのかと思っていた。それでも、がいなくても一日一日が流れて行くのは変わらない。時々、「結城、元気してる?」と後ろから声をかけて来るのではないかと虚しい期待を抱きながら、後ろを振り返ってしまう。

「なんか変わったね、結城」
「そうか?」
「なんて言うんだろ…主将の風格が出たっていうのかな」
「自分では分からないが…」
「あはは!そりゃ、分かる人がいたら自意識過剰だよ!…そう言う所は変わらないね」

 街灯の下で足を止める。の声のトーンが変わった。街灯に照らされたの表情はどこか暗い。高校二年で退学するなんて、何かあったに違いない。それゆえに、こんな顔をするのだろう。結城は、笑っている以外を見たことがないのだ。結城の前では、いつだって笑顔だった。その笑顔が曇っている。曇らせたその原因は、一体何だ。それを問おうとして口を開いた瞬間、阻止するかのようにの方から口を開いた。

「今、本当は長野にいるの」
「長野…?」
「長野で祖父母の家のお手伝いをしながら、通信制の学校に通ってる」
「…………」

 なんでまたそんなことに―――そう思ったが、言葉にならなかった。もまた、言葉を探しているようだ。「え…と、うん…」そうもごもごと呟き、何度も口を開いたり閉じたりする。何をどう説明すれば良いか迷っているのだろう。
 恐らく、いや、間違いなくかなり言い辛いことだ。それを無理にに言わせる訳には行かない。「言わなくて良い」「え?」「無理に聞き出そうとは思っていない」本当は知りたい。に何があったのか、自分にできることはないのか、に訊きたい。
 結城は、帰るぞと言ってまた歩き出す。するとも小走りでついて来る。追いついたは、結城の隣まで辿り着く。それを確認すると、結城は歩くペースを落とした。
 は歩道側を、結城は車道側を、それが一年から二年にかけて培った距離だった。前と後ろではなく、並んで歩くのが普通だった。いつしか左側が欠けて、何度も寂しい思いをした。なぜここにがいないのだと、ふと我に返った瞬間思うことも何度も何度もあった。が退学せずに済む方法はなかったのかと、今でも思う。けれどそれはもう考えた所で無駄なことだ。

「長野での生活には慣れたか」
「うーん…まあまあね。やっぱりこっちとは違って不便な所もあるけれど、すごく落ち着いた田舎だよ。たまには実家にも顔出せってお父さんに言われちゃって、昨日からこっちに来てるんだけど…」
「そうか」

 取り戻すことができないなら、現状を変えることができないなら、自分にできることなど限られている。今のを支えること、それくらいだ。

「今年、一年に長野からやって来たやつがいる。何かあれば相談してやる」
「本当?心強いなあ。スポーツ推薦で、だよね」
「ああ」
「ポジションどこ?」
「ピッチャーだ」
「へえ、また滝川くんや御幸くんが大変だね」
「なかなか手を焼いているらしい」

 何でもない会話なら何度もした。心や記憶に深く残るような会話はした覚えがない。それなのに、今この瞬間が酷く大切なもののように思える。とても特別な時間のように思うし、もう二度と彼女とは会えないのではないか―――そんな危機感さえ覚える。
 刻まなければ、と思った。今としているこの言葉のやり取りを、ちゃんと覚えておかなければと。また次の機会があるとは限らない。はこのまま、長野にずっと住み続けるのかも知れない。東京には戻って来ないのかも知れない。もう、何の理由も口実もなく毎日顔を合わせることのできた同級生ではないのだ。左隣を歩くが制服でないことが、それを一層感じさせる。

「明日、また長野に戻るの」
「明日か」
「昼の電車で。だから明日はばったり遭遇、なんてできないね」
「…ああ、そうだな」

 ぴしり、と何かにヒビの入る音がする。耳の奥、頭の奥でだ。制服を着て帰り道で隣を歩くことはもうない。他愛もない会話を繰り返すこともできない。共に寒さに震えることも、暑さに文句をいうことも、同じ夜の空を見上げることもできない。
 どうして、とまた頭の中で疑問が浮かび上がる。まだ同級生だった頃、もっととの時間を大切にしておけばよかった。当たり前のことなんてないのだと、野球でも散々教わったはずなのに。それは野球だけでなく、学校生活にも当てはまるはずなのに。呆気なく終わってしまったとの高校生活に後悔してもしきれない。一緒に卒業式を迎えることはできない。進路や受験に共に悩むこともできない。願っていることは決して難しいことではないはずなのに、それがどれ一つとして叶わない。結城との道は、違えてしまった。
 ぎり、と奥歯を噛み締めた。何か、何か言わなければ。気の利く一言や二言、にあげられないものか。肝心な時にどうしてするりと気持ちを言葉にできないのだろうか。

「ねえ結城」
「なんだ、
「東京は、星が見えないね」
「長野は見えるのか」
「とってもきれいだよ」

 が結城を見上げたその瞬間、の右手と結城の左手がぶつかる。それは、ほんの一瞬だ。「あ、ごめんね」と言っては笑う。以前と同じようで、違う笑顔。何かを抱えていることを思わせる笑顔。けれど、それを必死で隠そうとしている。が隠し続ける限り、知ることのできないの秘密。それは棘だろうか、毒だろうか、雲だろうか、雨なのだろうか。それすら分からない。けれどそれを打ち明けることのできる相手はにはいるのだろうか。かつて自分がそうだったように、他愛のない会話をする相手は、長野にいるのだろうか。
 の歩幅に合わせながら歩いていても、もうすぐそこにの家は見えて来た。そろそろお別れだ。東京を去って三カ月、一度も実家には帰ってなかったという。帰って来たくないのか、向こうの居心地がいいのか、或いは両方なのか。また会いたいと、その言葉を口にしていいのか。
 それじゃあ、と言っては家の門を開ける。玄関に入って行くまでその背中を見送ろうと思っていた結城は、門の外で留まる。すると、は結城の方を振り返らないまま結城に言った。

「長野に行って、気付いたことがあるの」
「なんだ」
「私、意外と結城のこと好きだったみたい」

 あはは、と笑って最後に振りかえり、急ぎながら玄関の中へ消えて行く小さな背中。
 それはこっちの台詞だ、と結城はひとりごちた。言われて初めて気付く喪失感の理由。ああそうか、自分はが意外と好きだったのか、と。もう届かない場所に行ってしまってから、結城は最初からは特別だったのだと気付いた。それすらもう、届くことのない言葉なのだと知り、拳を握り締めることしかできなかった。
 何度も帰ったこの道。もし一度でも彼女の手を掴むことがあったのなら、もっと早くにこの気持ちに気付くことができたのだろうか。

(2014/09/26 ダイヤ夢企画『全力少年』さまに提出)
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