鳥篭は終宴を知らず



 偶然、珍しい酒が手に入った。洋酒の瓶を手に借家に帰宅すると、何時も通りに玄関先まで迎えに出て来る。その彼女も太宰が手にしている瓶に目を遣り、そして太宰を交互に見る。目が「それは何だ」と語っていた。
 は何を考えているのか分かり難いと言われる事が随分多いそうだが、太宰に言わせればそうではない。目の動き一つ、眉の動き一つが凡てを物語る。声色にしても、その違いを聞き分ける事は太宰には容易い。

「酒だよ、職場の人がくれた」
「左様ですか」
も飲むかい?」
「私はお酒はあまり…」

 そう言いながら、両手を出して太宰のコートを受け取った。別段、太宰はそう言った事をには望んでいない。だが過去の仕事の癖なのか、扉の開く音がすれば直ぐ様出て来、太宰が荷物を持っていればそれを自分が持とうとする。は業務の一環とでも思っている様だが、まるで夫婦の様だと太宰は思う。それをに言った所で白い目で見られるだけだろうが。
 は確かに酒を飲む事が無い。元職場で扱った事はあり、晩酌をしてくれる事もあるが、自身は一口も酒を口にしない。だからこそ一度飲んでみないかと言ったのだが、矢張り断られてしまった。

「これ迄一度も飲んだ事は無いのかい?」
「缶チューハイ程度でしたら…」
「あれはお酒とは言えないよ!」
「はあ…」

 如何でも良いとでも言うような顔をする。矢張りは自己主張がしっかりしている。
 共に暮らせば暮らす程、は太宰の胸の奥を掴んで行く。胸中を波立たせ、ざわめかせ、不安にさえさせる事がある。にその自覚がない事も魅力の一つだ。態とらしさなど微塵もなく、彼女の言動の凡てには嘘が無い。こう見えてには素直と言う言葉が良く似合う。

「一杯位付き合ってくれないかい。何時も私ばかりが飲んで居ては不公平だ」
「…最近、何かを強いる事が増えましたね」
「嫌かい?」
「いえ、不快ではありませんが」

 じゃあ良いだろう。太宰は円卓の指定席に座るとを手招きした。食事をよそって居たは、じとりと太宰を見ると二人分の食事を盆に乗せてやって来る。そして訝しげにどんと置かれた酒瓶をちらりと見る。
 に様々な事を要求するのは、もっと沢山の見た事がないを知りたいからだ。もう数年傍に置いているとは言え、未だ知らない事も多い。殊出生については固く口を閉ざしている。どのような経緯で長い間娼館で働いていたのかも未だに太宰は知らない。
 だが過去は然程重要な事項ではない。太宰にとって大切なのはこれからのだ。未だ見た事のない表情、知らない声が知りたい。果ては凡てを手に入れたいと思う。その衣服の下の体温さえ。
 篭の中に閉じ込めて置くだけでなく、手中に収めてしまいたい。出来るだけそっと、逃げて仕舞わない様に。

「貴方ばかりが欲しがって居るみたいです」
「違わないの?」
「本気で言っておいでですか」
「それは…」

 光栄な事だ。が自分に興味を示している。目の前で発せられた言葉につい口の端が上がった。

「じゃあ私と酒を飲む事で見える物があるかも知れないね」
「人を丸め込むのがお上手だわ」

 小さく溜め息をついたは小さなグラスを二つ、円卓の上に置いた。それを誘いに乗ったと判断した太宰は酒瓶を開ける。ほんの少しで結構です、と言うの言葉を無視して半分ほど酒を注ぐと、彼女は嫌そうな顔をする。此処まで表情を歪める彼女もまた珍しい。上機嫌になった太宰は「乾杯」と言ってグラスを掲げて見せた。それに倣ってもグラスを持ち、カチンと鳴らす。
 紅い唇に透明な安物のグラスが引き寄せられて行く。自分も酒に口をつけながら、太宰の目線はの口元に釘付けだった。小さく喉が動き、が酒を嚥下する。すると、途端に噎せ込んだ。酒の味に慣れていないにはアルコールがきつかったらしい。だが尚もはグラスを両手で持つと中身を口に含む。背中を摩って遣ろうと思った太宰の手は行き場を失ってしまった。小さなグラスに半分しか入って居なかったが、にとっては随分な量だっただろう。それを一気に煽り、顔を歪めて見せた。

「何て無茶をする…」
「飲んで見れば分かる事が有ると言ったのは貴方です」
「そうだけど、一気に飲むもんじゃないよ。特にみたいな酒慣れしていない人間は」

 そうみたいです、と言うの目は既にぼうっとしている。いつもは死相の出ている真っ白な顔にも朱が差し、普段より余程健康的な顔色になった。更には、力が入らないのか太宰の方にしな垂れかかって来る。これには太宰も驚き、自身の肩に凭れるの小さな頭を眺めた。瞼は重そうに下がり掛かり、その度に瞬きを繰り返し必死に意識を繋ぎ留めているらしい。ほんのり体温の上がったの身体を感じながら、太宰も酒を口にする。何時もは美味い不味いがしっかり分かると言うのに、今日はまるで酒の味が分からない。それもこれもの所為だと太宰は頭の中で毒づいた。

「ほら、ご飯も食べないと」
「うぅん…」

 それが唸っただけなのか拒否なのかは分からない。小さく身じろぐもは太宰にぴったりとくっつき離れそうにない。空きっ腹に酒は大分きつかっただろう。それにしても酒が回るのが早いとは思うが。力無い舌足らずな声で「ごはん、いりません」と言うと、本格的に寝息を立て始める。
 これは、他の人間の居る前で酒を飲ませる訳にはいかない。無防備な寝顔を太宰に見せる。すっかり食事も冷めてしまったが、取り敢えずを膝の上に乗せると太宰は自分の食事に手を付ける。時々膝の上のを見るが、全く起きる気配が無い。未だ顔は紅く、何時もより幾分か呼吸が深い。
 こんなにも集中できない食事は初めてだと思いながら、太宰はまた一口、の作った味噌汁を啜ったのだった。








(2014/05/05)